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奴国は龍蛇神(ナーガ)国のことですよ~(#^.^#)

2024-10-31 00:00:01 | 古代史

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漢委奴国王の正体|

日本語の語源「な」音で読み解く奴国の場所と王の呼称
地図をなぞって日本古代史を考える@YouTube

@katumoku10
いい話題を有難うございます。奴の上古音はnag(=ナーガ)つまり蛇神あるいは龍蛇神が正しいことは金印のツマミ(鈕)が示しています。地名に那賀・那珂・長柄・中山などはすべて龍蛇神を信奉する江南出身の倭人アズミ族が拓いた土地なのです。

そして、奴国王の初代が新唐書・宋史 王年代紀に書かれた天御中主です。これは天はアメ=海を意味し、中=ナーガの主ですから龍蛇神を信奉する海人族の王という意味だったのです。春秋の呉は紀元前473年に越に滅ぼされて、半島南部に展開していた倭人に助けられた王族の一部が逃れて倭人の王となっていたと考えています。

紀元前4世紀初頭に福岡市吉武高木遺跡に半島南部から遷都した呉王族です。日本で最初の王墓が発見されています。三代の王と王妃や王族が葬られています。宋史王年代紀によれば、二代目は天村雲尊、三代目は天八重雲尊です。

 

三種の神器のある王墓は二代目だと分かりました。それは4代目の天爾聞尊(あめのににぎのみこと)に祖父の天村雲尊が王標を与えて、周辺の糸島平野や福岡平野を平定した史実が高天原神話の天孫降臨で使われたのです。


吉武高木遺跡の3号木棺墓の副葬品(やよいの風公園より)

四代目以降は王都を春日市須玖岡本遺跡に遷し、博多湾岸に比恵・那珂遺跡群に弥生時代最大の交易都市を建設して、隆盛になりました。後漢光武帝は倭国の珍しい品物(倭錦・勾玉や海産物など)を求めて倭国を訪れる華僑の交易を保護させる目的で金印を与えたことが岡田英弘「日本史の誕生」(弓立社)で説明されています。

そして須玖岡本遺跡のD地点王墓から鏡や剣などの立派な副葬品が見られますが、最も貴重なものは玉璧です。これは周代の子爵であった呉王の王標なのです。そして伊都国王墓や朝倉市峯遺跡からも玉璧の破片が出土していますので、奴国王族に与えたものだと推理しています。


甕棺の中の奴国大王 奴国の丘歴史資料館 (奴国の丘歴史公園)より

(鏡の下の穴あき円板が玉璧、【検証9】奴国時代の話(その2)参照)

華僑は当初は壱岐市原ノ辻遺跡で交易していましたが、より多くの品物を求めたので伊都国の三雲遺跡に滞在させ、今宿五郎江遺跡などで倭人との交易を許していました。比恵・那珂遺跡群には楽浪土器が見られませんので、華僑の行動を制限していたと分かります。恐らく防疫のためだと考えられます。

金印は第十六代奴国王沫名杵尊の時代だと考えています。奴国は父子で王位を継承したようです。十七代王が伊弉諾尊で、米子市妻木晩田遺跡を王都とする縄文海人ムナカタ族の王アタカタスの娘イザナミと結婚させて、ムナカタ族が支配する列島の交易システムを奴国王が管理したと考えています。伊弉諾尊は吉備や淡路島などに出かけて塩田開発を行い、大量の塩を生産させて海産物の輸出に力を入れたようです。

次の第十八代王素戔嗚尊は丹後半島で玉造工房を京丹後市奈具遺跡に作り、鉄製の工具を製造するために半島の慶州市(後の新羅)隍城洞遺蹟に出かけて鉄素材を独占的に入手したと考えています。奈具もナーガです。新羅4代脱解王のモデルと考えています。奈具神社の末社新羅神社ではスサノヲを祀っています。

そして、高天原神話では乱暴者の神として高天ヶ原から追放される話になっていますが、古事記はその真相を伝えていました。スサノヲは八百万の神々から髪の毛をむしられ、手足の爪を剥がされる拷問を受け、贖罪として全財産を没収されたとあります。

107年に後漢安帝に朝貢した倭国王帥升が160人もの生口(戦争奴隷)を献上したとあります。帥姓は元は師姓で、宮廷楽師の官位を表す姓だったのです。魏朝末ころの実力者司馬懿の長男司馬師の諱を避けるために帥姓にされたと記録にあります。つまりスサノヲは宮廷楽師らの反乱で捕らえられて、金印の在りかを白状させるために拷問を受けたということです(詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。

しかし、いち早くスサノヲの部下のアズミ族が金印を持って逃亡し、その途中の志賀島で石で囲った穴に隠した金印が江戸時代に百姓によって発見されたと分かります。


漢委奴国王印


この史実によって二世紀末の倭国大乱の原因がわかりますし、その後の卑弥呼の登場、そしてヤマト王権の成立までの戦いが分かりました。戦いの痕跡の詳しい話は「刮目天の古代史 鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」をご参照ください。

多くの皆さんは記紀神話が江戸時代に本居宣長・平田篤胤らによって作られたことに気付いていません。また日本神話は八世紀に藤原不比等によって創られたのですが、神仏習合、修験道などの影響で龍蛇神(ナーガ)信仰の中世日本紀という神話に読み替えられていたのです(斎藤英喜「読み替えられた日本神話」講談社現代新書 参照)。このことに気付くと古代史の謎がイモずる式に解けてきます。長々とお邪魔しました(;^ω^)

@katumoku10
追加で恐縮ですが、ナーガに関しては、邪馬台国宇佐説を最初に学説とされた富来隆(とみくたかし)先生の「卑弥呼-朱と蛇神をめぐる古代日本人たち-」(学生社)に解説されていました。その<抜粋>は以下ですぐに読むことができます。これによってトビはナーガの別名でヘビ神=大国主のことだと分かりました。是非ご覧ください(#^.^#)

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王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆

 

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