刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

奴国は龍蛇神(ナーガ)国のことですよ~(#^.^#)

2024-10-31 00:00:01 | 古代史

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漢委奴国王の正体|

日本語の語源「な」音で読み解く奴国の場所と王の呼称
地図をなぞって日本古代史を考える@YouTube

@katumoku10
いい話題を有難うございます。奴の上古音はnag(=ナーガ)つまり蛇神あるいは龍蛇神が正しいことは金印のツマミ(鈕)が示しています。地名に那賀・那珂・長柄・中山などはすべて龍蛇神を信奉する江南出身の倭人アズミ族が拓いた土地なのです。

そして、奴国王の初代が新唐書・宋史 王年代紀に書かれた天御中主です。これは天はアメ=海を意味し、中=ナーガの主ですから龍蛇神を信奉する海人族の王という意味だったのです。春秋の呉は紀元前473年に越に滅ぼされて、半島南部に展開していた倭人に助けられた王族の一部が逃れて倭人の王となっていたと考えています。

紀元前4世紀初頭に福岡市吉武高木遺跡に半島南部から遷都した呉王族です。日本で最初の王墓が発見されています。三代の王と王妃や王族が葬られています。宋史王年代紀によれば、二代目は天村雲尊、三代目は天八重雲尊です。

 

三種の神器のある王墓は二代目だと分かりました。それは4代目の天爾聞尊(あめのににぎのみこと)に祖父の天村雲尊が王標を与えて、周辺の糸島平野や福岡平野を平定した史実が高天原神話の天孫降臨で使われたのです。


吉武高木遺跡の3号木棺墓の副葬品(やよいの風公園より)

四代目以降は王都を春日市須玖岡本遺跡に遷し、博多湾岸に比恵・那珂遺跡群に弥生時代最大の交易都市を建設して、隆盛になりました。後漢光武帝は倭国の珍しい品物(倭錦・勾玉や海産物など)を求めて倭国を訪れる華僑の交易を保護させる目的で金印を与えたことが岡田英弘「日本史の誕生」(弓立社)で説明されています。

そして須玖岡本遺跡のD地点王墓から鏡や剣などの立派な副葬品が見られますが、最も貴重なものは玉璧です。これは周代の子爵であった呉王の王標なのです。そして伊都国王墓や朝倉市峯遺跡からも玉璧の破片が出土していますので、奴国王族に与えたものだと推理しています。


甕棺の中の奴国大王 奴国の丘歴史資料館 (奴国の丘歴史公園)より

(鏡の下の穴あき円板が玉璧、【検証9】奴国時代の話(その2)参照)

華僑は当初は壱岐市原ノ辻遺跡で交易していましたが、より多くの品物を求めたので伊都国の三雲遺跡に滞在させ、今宿五郎江遺跡などで倭人との交易を許していました。比恵・那珂遺跡群には楽浪土器が見られませんので、華僑の行動を制限していたと分かります。恐らく防疫のためだと考えられます。

金印は第十六代奴国王沫名杵尊の時代だと考えています。奴国は父子で王位を継承したようです。十七代王が伊弉諾尊で、米子市妻木晩田遺跡を王都とする縄文海人ムナカタ族の王アタカタスの娘イザナミと結婚させて、ムナカタ族が支配する列島の交易システムを奴国王が管理したと考えています。伊弉諾尊は吉備や淡路島などに出かけて塩田開発を行い、大量の塩を生産させて海産物の輸出に力を入れたようです。

次の第十八代王素戔嗚尊は丹後半島で玉造工房を京丹後市奈具遺跡に作り、鉄製の工具を製造するために半島の慶州市(後の新羅)隍城洞遺蹟に出かけて鉄素材を独占的に入手したと考えています。奈具もナーガです。新羅4代脱解王のモデルと考えています。奈具神社の末社新羅神社ではスサノヲを祀っています。

そして、高天原神話では乱暴者の神として高天ヶ原から追放される話になっていますが、古事記はその真相を伝えていました。スサノヲは八百万の神々から髪の毛をむしられ、手足の爪を剥がされる拷問を受け、贖罪として全財産を没収されたとあります。

107年に後漢安帝に朝貢した倭国王帥升が160人もの生口(戦争奴隷)を献上したとあります。帥姓は元は師姓で、宮廷楽師の官位を表す姓だったのです。魏朝末ころの実力者司馬懿の長男司馬師の諱を避けるために帥姓にされたと記録にあります。つまりスサノヲは宮廷楽師らの反乱で捕らえられて、金印の在りかを白状させるために拷問を受けたということです(詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。

しかし、いち早くスサノヲの部下のアズミ族が金印を持って逃亡し、その途中の志賀島で石で囲った穴に隠した金印が江戸時代に百姓によって発見されたと分かります。


漢委奴国王印


この史実によって二世紀末の倭国大乱の原因がわかりますし、その後の卑弥呼の登場、そしてヤマト王権の成立までの戦いが分かりました。戦いの痕跡の詳しい話は「刮目天の古代史 鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」をご参照ください。

多くの皆さんは記紀神話が江戸時代に本居宣長・平田篤胤らによって作られたことに気付いていません。また日本神話は八世紀に藤原不比等によって創られたのですが、神仏習合、修験道などの影響で龍蛇神(ナーガ)信仰の中世日本紀という神話に読み替えられていたのです(斎藤英喜「読み替えられた日本神話」講談社現代新書 参照)。このことに気付くと古代史の謎がイモずる式に解けてきます。長々とお邪魔しました(;^ω^)

@katumoku10
追加で恐縮ですが、ナーガに関しては、邪馬台国宇佐説を最初に学説とされた富来隆(とみくたかし)先生の「卑弥呼-朱と蛇神をめぐる古代日本人たち-」(学生社)に解説されていました。その<抜粋>は以下ですぐに読むことができます。これによってトビはナーガの別名でヘビ神=大国主のことだと分かりました。是非ご覧ください(#^.^#)

【関連記事】
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆

 

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抹殺された尾張氏の謎(その2)

2024-10-30 09:20:52 | 古代史

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#2024-04-05 09:53:10の記事に赤字で加筆しました。よろしければお付き合いください(#^.^#)

#2022-02-07 20:19:46の記事の図のリンクが切れていましたので修理しました。

#昨日2022-02-06 00:44:45にこの記事をアップしましたが、蟹江町をあま市と間違って書いてしまいましたので、お詫びして訂正いたします。また、日本建国に関わる人々の図について、(注4)に補足を追加しました。ご確認ください。なお、この図は現在までの調査で判明したものですので、今後も追加変更を加えるつもりです。いろいろと疑問点などお寄せ下さい。どうぞよろしくお願い致します。

以下に、前掲のkunorikunori様のブログでのコメントのやりとりのつづきを要点のみ書きます。
和邇良神社という名を聞いて、
近江にある伝承を思い出しました。
迦邇米雷王が神功皇后の祖父となる。
迦邇米雷王の息に息長宿禰王(気長宿禰王)

蟹と米「和邇氏(丸邇氏)の伝承(1)追記」



刮目天
良い情報をありがとうございます。早速チェックしてみました。
しかし、この系図は信ぴょう性がないと思います。
崇神天皇と彦坐王(ワニ氏遠祖の姥津命の妹の姥津媛(ははつひめのみこと)との間に生まれた第9代開化天皇の皇子)とその子が四道将軍のひとりとしてタニワに派遣された丹波道主というのはすべて饒速日の子孫ということで尾張氏ともつながりますが、神功皇后台与の父息長宿禰は卑弥呼と同じ縄文系ムナカタ族の支族ですよ。また日本武尊は架空の人物ですし、応神天皇までの人々は崇神天皇と同時代人ですから、やはり、建国の史実を大和朝廷が隠すためにいろいろと工作しているようですね!
(コメント内の黒字は後で補ったものです。以下同様)

そういう目で見ると、神功皇后台与の祖父とされる迦邇米雷王ですが、カニは尾張氏(注1)、雷は大国主に国譲りさせたタケミカズチつまり大国主と台与を父王の仇で殺した尾張王建稲種命です。日本書紀では九州遠征した景行天皇(オオタラシヒコオシロワケ)として建稲種命の史実を隠しています。建稲種命は建国の英雄日本武尊(ヤマトタケル)のモデルです。伝承では副将として東海道遠征に参加し、途中で駿河湾で水死したとありますが、沼津市御幸町遺跡で大国主傘下の流れ矢に当たって戦死しましたが、尾張勢が駿河を平定して高尾山古墳に埋葬されたと推理しています(詳細は「【検証26】建稲種命の終焉の地は?」参照)(2024.10.30 赤字追加修正)

そして、尾張国造の祖で「先代旧事本紀」の乎止与命(おとよのみこと『新撰姓氏録』では小豊命)の子の建稲種命ということです。つまり、乎止与命は大国主と台与とさらに和邇氏の祖赤坂比古(卑弥呼の弟、先代が卑弥呼の父、「愛宕権現の正体は赤坂比古か?」参照)に殺されたタラシナカツヒコで日本書記の仲哀天皇ということになりそうですよ。卑弥呼の弟(赤坂比古)も建稲種命に敵討され、鳥栖市の愛宕神社古墳に葬られています。愛宕権現ということですが、タケミカズチの父カグツチやカグツチの母イザナミと習合したりしているようです(「火の神カグツチの正体ってか?」参照)。カグツチ秋葉神社祭神として、全国で祀られていますが、愛知県の数が一番多いです。

そして、乎止与命って女の名前のようですが、違うと思います。名前に「乎」が付くのは奇妙ですので、意味がありそうです。漢文では「トヨによって」の意味にとれますから、「誅殺された」が略されていると思います。これは、シナの諡法で仲哀天皇としたのが春秋公羊伝にある斉の哀公の故事に因むものだと思うからです(注2)


十拳剣「天之尾羽張(アメノオハバリ)」
「おわはり」と読めますね。

刮目天
古事記では十拳剣「天之尾羽張(アメノオハバリ)」はイザナギがカグツチを斬った剣です。日本書紀では、天之尾羽張神の子タケミカヅチ(カグツチを斬った剣の血のしずくから生まれたとも)が大国主に国譲りを迫ったのですから、尾張と関係が大有りですよ(笑)。つまり、仲哀(カグツチ)・景行(タケミカズチ)の話は尾張氏だという暗示で、古事記は真相をそれとなく暴露したもののようですね(^_-)-☆
そして神武東征の折に高倉下(アメノカグヤマ)がこの剣を献じたことになっていますが、現在どこに祀られているのでしょうかね?鹿島神宮?

あ、先ほどの迦邇米雷王の米ですが、尾張氏の遠祖の建斗米命(たけとめのみこと、ニギハヤヒの5世孫)に見られますが、どうなんでしょうかね?


その後、「米(め)」が「目」とすれば頭目の意味かも知れないと分かりました(古代史探訪「迦邇米雷王(かにめいかづちのみこ)②」2021年 11月 20日より)。「迦邇米」はカニの頭(かしら)、つまり尾張王を意味するかもしれません。そうであるなら、迦邇米雷王は尾張の雷王ですからタケミカズチ(景行天皇)を示唆しています。「日本書紀」で孫の仲哀天皇の妃にした神功皇后の祖父として景行天皇の別名を当てたデタラメな系図だと思われます。息長氏は台与の一族で、卑弥呼の一族の和邇氏とともに天皇の妃を出した縄文海人ムナカタ族を祖とする一族であることを隠すために創作された系図だと考えられます。

台与の父である息長宿禰は、古事記神話では大国主の国造りのパートナーの少彦名(スクナヒコナ)のモデルではないかと考えています。大国主の分身サルタヒコが巨漢ですから、息長宿禰王が小柄だったことでスクナヒコナとされたのではないかと想像しています( ^)o(^ )

そして藤原氏・中臣氏が行った尾張隠しの最大の仕掛けがヤマトタケル伝説の創作です(「ヤマトタケルの正体は誰?」参照)。尾張氏はデタラメな伝説の尾ひれ背ひれの作り話で訳分からなくされて力を失い、他の有力な豪族と共に朝廷の中枢から追い落とされてしまいます。

尾張には一之宮とされる一宮市の大神神社(祭神は大物主大神)の他に真清田神社も一之宮としていますが、このような場所はいくつかあるようですが、理由がありそうです(注5)。真清田神社の祭神は天火明命(あめのほあかりのみこと)ですから、尾張氏の祖のニギハヤヒのことです。だから尾張の人々が一之宮だと主張する気持ちが痛いほどわかりますね。


それに対して一之宮ではないですが尾張で格別に尊崇を集めてきた熱田神宮の主祭神は熱田大神で草薙神剣を御神体とする天照大神としています。相殿神に、天照大神、素盞嗚尊、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命となっています。神社由緒書によれば、景行天皇四三年に「日本武尊、伊勢の国・能褒野(のぼの)にて薨去(こうきょ)草薙神剣を熱田の地に祀る」とあります(注3)。

ヤマトタケル妃宮簀媛命(みやずひめ)が創始したとありますが、wiki「熱田神宮」によれば「熱田神宮の創建はずっと時代が下った仲哀天皇元年であるとも646年(大化2年)であるともいわれる。」と曖昧です。相殿神に景行天皇が祀られず、代わりに宮簀媛命の兄の建稲種命となっているのです。建稲種命はヤマトタケルの東征に従軍し、帰路、水軍を率いていた建稲種命がめずらしい海鳥を見つけて、ヤマトタケルに献上しようと、捕まえようとして駿河の海に落ち水死し、ヤマトタケルが嘆き悲しんだという話になっています。

すでに、ヤマトタケルは、日本建国の史実を隠すために日本書紀に登場させたスーパースターであることは分かっています(「ヤマトタケルの正体は誰?」参照)。ですから、実際に東征を行った人物は尾張王の建稲種命であることは直ぐに分かります。そして建稲種命が父の仇討で九州遠征した史実は景行天皇として隠されたということも上で述べています(注1)。

今回の推論で、日本建国の史実に登場する主要な実在人物がすべて判明しました。記紀などの登場人物との関係も分かりましたので、図にまとめました(注4)。「日本書紀」は天武天皇が崩御して34年後に完成しましたが、朝廷が苦心した様子が良く分かりますね(;一_一)

(その3)「尾張と言えばカニだ~わ!」につづく>

抹殺された尾張氏の謎(その1)



【関連記事】

【検証19】日本建国のための戦いだ!

(左クリックで拡大)

(注1)愛知県海部郡蟹江町のマスコット・キャラクターがカニ、常滑市尾張多賀神社の神の使いがカニです。伊勢湾の名古屋市付近の海岸には昔から多くのカニが生息していたようです。

熱田神宮は元々は建稲種命の居館があった場所ではないかと思います。(その1)で蟹原の元の地名は和邇原(わにはら)で、当時の海岸線からかなり離れた高台ですのでカニが上がってくることはなかったのではないかと思います(「わにはら」の地名の由来は応神紀に千字文を伝えた王仁に因む模様で、名東区和邇良神社の解説参照)。しかし、熱田神宮の付近は当時の海岸線に近いので多くのカニが生息していたはずです。「サル・カニ合戦の元ネタは日本建国の戦いだった?」で尾張氏配下の海部氏がカニが多く居た海辺の蟹江に住んでいたことに因んで尾張氏をカニに準えたとしましたが、建稲種命の居館のことだったようですね( ^)o(^ )。
と書きましたが、調査したところ、名古屋市内のほぼ全域でカニが見られますので、蟹原にも沢山のカニが居たと思われます(「尾張と言えばカニだ~わ!」参照)。

(注2)wiki「春秋公羊伝」によると『春秋』の注釈書であり、『春秋左氏伝』・『春秋穀梁伝』と並んで、春秋三伝の一つとされる。『公羊伝』は斉の地に栄えた学問と考えられており、「復讐説」などの春秋学の根幹となる思想を解明した。とあります。天皇の諡号は中国戦国時代に成立した『逸周書・諡法解』に定められた諡法に従うことになっています。

wiki「淡海三船(おうみ の みふね)」によれば、「神武天皇から光仁天皇までの漢風諡号を選定したともいわれる」とあり、「聡明で鋭敏な性質で、多数の書物を読破し文学や歴史に通じていた。」と評されています。

仲哀天皇の諡号については、以下の春秋公羊伝の荘公四年に斉の襄公が九代前の祖先の仇に復讐するために今の紀侯を滅ぼしたことが許されるのかどうかについて議論している文章があり、その中に「哀公亨乎周,紀侯譖之(斉の哀公が周王により煮殺された。これは紀侯の讒言による)」から「哀」の諡を撰したものと考えられます。
「紀侯」は木の霊五十猛(イタケル)の子孫大国主久々遅彦によって仲哀天皇が殺されたという話と言うことであれば、淡海三船は尾張王が大国主に殺された史実を理解していたということでしょう。

また、「門脇禎二によれば、諡法においては「仲」の字は配すべからざる語であり、漢風諡号としては異例であるとされる[1]。」とあり、「仲」は次男の意ともありますが、日本武尊(ヤマトタケル)の次男かどうかははっきりしませんし、ヤマトタケルの死んで38年して生まれた計算になるので、杜撰な作り話です。従って、通説では仲哀天皇の存在自体が否定されています。


また、景行天皇については、諡号解に「景」には
・仁義に基づき世を良くした。(由義而濟)
・仁義を広め、国を強化した。(布義行剛)
・深く配慮の行き届いた政をした。(耆意大慮)

という意味があり、立派な行いをした天皇という諡になります(崔浩先生の「魏晋南北雑学」「諡」講座 より)。上の公羊伝で述べられた通りですので、やはり三船は恐らく建国の史実を理解していたようです。

(注3)「天孫降臨と草薙剣の謎?」に述べましたが、ヤマトタケルは実在しませんので、草薙神剣も存在しないはずです。その元となるスサノヲのヤマタノオロチから出てきた天叢雲剣というのも作り話です。しかし、王年代紀第二代王天村雲尊から第四代王天彌聞尊(ニニギノミコト)に伝えられた剣が存在するのかも知れません。被葬者を天村雲尊と推定した吉武高木遺跡の三号木棺墓から銅剣が出てきていますので、このようなものが伝わっていればそれが本物の天叢雲剣でしょう(^_-)-☆

(注4)実在人物と考えていますが、名前は記紀などにあるものですので、実名ではないかも知れません。

四道将軍のひとりで、北陸道を攻めた大彦命は、埼玉県行田市で発見された稲荷山古墳出土鉄剣の銘文に「乎獲居臣上祖名意富比垝(ヲワケの臣、オオビコを上祖とする)」とあるので、実在人物と思われます。しかし、大彦命の年代は崇神天皇時代ですので、孝元天皇の皇子の開化天皇と兄弟とするのは時代が合いませんので間に何代か居るように改訂しました。また、四道将軍のひとりで東海を上った子の武渟川別は古事記では建沼河別命とあり、尾張氏を示唆する名前になっています。ヤマトタケルの東征ルートとも重なり、尾張王建稲種命のことだと考えています。

また、丹波(たにわ)に向かった丹波道主ですが、これを上祖とする有力氏族が分かりません。また、吉備を攻めた吉備津彦の名前は時代を遡るニギハヤヒを隠すために使われていますから、これら二人の将軍は別の人物かも知れませんので、この図に載せませんでした。吉備の方は尾張王建稲種命が九州遠征の途中で攻めたのかも知れませんね。(2022.2.7 追加)

(注5)「一之宮」について思い違いで「他にない」と書いていましたが、間違いでしたので赤字で訂正しました。Wikiによれば、『現在、一宮の起源は「国司が任国内の諸社に巡拝する順番にある」とするのが通説になっている。・・・通説では11世紀から12世紀にかけて成立したとされる。・・・民衆の一般的な崇敬を基にして起こった神社への等差的観念が「一宮」の選定と言う形になって現れ、それ故に官製の正式な文献に記録されなかったとしている[7]。』とあります。(2022.2.16 追加)


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【楽しい邪馬台国問題】いろんな意見があるもんですね( ^)o(^ )

2024-10-27 22:09:22 | 古代史

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2024-07-27 13:29:39に公開した記事「纏向遺跡は狗奴国(旧奴国)だったのだ(;^ω^)」でご紹介した

【ゆっくり解説】考古学から見た邪馬台国大和説『畿内ではありえぬ邪馬台国』れーしch【歴史】@YouTube にユーザーからのいいコメントがありましたので、こちらもコメントしましたら、別の方が割り込んできて議論したところ、どういう訳か分かりませんが、途中でご自分のコメントとわたしのコメントまで削除したようです。分かり難いかも知れませんが、邪馬台国問題に対するいろいろな考え方が分かりますので、楽しいですよ!よろしければお付き合いください(#^.^#)

@yanbo397
日本人が邪馬台国の存在を知ったのは、魏志倭人伝の記述からで唯一の資料といっても良い。その中で伊都国(現在の福岡県糸島市)までの道程は、九州・畿内の両説とも認めています。
さらにこの後、邪馬台国の北に伊都国があるとはっきり書かれています。道程記述でも最後に南へ進む記述もあり、報告書を2か所も間違えるとは考えられません。
 これで邪馬台国の位置関係がはっきりし、畿内など論理的にありえません。なぜか畿内説論者はこの話には無視を決め込んでいます。初めから九州もしくはそれ以南と決まっています。考古学の発掘でも、倭人伝記述にそっくりな住居跡(楼観含む環濠集落)を発見したのは、今もって九州のみという事実。鉄製矢じりの記述に対しても圧倒的な差(鉄器の発見が福岡県720個以上、奈良は弥生時代全般でもわずか4個)。時代がさかのぼる年輪測定法でやっても、この割合は変化なし、または広がるかもしれません。
 このように確実な具体的根拠があるのが九州説。ゆえにYouTubeの多くが九州説支持です。畿内説が言ってきた根拠らしきものは全て論破されています。三角縁神獣鏡は送ったとされる中国では1枚も発見されておらず、桃の種に至っては倭人伝に「邪馬台国の人々は甲羅や骨を焼き、はいったヒビを見て占っている」との記述があります。いかに畿内説の学者は倭人伝記述を読まず、権威者にヨイショするかだけを考えているようです。日本の考古学者も論理や発掘結果を認めないようでは嘆かわしい。権力の犬にならず、学者として誇りを持ってほしいものです。

@katumoku10
同感です。ではなぜ纏向説に固執するのかは、現状の九州説が考古学的に十分ではないから対抗できるという姿勢だと思います。でもこれもおかしな話です。
これだけ暗礁に乗り上げている状態では、何か考えないと解決は望めませんね。
邪馬台国への行程記事が、北部九州から水行三十日・陸行一月などという、普通の里数表現しない理由は何でしょうか?これが邪馬台国へ到達できない理由なのです。
それを、多くの皆さんは魏志倭人伝は正しく書かれているはずだから、正しく解釈すれば正しい答えが得られると考えているようなのです。短里とかいろいろ発明しますが、解決できません。でも、これっておかしくないですか?
魏志倭人伝が何故、書かれたのか、どんな資料をもとに陳寿が書いたのか?目的と内容の信ぴょう性をもっと議論しないから解決しないのだと思いますよ。
実際に検討してみると、人前に出ないとされた、途轍もなく遠い南の海上に居る卑弥呼が、倭国の統治者である女王というのも怪しいです。政治を補佐する男弟が実質的な倭国王で、伊都国が外交・政治の中心地ですから伊都国男王が本当の倭国王だと直ぐに分かります。2度目の魏使張政は魏の正規軍の旗「黄憧」を大夫難升米に渡しているので、彼が倭国軍を動かせる本当の倭国王なんですよ。魏使は邪馬台国まで行く必要もないのです。
ですから、卑弥呼は倭王でも女王でもない媛巫女ですから邪馬台国が大集落だというのも嘘でしょう。倭国をエキゾチックな東夷の女王に統治された大国に見せるための潤色と見るべきです。
そうすると、邪馬台国はどこなのかという話ですが、卑弥呼が存在するのはいいとして、政治的にはほとんど意味がない話になります。
ですから、後は、持ち運べるような遺物ではなく、径百余歩(直径約150m)の巨大な塚(円墳)が見つかればそこを卑弥呼の墓の候補となります。そして卑弥呼が兵士に厳重に護られた場所ですから、城柵のある環濠集落ですね。しかも、北部九州かその周辺にあるはずです。そのような候補地が見つからないなら卑弥呼は架空の人物としてよいと思います。
しかし、その候補地をすでに発見しました。そして、なぜそこに卑弥呼が居たのか、卑弥呼の正体は誰かも考古学や民俗学の成果に基づいて推理しています。詳しくは「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」をご参照ください。ご意見など頂けると嬉しいです(;^ω^)

@zennin375
距離も方角も合わない糸島を伊都国としている時点でどちらも恣意的な解釈だと感じる

@katumoku10
@zennin375  さん
違和感は纏向が邪馬台国であるはずという思い込みからではないですか?
壱岐から九州の松浦市と思われる末羅国に上陸するのは自然です。そして次の伊都国が糸島市というのは距離と方角が違うと言っても、魏志倭人伝に男王が居ると書かれており、糸島市の三雲遺跡に王墓がありますから伊都国は糸島市と見るのは考古学的に妥当ですよ。何故距離と方角が違うのかは上で説明したとおり、邪馬台国への行程記事が政治的な理由で改ざんされているからと考えるのが妥当な推論ですよ。恣意的な解釈とは少し異なるのですよ。理解できますか?
理解できないというのであれば、なぜ糸島市の考古学成果を無視するのか説明できますか?男王が居た伊都国はどこですか?(;^ω^)

@zennin375

<コメントが削除されていましたので復元できませんでした。残念!>

@katumoku10<消されたコメント>
 @zennin375  それは一部当たっています。なぜならば、絶対にあり得ない畿内説をメディアを使って大衆に認めさせようとする姿勢は学問の冒涜でしかないからですよ。
でも、そういう感情的な話は正解に到達するための邪魔になります。
あなたはもっと根本的な思い込みに気付く必要があるのです。
古代史に謎があるということは文献と事実、つまり考古学や民俗学のなどの学術的な成果と一致しないことから起こっていることに気付いてください。事実を無視して想像するのは空想ですし、それに固執すると妄想です。事実で物事の真偽を確認するやり方が学問の正しい姿勢ですよ。あなたは学術問題と感情の問題の区別がつかないようなので、これ以上議論しても無意味です。もしもまだ続けたいのであれば、拙ブログにコメントしてください。答える価値があるのなら回答しますよ。よろしくお願いします(;^ω^)

@zennin375

@katumoku10 あなたこそ反論する相手は畿内説であるはずだという思い込みがあるように見受けられます。

@katumoku10

@zennin375 さん 先ほど回答したのですが(@katumoku10の消されたコメント)、誰かが消してしまいましたので、誰かにとって都合が悪い話のようです。 もっと議論したければ拙ブログにお越しください(;^ω^)

@zennin375

@katumoku10ストローマンとは議論が成り立たないので遠慮します

****************************************

以上のやり取りがありましたが、先に述べたとおり、@zennin375さんは意図的に、議論の内容が残らないようにわたしのコメント(@katumoku10)を消したようですが、当方は削除対策で大体控えをとっていますので復元できました(時々、控えを忘れてしまうので、できるだけ思い出すのに時間がかかりますが;^ω^)。ご自分のコメント(@zennin375)まで消すことないのに。当方が思い込みで発言したのなら、どういう思い込みなのかキチンと分かるように反論すればよいものを。何も削除までしなくてもよさそうなものですがね。ご自分でハンドル名を「善人」にしているくらいですから、当方に対する善意なのですかね(;^ω^)

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【関連記事】

【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆

文献にウソが書かれている場合、どのようにしてそのウソを暴くか?科学的な手法がアブダクションと呼ばれる科学的手法です。初めての方は是非、ご参照ください(#^.^#)

【古代史問題の科学的解決手法

なぜ邪馬台国問題が解決しないのか?( ゚Д゚)

C.S.パースによれば、人間はいつも疑念(Doubt)を持った場合には探求(Inquiry)をする生き物のようです。パースの言う探求とは、日常生活の一場面で頻繁に行われるものから、最先端の科学研究まで、幅の広い精神活動だとしています。そして、多くの場合、最初の疑念を持った事象を説明付けるものを論理的に推論(Reasoning)するのが探求ですが、最終的に信念(Belief)が生まれることによって探求は終わります。その信念は四つの方法で生まれるとしています。

【参考文献】
赤川元昭「パースと科学の方法」流通科学大学論集ー流通・経営編ー23巻2号,75-90(2011)

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【刮目天の古代史】そこまで言ってホントに委員会?

2024-10-25 19:06:34 | 古代史

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#人気テレビ番組の竹田恒泰氏の国史に関するとてもいい企画でしたので、ついコメントしました。しかし、Up主様の気持ち?と異なる以下のコメントは削除すべきなのですよね(;´Д`)

これが戦後のマスメディアの一貫した言論統制のやり口なのでした( `ー´)ノ

よろしければお付き合いください(#^.^#)

古来日本人の姿とは!?日本の古代史を徹底追及!

(テーマ別)【そこまで言って委員会NP|2024年10月13日放送】
【公式】そこまで言って委員会NP@YouTube

@katumoku10
古代史は謎が多いのでロマンだとほとんどの方は思っているようですが、よくよく考えると、文献と事実、つまり考古学や民俗学などの成果が一致していないことから生じています。普通だったら事実に基づいて文献を疑うのですが、記紀が天皇の歴史書だと洗脳されていますので、これ以上解明できなくなっています(;^ω^)

現存する最古の正史「日本書紀」は天武天皇が編纂を命じたのですが、崩御から34年後の720年に完成しているのです。時の権力者は藤原不比等でした。藤原氏に都合の悪い3世紀の建国時代までの歴史を神話に閉じ込めて、人代もかなり歴史を改ざんしていることが事実から判明しています。

日本書紀よりも先の712年に完成したとされる古事記ですが、9世紀の学者が突然表に出してきたものなのです。古事記の記録が正史にはありませんし、日本書紀が古事記を参照した痕跡もないのです。概ね日本書紀に添っていますが、独自の大国主神話なども見られ、所々日本書紀と違えています。事実を調べると、日本書紀が隠した史実をそれとなく暴露する暗号書だったのです。

3世紀までの日本建国の過程が事実から分かりますので、古事記の暗号を解くと空白の4世紀に二人の天皇が隠されていることも、5世紀の倭の五王の系譜も判明しました。富雄丸山古墳の被葬者も推定できました(詳細は「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)(その3)」「富雄丸山古墳に隠された大きな秘密?」をご参照ください)。

卑弥呼が記紀に登場していないと皆さん思っていますが、宇佐神宮の祭神比売大神で宗像女神市杵島姫が卑弥呼だと判明しました。魏志倭人伝にある径百余歩の冢(直径約150mの急造りの円形墳墓)が宇佐市安心院町宮ノ原遺跡の「三柱山古墳」と分かりました。

不比等が権力を握るために行った天武天皇崩御後に即位した高市皇子暗殺を隠すために歴史を改ざんしたと分かりました。高市皇子の母親宗形氏の身分が低いので天皇になれないというウソのために、宗像女神の卑弥呼が隠されたのです。

記紀が天皇の歴史書という洗脳が解けて勝者藤原氏の歴史書だと分かればほとんどの古代史の謎が解けますよ。よろしければ【刮目天の古代史】をご参照ください。お邪魔しました(;^ω^)

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@誠爽花
皆さんの歴史観や見識の深さ、実際に現地に行きその名残を感じてきた、ゆえの愛国心に、めっちゃ感動してます😭✨️

@katumoku10
イデオロギー歴史観で歴史を捉えると事実とは一致しないことの方が多いので学問になりませんよ(;^ω^)
上で詳しく述べましたので、どうぞ(#^.^#)

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@sir.z7913
自国の歴史を国民に教育して、自国に誇りを持たせることは、本当に日本にとって、最も重要なことだ。「日本の王朝は、世界で一番古く、長い」という事を、全国民に教える事は、本当に重要だ。竹田先生 素晴らしい業績です。

@wayamato9226
@sir.z7913  🗽🇺🇸では歴史的英雄物語を常に放送📺して勇気づけているとか〜それで元気なアメリカになってるとKギルバートが言っていた〜

@katumoku10
愛国心を鼓舞するのは日本人として当然のことですが、歴史学は学問ですから、イデオロギーで真実を追求できませんよ。お隣の国々の歴史と変わらなくなりますから( ^)o(^ )史実(事実)に基づく歴史を書く必要があるのです。その中に英雄譚も出てくると思いますよ(#^.^#)

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@yusukewatanabe6649
神話を捨てた民族は3代で滅亡するから本当神話大切にして欲しい。ギリギリセーフよね

@wayamato9226
英国歴史学A.トインビー言っていた〜

@通りすがり-p6o
神話がないアメリカは、必死になって神話を1からCREATEしているのですね

@katumoku10
日本神話は8世紀に創作されたのですよ。記紀神話は江戸時代からです。それまでの日本の神話は、神仏習合、修験道などの影響を受けた龍蛇神(ナーガ)信仰の中世日本紀と呼ばれるものだったのです。詳しくは「刮目天の古代史 日本神話は八世紀の創作ですよ!」をご参照ください。これが分かると、ほとんどの謎が解けましたよ(#^.^#)

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@m41-h7e
左翼から評判が悪いという事は、良い教科書と言うことだな。

@takehisakita9498
その通りですね
サヨクや特亜が批判するってことは日本人にとって素晴らしい教科書って事ですね

@katumoku10
歴史学は学問ですから、右や左の思想の方は真実の探求は無理ですよ(;^ω^)

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竹田恒泰「天皇の国史(上)」PHP文庫を購入して読みました。特に面白かったのは以下の※神武天皇「非実在論」を検証する(pp.186-191)の高度なレトリックでした。

非合理な記述があれば、その部分は信じないのが学問的に正しい態度である。もし神武天皇が一三七歳まで生きたというのが信じられないなら、その部分は無視すればよい。非合理なことを根拠に導き出された結論は非合理であるから、「一三七歳まで生きた」という非合理な記述を信じて導かれた「神武天皇は実在しない」との結論は、論理的に非合理である。

その結論に辿り着くまでの間に一度「一三七歳まで生きた」という部分を信じなければならないからである。これは、嘘つきが「自分は嘘をついている」と言った時のパラドックスと同じである。

え?え?え?「一三七歳まで生きた」というのはバカバカしい非合理なことだから、この非合理な記述を根拠にして「神武天皇は実在しない」と結論するのは非合理なのか?

<中略>

確かに「非科学的」「非合理的」なものを否定する考え方には一定の説得力がある。しかし、「非科学的」「非合理的」な記述の中にも、一定の真実が含まれている場合がある。『記』『紀』には、神武天皇の東征が書かれている。国家を統一する力が九州から来たことなどは、考古学の成果とも符合するため、一定の史実性を見出すことができる。正史に記されているにもかかわらず、その全てを『記』『紀』編纂者の作為として片付けるのは乱暴である。

<中略>

国家でも会社でも、創始者の名前と事績は時代が下がっても記憶されるものである。九州から大和へ集団の移動があり、ヤマト王権の基礎が固まったという伝承は、『記』『紀』が編纂された七世紀まで、史実として伝承されたと考えねばならない。

『紀』日本書紀)は確かに正史、つまり当時の朝廷の公式文書だけど、それが真実を述べていない部分が一つでもあれば、何故、真実を述べなかったのか?正史は何の目的で作られるのか?を深く追求する知恵が欲しいところです。また、『記』(古事記)に至っては、その正体は、日本書紀が隠した史実を暴露する暗号書だと分かっています。ですから、『記』『紀』が天皇の歴史書だという思い込み・洗脳から抜け出せないと、一定の史実性があるなどというのは勘違い以外の何ものでもないのです(#^.^#) だって、ヤマト王権が成立したと分かる纏向遺跡の前方後円墳が出現する3世紀の日本建国の時代に、ヤマトに九州から武力集団が押し寄せて征服した考古学の証拠など何ひとつないから分かるのです。九州の外来土器など纏向遺跡にはほとんど出土してないのです。まして紀元前660年に即位した神武天皇の実在性は、竹田氏の「そうあるべきだ」という希望的観測による事実誤認でしかないのですから( ^)o(^ )

【県連記事】

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆


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日本人の神様って?(@_@)

2024-10-24 00:00:09 | 古代史

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#著名な評論家の神道に関する興味深い動画がYouTubeにありましたので例によってコメントしました。よろしければお付き合いください(#^.^#)

神社は全てでっち上げ?神道の本質とは。 【岡田斗司夫 / 切り抜き / サイコパスおじさん / オカダ斗シヲン】オカダ斗シヲ@YouTube

神様に上場?そうなんですよ。神階というのがありますね(^_-)-☆
普通の神様は正一位までですが、特別に四柱の神様だけ、皇族に与える品位を差し上げていますよ。奈良時代に宇佐神宮一品八幡大神・二品八幡比売神(後に一品)でしたが、平安時代に一品淡路国伊弉諾神宮の伊邪那岐命と二品備中国吉備津神社吉備都彦命に差し上げていたのです。

この頃に地震や津波が頻発して富士山が噴火したり社会不安で皇祖神イザナギにご加護を願うのは当然ですが、何で吉備津彦なの?そうなんです吉備津彦というのは日本書紀が隠した神様だったのです。

今上陛下はイザナギの次男で吉備津彦とされたニギハヤヒ大王(天照大神尊、物部氏の祖神とされています)の末裔だったのですよ(詳細は「【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?」参照)。

ニギハヤヒは神武東征前にヤマトに降臨していた神ということです。神武天皇に逆らったナガスネヒコを斬ったので橿原宮で即位できたという話になっていますが、考古学の証拠がありません。神武天皇の墓も江戸時代に治定されたものです。神武東征は架空のおとぎ話ですが、ニギハヤヒは吉備を平定してヤマト王権の基礎を築いた実在人物だったのです。

伊弉諾尊は第17代奴国王で、その長男スサノヲ大王の時に宮廷楽師帥升が反乱を起こして殺されています。ニギハヤヒはスサノヲの弟で奴国から脱出したのです(詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。スサノヲの子孫が八幡大神(本当は応神天皇の父の大国主命久々遅彦)と八幡比売神は宗像女神市杵島姫卑弥呼だったのですよ。

現存する最古の正史日本書紀は天武天皇が編纂を命じたので天皇の歴史書とされています。でも完成したのは崩御34年後なのです。当時の権力者は藤原不比等でした。藤原氏に不都合な3世紀までの建国の史実を神話で誤魔化し、人代も歴史を相当ねつ造していることが事実を検証して分かりました。よろしければ「刮目天の古代史」をご参照ください。

金印の奴国や卑弥呼が登場しないのも不都合だからなのです。

先に完成したと言われている古事記ですが、9世紀に突然表に出てきた歴史書です。正史に古事記の記録はないし、日本書紀が参照した痕跡もないのです。日本書紀が隠した史実を藤原氏に悟られないように暴露する目的の暗号書だったのです。建国の歴史が分かると古事記の暗号を解いて空白の四世紀に隠された二人の天皇も、次の倭の五王の系譜も分かりました(詳細は「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)(その3)」参照)。

日本人の本当の神話は中国(なかつくに=龍蛇神国)神話でした。天皇伏羲の末裔が今上陛下だったのですよ(詳細は「【刮目天の古代史】天皇の称号の起源?」参照)。

日本の神様はすべて実在人物です(注1)日本人は太古から祖霊を祀ってきました。神の依り代が磐座などです。神の化身はヘビ(ナーガ=龍蛇神)なのです。大国主もヘビです。神社の主祭神はたいていは藤原氏が作った記紀神話の神様です。本当の神は神社の境内で地元のゆかりの方たちによってひっそりと祀られていますよ(^_-)-☆

草木にも霊がいるとかアニミズムや八百万の神というのは江戸時代に創られた記紀神話の創作だったのですから面白い(佐藤弘夫「日本の神はどこからきたのか? 自然現象から宗教が発生するワケ」参照)。よろしければ拙ブログに遊びに来てください(#^.^#)

(注1)これは八世紀の神社神道が始まったころからはっきりしますが、それ以前は佐藤氏は上の記事の中で以下のように説明されています。

人類が最初に超越的存在を感じ取ったのは、何に対してだろうか。その一つは、人に畏怖(いふ)の念を抱かせる自然現象だった。

激しい雷鳴や稲光、すべてを渦に巻き込んで空中に持ち上げ、破壊していく竜巻などは、そのメカニズムを理解している現代人にとってさえ、カミの仕業にしかみえない驚異の現象である。

夕方になれば太陽が没して闇が支配するが、夜明けが来ればまた光に満ちた世界となる。毎日起こる太陽と月の正確な交代も、実に不思議なことだった。

原初の人類は、こうした自然の出来事の一つ一つに、人知を超えた力を見出していたのではなかろうか。

人類がカミの働きを見出したもう一つの対象は、人間のもちえないパワーを有する動物たちだった。

世界各地の神話に、しばしばカミとして登場する動物が熊である。鷲やコンドルなどの猛禽(もうきん)も、カミあるいはカミの化身と考えられていた。鳥葬(ちょうそう)が行われるチベットでは、鳥は死者の魂を大空へと運ぶ聖なる存在だった。

縄文土器には蛇が描かれている。強力な毒と驚異的な生命力を備え、直接幼蛇を出産するという特殊な生態をもつマムシに対する畏怖の念が、それを特別視する背景にあったと推定されている。

萌え出ずるアシの若芽は、それぞれの芽に満ち溢れる生命力そのものがカミだった。思わず畏敬の念を引き起こす巨木や奇岩も、それ自体が聖なる存在として把握されていた。

独自の景観をもつスポットが聖なる場所とされ祭祀の場となることは、古今東西でみられる現象である。

わたしは土偶が聖性の表象ではあっても、それを超える高次のカミは想定されていなかったと考えている。個々の土偶がそのままカミであり、崇敬の対象だった。その背後に、土偶の霊力支えるアニマやマナなどの不可視のパワーが認められることはなかった。

縄文時代には墓地も作られていた。縄文人の間で、亡くなった人物が墓地に留まっているという感覚が共有されていたことはまちがいない。

太陽や月や星が織りなす壮大なドラマに対する驚異の念も、人々の心の中には存在したであろう。実際に、現代人がそうするように、太陽に向かって祈りを捧げる人物もいたかもしれない。

だが、縄文時代の中期までの段階では、それが集団によって共有され、定式化した祭祀儀礼として定着することはなかった。

<中略>

新石器時代のある段階から、カミが四肢を備えた存在として表現されてくるのである。

これは聖なるものが可視的に表示され、そのイメージが共同体の構成員によって共有されていく現象を示している。カミが同定され、崇拝の儀礼が形を整えていく。宗教の発生である。

二世紀になると古墳時代の先駆けとして出雲から日本海沿岸部に大型の首長墓である四隅突出墳丘墓が営まれるようになります。墳丘上で首長を弔い、多くの参列者の中で次の首長が亡き先代と共に食事をし、首長権の継承儀礼が行われたと考えられています。この頃には個々人の祖霊信仰から、多くの人々を束ねる新たな首長が先代までの偉大な首長たちの霊を身に帯びて、強いリーダーとして大業・偉業を果たすことが期待される米神信仰が生まれます(首長霊信仰のことですが、大国主が亡父日高彦から首長権を引き継ぎ、霊山「米神山」で日本一立派なストーンサークル佐田京石などを造って儀礼を行った故事に因んで名づけました)。

佐田京石

米神山<宇佐市公式観光サイト>

大きな地図を見る(GoogleMapページへ)

【追記】

先日、米神山の日の神谷の石柱を調べるために登ってきました。前日、一時的に強い雨だったので、少しでも乾くのを待って朝11時に熊登山口から登り始めましたが、日の神谷まで例によってキツイ傾斜のロープ道でしたので、私の体力では2時間もかかってしまいました。今回はひざの痛みはなかったのですが、右のふくらはぎが疲労でツッたようになったので周囲を探索しようにも自由に動き回れず、目当ての石柱を発見できずに、今回も断念して下山しました。14時過ぎに同じ熊登山口にたどり着きました。

【大分の山シリーズ 31】米神山 ストーンサークル

この動画に以下のコメントして場所をお聞きしたのですが、10年も前の話なので削除されてしまいました(;´Д`)

貴重な動画をアップしていただきありがとうございます。
古代史の研究を定年後に本格的に始めて10年になる静岡県在住の年よりです。もう三度ほど米神山に来ています。実はこの米神山が日本神話の大国主命の祭祀場だったと突き止めました。
詳しい話は、拙ブログ「【刮目天の古代史】霊ラインの謎?」https://blog.goo.ne.jp/katumoku10/e/b55f7d101c463da6035524780c6061d2
に在りますので、よろしければご参照ください。
もしもご興味がわけば、この動画の1:18に見られる「日の神谷の石柱」の位置が分かればお教えください。
前回は京石から登りましたが、発見できず、今回はより厳しい熊登山口から登りました。日の神谷の巨石群を探しましたが、発見できず、体力の限界を感じています。突然不躾なコメントで恐縮ですが、どうぞよろしくお願いいたします。

どなたかこの写真の石柱の場所をご存じでしたらお教えください。どうぞよろしくお願い致します(;^ω^)

【関連記事】

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆

10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)

最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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