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【検証19】日本建国のための戦いだ!

2024-11-12 10:59:24 | 古代史

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#2021-11-17 08:11:44に掲載した記事を見直し、最新の知見を入れて本文中に赤字で改訂しました。よろしければ、またお付き合いください(#^.^#)


#2021-07-14 21:35:43に掲載しましたが、日本列島の土器編年併行関係を専門家が作成したものを入手しましたので、それに伴い(注2)に赤字で追加し、関係する図も改訂しました。どうぞよろしくお願いします。


前回の【検証18】倭国大乱の痕跡だ!の最後でお話ししたように、若い倭国王難升米は、半島南部と列島との海運を支配していた北九州のムナカタ海人族を懐柔して旧奴国勢力への鉄の供給ルートを断ち切ることに成功しました。これによって下のような勢力図となり、一気に倭国勢力が優勢になりました。後で示しますが、弥生終末期から古墳初頭の鉄鏃・銅像の出土状況を調べてみて、畿内とつながりの深い四国の人々も和歌山の人々でさえ最終的に、鉄を倭国側に抑えられたのを見て狗奴国を裏切り、難升米王の傘下に加わったと考えられます(注1)。

狗(旧)奴国勢力は滅亡の危機に見舞われました。第19代奴国王天照大神尊ニギハヤヒ大王の跡を継いだ狗奴国の王卑弥弓呼(ヒコミコが正しい。魏志倭人伝の誤写と思われる。狗奴国は旧奴国の蔑称)は、この状況を打開するために列島各地に拡がっている王族や関係の深い人々を一同に集めて相談するために、以前から考えていた三輪山山麓に政治都市(纏向遺跡)を築く決心をしました(記紀の開化天皇)。吉備よりも畿内に都を遷すと東海・関東などの東国の勢力とも連携しやすいと考えたのでしょう。関裕二さんが指摘したように、纏向は西からの攻撃に対しては生駒山系によって固く守れますし、いざとなったら東の山地を抜けて東国に避難でき、再起を図ることが可能なので、狗奴国勢にとって地政学上最も優れた場所なのです。

【検証11】定説の根拠を疑えでは纏向遺跡と同じ奈良盆地内の拠点集落唐古・鍵遺跡の遺構の変遷を見ました。纏向では三世紀初頭に大溝が掘削されていますので、卑弥呼が女王に共立された後に、祭祀や各地の支配層が住むための掘立柱の大型建物などが急ピッチで建設されたようです。周囲には水田跡は見られませんので、突然現れた巨大な政治都市なのです。食料供給は唐古・鍵遺跡などの奈良盆地の人々が運び込んだようです。出土した男女のシャーマンの絵画土器から縄文系ムナカタ族の人々だと分かります。

狗奴国王の要請で纏向に集まった人々の出身地は、この頃の纏向遺跡の外来土器を調べると分かります(注2)。下の図から難升米王の支配する邪馬台国連合倭国に加わっている地方の時期的な変遷も推理できます。



最初(旧編年1式)は奈良盆地の人々が約九割です。九州の土器は全く見られません。あっても1%以下なのです。北部九州の倭国の人々が纏向遺跡で行われた重要な祭祀に全くと言っていいほど、参加していないので、奈良盆地の人々は北部九州の倭国とは敵対関係だったと分かりますので狗奴国と考えて矛盾はありません。それだけでなく、九州と四国と恐らく山口県岩国市付近(卑弥呼に従う玖珂国と比定される)までの中国地方西部やは倭国の傘下だと分かります(広島の人々については後でこの時期の鉄鏃・銅鏃の出土状況から狗奴国側だと推理できます。また和歌山県の人々も230年頃から来ていませんので倭国の傘下となったと考えられます)。ですから、魏志倭人伝にある卑弥呼に従う二十一国は上の図のとおりだと推理しました。つまり纏向遺跡は倭国と対立する狗奴国の王都で中心都市だったということです。

急に劣勢となった纏向の狗奴国(旧奴国)勢力が倭国の裏切り者たちへの復讐を祖霊に祈り、倭国奪還の時期を占う、軍議に明け暮れていたのだと思います。纏向遺跡で発見された大量の桃のタネは占いに使ったと言われていますが、放射性炭素(C14)年代測定を実施したところ、西暦130~230年とかなり幅があるようです(渡義人、田中祐也「卑弥呼の時代の?桃の種 年代測定、邪馬台国論争に一石」朝日デジタル2018年5月14日 14時49分)。岡山県古代吉備文化財センター「県内の桃核出土遺跡」(2019.9.25)によれば、
倉敷市上東遺跡では弥生時代から古墳時代にかけて9,608個も出土し、また岡山市北区津馬遺跡でも2,415個ですから纏向遺跡の2,000個超をはるかに上回る量です。したがって、なき報い席の主力勢力阿は核を使った占いは吉備から来たと考えられます。奴国宮廷楽師の師升の反乱を逃れて吉備を平定して奴国を再興したニギハヤヒ大王の子孫が纏向遺跡に遷都したと推理できます。

旧編年2式になると外来土器が2倍ほどに増えます。210年頃纏向遺跡の最初の大型前方後円墳である石塚古墳が築造されたようです。被葬者を葬った主体部がなかった可能性が高いので、
ニギハヤヒ大王を改葬して、勝利を祈願したと推理しています。当初から東海の土器が外来土器の半分近く占めていますので、「先代旧事本紀」に依ればニギハヤヒ大王を祖とする尾張氏を中心とする勢力だと推理できます。纏向遺跡に尾張王の勢力がかなり増えたのは、奴国大王天照大神尊(ニギハヤヒ)の子天香山命の子孫として存在感を示すためだと推理できます。
ニギハヤヒ大王は楯築王墓に葬られていると推理しましたので、吉備の人々については、当初は外来土器の2割くらいはあったのですが、それが7%くらいに減っています。その代わりに河内の人々の割合が急に同じ程度増えていますから、先代卑弥弓呼王の一族の一部は吉備から先遣隊として最初に河内に移動し、河内から纏向で王都を建設したと考えられます。河内はニギハヤヒを祖とする物部氏の支配地なのです。吉備と河内を合わせると人数は同じ程度になりますから分かります。

東海の次に多い山陰・北陸の人々の割合は同じくらい来ています。日本海沿岸を活動域とする縄文海人族を束ねるスサノヲ大王の子イタケル直系の王狗古智卑狗(久々遅彦高野御子)配下のムナカタ海人族の人々です。北九州のムナカタ族和邇氏とは同族ですが、先代久々遅彦日高彦が戦死して倭国王難升米に懐柔されたので狗奴国を裏切り倭国側についてしまいました(注3)。

それから四国東部(阿波・讃岐)の人々も最初は1割程度来ていました。割合は半減しましたが人数はほぼ同数でしょう。近江の人々も阿波・讃岐と同じくらいの人が来ていたのですが、230年ころは誰も来なくなっています。楽浪・帯方郡との交易や半島南部の鉄素材も入手して隆盛になった倭国側に寝返ったと考えられます。そして播磨・関東・和歌山の人々は、最初は誰も来ていなかったのですが、大王の葬儀のために急きょ出席したのだと推理しています。

次の230年以降の旧編年3式の時期には先代卑弥弓呼大王の後継者問題と、倭国攻略の作戦が練られた模様です。上述のとおり桃で吉凶を占ったのでしょう。つまり第二次倭国大乱となる倭国追討軍を編成する段階と考えられます。やっと決まった新しい卑弥弓呼大王(記紀の崇神天皇)は、外来の最大勢力の尾張王が追討軍の首将になったと推理しました。東海勢に次ぐ山陰・北陸の勢力ですので、その王の久々遅彦高野御子、後の大国主)が副将となったと考えられます。その時の状況を表したのが下の図ですが、そこには「日本書紀」が史実を誤魔化すために登場させた、実在人物をモデルとする人物を記載しています。


そして、弥生終末期から古墳初頭の鉄鏃・銅鏃の出土状況を示したのが、次の図です。上で述べた終末期に起こった第二次倭国大乱と、その後の古墳初頭に起こった第三次倭国大乱の時期のものが同時に表されているはずですが、第二次大乱の実態は、卑弥呼が日食によって倭国難升米王に暗殺されたので、卑弥呼の弟赤坂比古(和邇氏の祖、日本書紀の日触使主)は難升米王を見限り、狗奴国から来た倭国追討軍に抵抗しなかったと推理しています。ですから難升米王は半島に逃亡し、無傷で倭国を手に入れた尾張王が倭国王に立とうとしたようです。それに不服だった副将久々遅彦高野御子に赤坂比古が加勢して内戦状態になったと推理しています。そして尾張王を討った高野御子が魏使張政の進言を受けて近江・北陸のムナカタ族の十三才の姫巫女台予(記紀の神功皇后)を卑弥呼の宗女として表向き、女王に立てて魏を後ろ盾とする倭国王に立ったと推理しています。高野御子が魏を後ろ盾にして、楽浪・帯方郡との交易が再開し、半島南部の鉄資源も独占し倭国が隆盛になったので、全国に展開していたムナカタ海人族がこぞって高野御子の傘下になったために、記紀で大国主と呼ばれたのです。

「日本書紀」に住吉大神(海の支配を任された神スサノヲで、その子孫の大国主狗古智卑狗がモデル)の神託を疑い、突然崩御した仲哀天皇(タラシナカツヒコ)は尾張王をモデルにした話だという関裕二説を採用しています。武内宿禰と神功皇后とがそれぞれ実在人物の大国主狗古智卑狗と台与をモデルとして創作されたと考えています。
(左クリックで拡大)


狗奴国側はもう消えてなくなりそうな状況だっと思います。彼らがやれることは、裏切り者の大国主に従う倭国勢の集落に対するテロしかなかったようです。鳥取県の青谷上寺地遺跡はほとんど武装していない民の平和的な集落だったようです。狗奴国王と尾張王は無防備な村を襲い子供や女性などを虐殺したようです。この時代は尾張・大和勢が使用する銅鏃が被害者の骨に刺さった状態で見つかっているので分かりました(詳細は【検証8】青谷大量殺人事件の真相は?)。豊後半島西部の函石浜遺跡 では銅族が20個見つかっています。また島根県江津市の波来浜(ならはま)遺跡では墳墓の中から銅鏃が見つかっています。青谷を含む山陰から丹後半島あたりも含む日本海沿岸部では、兵士は鉄鏃、一般の民は狩猟用の骨鏃を使っていると考えられますので銅鏃を好んで使うのは尾張勢のものだと分かります。

また四国では、卑弥呼の時代から倭国側についていた拠点集落付近で銅鏃が見つかっていますから、これらもこの時代のヤマト勢のテロか、あるいは【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)(その2)(その3)(その4)」に詳しく述べましたが、九州全体に送ったヤマト勢の遠征軍の戦いで大国主と台与を殺して、ヤマト軍が勝利した後の戦いかも知れません。

また、和歌山市の紀の川下流域から海南市にかけて、平安時代中期に完成した辞書「和名類聚抄(略称、和妙抄)」によれば、名草郡と呼ばれる地域の集落だった大野中遺跡にヤマト勢の銅鏃が溝で見つかっています。纏向遺跡の外来土器で見たように、この地域の人々は卑弥呼の晩年の頃には狗奴国ヤマトを裏切って倭国側についていることが纏向3式の外来土器では消えていることから分かります。ですからヤマト勢はその報復でテロを行ったと考えられます。

石川県付近では九州の戦いに次いで相当激しい戦闘があったようです。また、東海は元々尾張王の勢力範囲と考えていましたが、大国主が倭国を支配したために、静岡から関東各県、長野などは大国主の倭国側に就いたようですので、そこでもヤマト勢との戦いが見られます。

このように鉄鏃・銅族の出土状況から大国主が倭国を支配した後にヤマト勢が倭国勢を倒して列島を統一した様子が見て取れます。刮目天の仮説を支持するものでした。「日本書紀」景行天皇の九州遠征の話に一致する場所からヤマト勢の銅族や鉄鏃が見つかっています。石川県・静岡県・神奈川県・千葉県・茨城県・岡山県・島根県などの戦いはヤマト政権による日本統一の仕上げの戦いだと考えられます。図に示した通り、「記紀」では日本武尊(ヤマトタケル)の東国遠征や出雲討伐および崇神紀の四道将軍の遠征の話にしているようです。

【関連記事】
【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その13)
崇神紀の四道将軍などの話を詳しくしましたので、ご参照ください(2022.7.14)

(注1)女王に属するとして名前だけ挙げられた二十一国の中で、支惟(きゆい)国が最後まで分からなかったのですが、纏向遺跡の外来土器と、ヤマト勢の銅鏃が海南市の大道中遺跡の溝で見つかっているので、決定できました。今回の調査でこの時代の遺跡群が分かりましたので、今後も検討していきますが、ほぼ確定した感じです(*^-^*)

(注2)すでに知られている纏向遺跡の土器編年と暦年代については、石野博信「邪馬台国の考古学」吉川弘文堂2001、p.4の「表1 2-4世紀の纏向様式土器編年と古墳」に述べられています。しかし、刮目天の仮説に従えば旧編年3式は大国主が纏向のヤマトと対立する以前の250年くらいまでで終わり、それ以降は旧編年4式になると考えられます。つまり250年頃から280年頃までの旧4式では、大国主の倭国と敵対関係になりますので、その年代の纏向遺跡では吉備から播磨、河内、尾張までの土器しか見られないはずです。ここがハッキリすると、更にこの時代を推理できます。各地の外来土器の検討は日本建国を解明する上で、重要な要素だと思います。

石野先生の暦年代の起点は卑弥呼の女王共立を范曄後漢書の桓帝末(180年頃)とし、纏向を邪馬台国としているために卑弥呼の後を継いだ台与が纏向から266年に西晋に朝貢したとして箸墓(箸中山)古墳を280年頃と考えて決めた模様です。石野先生は箸墓を台与のものと考えておられるようでその点で刮目天の意見と一致します。

しかし、台与は、270年頃ヤマト勢の攻撃を受けて戦死し、糸島市野平原王墓に葬られましたが、280年の直後に応神天皇が纏向で初代天皇(ヤマトの祭祀王)即位し、母台予を箸墓に改葬したと考えています。ですから、起点は変わっているはずです。纏向遺跡の外来土器の暦年代は新編年に変更された後にどのように分類されるかを再検討する必要があるのではないでしょうか?

今回の検証の結果から、石野先生の旧編年3式の外来土器の大部分が250年以前であると推理しています。250年頃から280年頃までは外来土器がほとんどないのではないかと考えられます。

前回の記事で以上のように記述しましたが、冒頭のとおり、その後、下の編年併行関係が専門家より発表されましたものを入手しましたで、それに基づき歴年代を刮目天の年表に適合させることによって矛盾なく説明できることが確かめられました(「【検証15】台与からヤマト時代の北部九州だよ」)。それによって上で示した纏向遺跡の外来土器の図も改訂しました。

(注3)大国主神話の因幡の白兎の話だと思います。大国主の父、先代久々遅彦が戦死し、途方に暮れて倭国側に寝返った和邇氏がワニ、ワニを騙して海を渡ろうとし、ワニに気付かれ皮をはがされたのが兎(うさぎ)ということになっています。兎は宇佐(菟狭)の大国主のことです。宇佐市安心院町佐田地区が大国主が最初に国造りした豊葦原瑞穂の国だと推理しています(大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?)。まだ幼かった大国主は父が殺されてしまい、和邇氏に身ぐるみを剥がされて(財産を全て奪われ)追放され、米子を拠点とする同族のムナカタ族に養育されて成人して立派な王になったという話でしょう。だから兎の体にガマの穂を巻いてやって、けがを治したのが米子のムナカタ族と考えられますよ。米子はスサノヲ大王の母イザナミの故郷です。葬られた比婆山もありますよ(^_-)-☆


最後までお付き合い、ありがとうございます。
次は、最後の第三次倭国大乱の主戦場となった九州での戦いについて詳しく述べましたので「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)(その2)(その3)(その4)」を参照ください。
分かりにくい箇所についてはご指摘いただけると嬉しいです。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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2 コメント

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「〜な国」 (flowerconnection)
2024-11-13 12:08:15
「〜な国」という名前の国がいくつかあるようですが、何か、名称に理由があるのでしょうか。
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「〜な国」 (刮目天 一(はじめ))
2024-11-13 17:23:32
いいコメント有難うございます。
きっと理由があるはずです。
女王に属する21国を決めるヒントになるはずです。そして、国名は倭国王難升米が書いたものですので、なにか意味があるはずです(「倭人語解明のヒントだ!」参照)。
また奴国が二つ出てきますが、これは同じ国の飛び地だからかも知れないと考えています。とりあえず図に記載した21国は暫定的な場所ですので、このヒントからちゃんとした場所が決まると思います。漢字の意味を漢和辞典などで調べると分かるかも知れません。ご興味がわけば、調べて教えていただけませんか?よろしくお願いします(#^.^#)
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