刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

猿投神社(さなげじんじゃ)の秘密?(@_@)

2024-11-30 13:49:33 | 古代史

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【古代濃尾考⑤】⛩️🚃✨ヤマトタケル伝説は大碓命の子孫に繋がる?😧古事記&日本書紀を読み解きつつ、愛知県と岐阜県を旅行して古代史の謎を妄想解釈します😉

ふどきさんの古代史@YouTube

ふどきさん、猿投神社とはまたいい話題を有難うございます。

日本建国を事実、つまり考古学や民俗学などの成果から解明を行っていますが、猿は猿田彦で大国主の分身です(詳細は「「神」はサルタヒコを示す暗号文字だった?!」参照)。


猿田毘古大神(19世紀後期画) Wiki「サルタヒコ」より

大国主は実在人物で、出雲・丹後王国の王久々遅彦(王の襲名)高野御子(父日高彦の御子の隠語です)。朝廷がその祟りを最も怖れる神ですので、様々な別名、分身の神話を作って誤魔化しています。日本中の縄文海人ムナカタ族を束ねる王です(詳細は「【刮目天の古代史】出雲・丹後王国の謎!」参照)。

卑弥呼の死後に狗奴国王に命じられた倭国追討軍の大将だった尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト)が倭国王に立ったので、それに不服だった大国主高野御子が乎止与命を討って、13歳の台与(記紀の神功皇后のモデル)を外交上卑弥呼の後の女王に立てて、纏向遺跡を王都とした狗奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇)を裏切って、魏を後ろ盾にして日本列島の大半を傘下にしたので、後世大国主と呼ばれたわけです。仲哀天皇の熊襲征伐の話になっています。大国主が武内宿禰です。

 

乎止与命の子建稲種命が仇討ちのために九州に遠征して、大国主を討って、九州の支配を遠征に参加した物部氏の祖に任せて纏向遺跡に凱旋したところ、卑弥弓呼大王から大国主の傘下を平定する命令を受けて、東国遠征の途中で流れ矢が当たり亡くなっています。沼津市高尾山古墳に葬られたと推理しています(詳細は「【検証26】建稲種命の終焉の地は?」参照)。

その後尾張王を継いだ 尻綱根命が率いた尾張勢がほとんど日本列島を平定し、ヤマト王権が成立したと分かりました。崇神天皇紀の四道将軍の話としています。建稲種命の九州遠征は日本書紀で景行天皇の事績として詳しく語られています。ですから猿投神社の祭神となっています。また東国遠征で死んだこともあり、建国の主役を隠すために創られたヤマトタケルのモデルとされています(詳細は「【検証19】日本建国のための戦いだ!」参照)。

猿投神社の最初の祭神は猿田彦だったのが近世に史実をさらに誤魔化すためにヤマトタケルの兄を祭神にしたのです。垂仁天皇はホムチワケの伝説のある豊岡市久久比神社の祭神久久遅彦(大国主)からの連想だと思います。

藤原不比等が日本書紀で建国の史実を神話を創って誤魔化したのですよ(詳細は「「記紀は天皇の歴史書」が古代妄想?(;^ω^)」参照)。

大国主の国譲りで活躍した鹿島神宮のタケミカズチが建稲種命のことで、タケミカズチの父という説のあるカグツチが乎止与命のことですので、秋葉神社は愛知県を中心に数多く見られますね。

当時は尾張地方はカニが群生していたようで、尾張の代名詞だったようです。ですからこの史実がさるカニ合戦として伝えられています(詳細は「サル・カニ合戦の元ネタは日本建国の戦いだった?」参照)。建稲種命は地元の人々が長久手市景行天皇社で祀っていますが、その前は長久手市蟹原と根の神と呼ばれる場所から遷されたようです。現在もそれらの地名が残っており、多分その屋敷跡に道了山大雄院という曹洞宗のお寺ができて、そこで大国主をお祀りしているようです(詳細は「抹殺された尾張氏の謎(その1)(その2)(その3)尾張と言えばカニだ~わ!」をご参照ください)。どうも長々とお邪魔しました(;^ω^)

 

【関連記事】

【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)~(その4)

(左クリックで拡大)

【刮目天の古代史】出雲・丹後王国の謎!(@_@)

日本の建国において最も活躍したのはスサノヲの子孫たちでした。このことを知らずにその後の古代史の謎は解けないと思いますよ(^_-)-☆

高野御子の歌(その1)(その2)犬猿の仲の由来かも

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権力者が歴史書を作る目的は何?(;^ω^)

2024-11-29 11:12:30 | 古代史

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#2024-11-29 11:12:30に記事にしましたが、コメントの最後に述べた結論の部分「人々の過去を縛ることにより、現在と未来を支配するため」は、最近読んだ日本史・仏教史学者吉田一彦氏の「『日本書紀』の呪縛」(集英社新書)の結論部分にあった内容が頭に残っていたので書いたものであることを思い出しました。文末に追加で、【参考文献】として紹介させていただき、その部分をそのまま本文より引用しました。このご本の中で、歴史学の専門家の立場で『日本書紀』研究の経緯から他の古文献との相対的な位置づけまで、『日本書紀』のことが素人にも分かり易く解説されているので、とても勉強になりました。よろしければまた、お付き合いください。(#^.^#)


#興味あるテーマのYouTube動画を見つけましたが、その中でユーザーさんとコメントのやり取りをしましたので、よろしければお付き合いください(#^.^#)

@ジャパンファースト
色々と矛盾点があるのですが、少し偏見が強すぎるようなので反論させて頂きますが、蘇我氏は武内宿禰の系譜にあたりますので、大きな改変をするのであれば武内宿禰の代から改竄が必要だったでしょうが、武内宿禰は英雄として描かれています。また蘇我氏には聖徳太子を通じ、歴史書の編纂や冠位十二階や十七条憲法を制定した実績もあり必ずしも悪物として描いているわけでもありません。
次に藤原氏が天皇家のご機嫌取りをしたということであれば、歴代天皇の中には残虐非道や無能な天皇も描かれています。藤原氏が天皇家のご機嫌取りをするのであれば、もっと良い改竄方法はあったかと思いますがそのようにしていません。
つまり編纂経緯の異なる古事記と日本書紀の内容はほぼ同様であることからも歴史事実を反映して編纂されたものと考えるべきであって、時の権力者に都合の良いように編纂されたと言うには、それ相応の根拠が必要かと思います。(根拠を回答して頂けると嬉しいです)
次に記紀から邪馬台国が消されたとするのであれば、神功皇后記における魏書の引用に関しても疑問が残ります。古事記では神功皇后は4世紀とし、日本書紀では3世紀となっています。記紀で年代が異なる理由には様々あるでしょうが、日本書紀に引用している以上、少なくとも日本書紀では邪馬台国の存在を隠す必要はなかったと見るべきではないでしょうか?日本書紀の原本は存在しませんが、藤原氏が栄華を極めた平安時代の写本は現存しています。(何故引用を残したのでしょう?根拠を教えて頂けると嬉しいです)

@A-rekishi-ch
丁寧な長文のコメントありがとうございます☺️
根拠ですが、この説を1つの説をとして、捉えていただけるとありがたいです。何が正しくて何が間違っているとかではなく、書物以外に口伝であったり、中には都市伝説という形になって伝えられたものもあります。
むちゃくちゃなようで、これも1つの説なのです。
誰も当時のことを知らないのです。
すみません、回答になっていませんが、勉強不足ですね😅2

@katumoku10
@ジャパンファーストさん 現存する日本最古の歴史書「古事記」(712年完成)は実は九世紀の学者多人長(おおのひとなが)が突然表に出したもので、正史に古事記の記録もないですし、日本書紀が古事記を参照した形跡もありません。日本書紀は天武天皇が編纂を命じたのですが、完成したのは崩御34年後の720年なのです。当時の権力者は藤原不比等なのです。藤原氏にとって不都合な三世紀までの建国の史実を神話で誤魔化して、人代も歴史をかなり改ざんしていることが事実、つまり考古学や民俗学などの成果から判明しています(詳細は『刮目天の古代史 「記紀は天皇の歴史書」が古代妄想?』参照)。

ですから、日本書紀に概ね沿って書かれた古事記は、日本書紀が隠した史実をそれとなく暴露する暗号書だったと分かりました。これを解くと、倭国大乱の原因から空白の150年で隠された二人の天皇、富雄丸山古墳の被葬者などが判明しました。また倭の五王の系譜も分かりました。

多くの皆さんは記紀が「天皇の歴史書」なので、その内容の中に真実があるはずという思い込みでいろいろと天才的な仮説を出すだけで、ほとんど事実で検証していないので、日本の古代史は混乱を極めています。不比等が何を隠したかったかを追求して仮説を立てて事実で検証する科学的な手法「アブダクション」によって古代史の真相が現れてきます。詳しくは「刮目天の古代史」に在りますので、よろしければご参照ください。どうもお邪魔しました(#^.^#)

 

ジャパンファースト
@ コメントありがとうございます。
藤原不比等の都合によって改竄されたという話はよく耳にしますが、どれだけのことが科学的に証明されているのか非常に曖昧に感じています。

私の知る限り、確たる物証は僅かで、その他の多数はあくまで推測の上に推測を重ねており、前提一つ狂えば、非常に多くの歴史認識が崩れ去るようなとても危ういものだと思います。

3世紀までの歴史を藤原不比等が改竄したというより、既に伝承が曖昧になっており編纂時には多くの事柄がわからなかったっと言うようなことではないでしょうか?風土記、日本書紀、その他諸々の歴史的書物において、それぞれ異なる事柄が存在することもそのような経緯があって生じたものではないでしょうか?

また、古事記に関して言及すると、4世紀以降の年代は概ね正しいと言えますし、近代に至るまで発見されていなかった考古物からも裏付けできますので、それらを知らない編纂者が推測で当てるということは限りなく不可能と言えるのではないでしょうか?

しかし、これから先、新しい考古サンプルや文献等が発見され、定説が覆るということも十分あり得ますので、誤りのない歴史学は無いものと考えています。

@刮目天
​ ​ @ジャパンファースト  さん とてもいいコメントをありがとうございます。
主に、日本書紀の内容についての信ぴょう性の話だと思います。

歴史に限らず、一般的に言って文書を作成する、あるいは内容を改ざんするにはすべて目的があります。その目的は物証によって推理でき、改ざんされたことにより、今まで謎となっていた事柄が説明できると、その改ざんの目的は真相に近いものと判断できます。

真相そのものではないかもしれないのは推論の曖昧性、つまりいろいろな可能性がある場合に、その範囲でその真相が少し揺らぐかも知れないからです。

しかし、それらの真相と思われる可能性のある複数の内容は、その後の新たに発見された物証(古代史の場合には伝承なども含む)から可能性の高いものを選ぶことができます。

おっしゃるとおり、長い年月で伝承があいまいになっているというのはわかりますが、不比等が隠した史実や歴史改ざんがもたらすその後の利益享受者が捏造する場合も多々あるし(ウソを補強する目的)、古史古伝のように歴史改ざんによって不利益を被った人々が文書や伝承を残したケースもいくつもあります。

古事記もその一部です。できるだけ権力者に気付かれないようにしなければならないので、日本書紀の内容に沿いながら一部を変えて真実に気づかせるやり方が特徴です。
4世紀以降の年代は概ね正しいと言えますし、近代に至るまで発見されていなかった考古物からも裏付けできますので、それらを知らない編纂者が推測で当てるということは限りなく不可能と言えるのではないでしょうか?
これは具体的に何をおっしゃっているのか分かりませんが、もしも古事記の序文で編纂者とした太安万侶の墓誌の発見のことであれば、太安万侶は実在人物であったという証拠でしかないです。だから、それ以上のことは言えないと思います。

重要なことは、改ざんの目的が判明すると、改ざんされた歴史と物証との矛盾の原因が説明できるのですから、一つでも物証が見つかれば、その文書の内容の信ぴょう性が無くなるということなのです。それは、文書全部か、どこまでウソかは議論されるべきものです。

全く「無から有を創る」のも極めて困難なので、一部は本当のことを使っている可能性はありますが、それらもウソかもしれないという目で見るのが妥当な見方だと思います。それは予断ではなく、知見の一部ですから。

そして将来その推測の部分が真実かもしれないと分かる物証が出てきたら、短絡的に全てを覆すのではなく、全体を見て判断することになります。上で述べた太安万侶のはなしです。

ですから、日本書紀の神話や歴史が藤原不比等によって創作されたものというのは事実ですし、将来それを180度覆すような物証が出ることはないと考えています。

古代の権力者が何故、歴史書を編纂したのか、その意味をしっかりと認識する必要があります。これは、古代に限らず、権力者の持つ習性みたいなものだと思いますが、人々の過去を縛ることにより、現在と未来を支配するためだということに気付く必要がありますよ(^_-)-☆

 

【関連記事】

卑弥呼が正史から消された理由?(^_-)-☆

藤原不比等が一番隠したいのは権力を握るために行った悪事です。それを誤魔化すために3世紀までの日本建国の史実を神話に閉じ込めて、人代もかなり歴史を改ざんしていることが事実、つまり考古学や民俗学の成果などからわかりました。卑弥呼が正史に出てこないのはそのためなのです(^_-)-☆

「記紀は天皇の歴史書」が古代妄想?(;^ω^)

事実に基づく想像は、科学的な探求において推論とか推理という正しい方法です。しかし人間は空想する生き物なんです。空想は事実に基づかない想像のことです。普通は、本人も空想かも知れないと自覚していますが、空想に凝り固まって反証を受け付けない信念になると妄想という精神医学上の症状ということですネ(*´Д`)

古代史探求に嵌っている多くの方は、事実に基づかない空想」を仮説にしたままで、数多くの事実で仮説を検証しようとしないようです。都合の悪い反証も無視するようですので古代妄想ということなのです。以前に、ある著名な古代史研究家のブログで、その点を指摘しても、「検証は後世に行われるハズだ」と自信満々だったので驚きました(#^.^#)

歴史あるいは歴史学という学問は人文科学の範疇ですので、科学の手法に従う必要があります。なぜならば、科学の手法による結果は偏見のない多くの方が納得行くものですので、定説として認められやすいからなのです。その仮説は科学的な信念になり(詳細はなぜ邪馬台国問題が解決しないのか?参照)、教科書にも載るような定説になります。これが科学的な探求の目標です。

しかし、定説となっても、それを導く過程で何らかの見落としやミスを犯していたかもしれないのです。ですから、定説となったその仮説も、常に新たな事実によって検証を受け続ける宿命なのです。定説が覆されることがあるのは、科学の世界では常識ですから。人間は神様ではないという証です。大国主のように死んでから神様になる人間は居ますが(#^.^#)

【古代史問題の科学的解決手法

【参考文献】

吉田一彦「『日本書紀』の呪縛」シリーズ<本と日本史>①集英社新書2016、pp.225-226より引用

『日本書紀』の呪縛を解く

『日本書紀』は日本の過去をありのままに記したような書物ではない。それは、権力の座についた氏族たちが自分の権力の根拠と正統性を神話と歴史から述べた政治の書物であり、過去を支配することを目的とした書物であった。

時間とはどのようなものか。過去は過去だけで存在すものではなく、連続した時間の中で、つねに現在や未来と関連して存在する。『日本書紀』は過去を規定するが、それだけではなく、それによって現在や未来をも規定した。過去を支配しようとすることは未来を支配しようとすることであった。

『日本書紀』の呪縛とは、『日本書紀』が過去を縛るとともに未来を縛ってたきことを指している。天皇を中心とする権力のあり方、天皇を補佐する者による政治の姿、神まつりから仏教にいたる宗教のかたちーー『日本書紀』は国家の形を定め、歴史や政治の原点になる書物として君臨してきた。

 私たちは、そろそろこの書物が規定する枠組みから自由にものを考えるようになってもよいのではないか。私たちの新たな未来を構想するには、『日本書紀』に記されるれ歴史が相対的なものであることを認識し、この書物が描く歴史とは異なる歴史が存在することをイマジネーション豊かに内面化することが必要になる。

『日本書紀』の徹底的な分析をめざして

『日本書紀』は、今からはるか遠い過去の養老四年(七二〇)に完成した書物である。そうした昔の本は、現代の私たちとはほとんど関係しないのが普通である。だが、この書物は少し違う。『日本書紀』は二一世紀を迎えた今も、わたしたちの中に一定の位置を占めて生き続けている。

『日本書紀』を相対化することによって、わたしたちははじめて自由に歴史を考える視座を手に入れることができるし、客観的に歴史を認識する方途を得ることができる。それには、この書物が語る思想の特質や成立の過程を解析し、その姿を白日のものにしていく作業が必要になる。それは日本の人文学の大きな研究課題であると思う。私は、私たちの前に存在する『日本書紀』をさらに詳細に読解しなければならないと考えている。

 

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【検証12】狗奴国は熊本じゃないよ|д゚)

2024-11-28 00:00:05 | 古代史

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#2020-03-05 11:37:36に記事にしましたが、最新の知見を追加します。よろしければ、またお付き合いください(#^.^#)

熊本県菊池市付近が狗奴国じゃないかとする説は、菊池の地名が「魏志倭人伝」に登場する狗奴国の官狗古智卑狗に因むものではないかということと、北部九州に邪馬台国があるのならその南に狗奴国が在るという記事からだと思う。また、菊池付近で鉄器が数多く見つかって、邪馬台国を圧迫する強大な軍事国家ではないかという推測から、この説を信じる方は多いのだと思う。

特に、従来から鉄の本格的な国内生産は6世紀ごろだと言われていたが、弥生時代後期後葉(3世紀後半)にすでに始まっていることが、広島県三原市の小丸遺跡に製鉄炉の跡の発見で知られるようになっている。菊池付近でも鉄を生産していたのではないかということのようだ。

これらはあくまで製鉄炉跡の確認をもって製鉄があったとみなしているのであって、直接法(注1)による場合は鉄塊を取り出す際に炉を破壊する必要があるため炉跡が残らないのが通常である。よって炉跡が発見されていないからといって製鉄がなかったということにはならない。むしろ各地の弥生時代後期以前の遺跡からは数多くの鉄器とともに製鉄段階で発生する鉄塊や銑鉄の鉄滓などが遺物として発見されていることから弥生後期以前より製鉄が行われていたと考えるほうが自然である。◆古代の製鉄 2016年08月22日 | 古代日本国成立の物語(第一部)より)

ということだが一方、「魏志 韓伝」に「弁辰の国々は鉄を産出し韓・濊・倭の人々はみなこの鉄を取っている。いろいろな商取引にはみな鉄を用い、中国で銅銭を用いるのと同じである。またこの鉄は帯方・楽浪の二郡にも供給されている。」という記事もある。(藤堂明保等「倭国伝」講談社学術文2010,p.92)

この記事は弥生後期前葉(1世紀)以降の半島南部(弁辰)のことだろう。この鉄は鉄鉱石を直接還元して得られる錬鉄の塊りであり、炭素量が銑鉄よりも少ない軟鉄であり、板状鉄製品として北部九州を経由して、西日本にもたらされている(藤尾慎一郎「弥生時代の歴史」講談社現代新書、2015,p.209)。多分7世紀までの日本は、主としてこの半島南部の鉄資源を確保するために出兵してがんばっていたのだろう。

従って、すでに弥生後期には国内(備後・丹後など)で生産された鉄も一部にはあるが収量や質の問題があるから、主として半島からこの鉄素材を入手して列島内で鍛冶製鉄によって武器や農機具などの鉄器が造られていたと考えている。国産で十分に賄えていれば半島の鉄資源は不要だからだ。

そこで、鉄器が数多く発見されている阿蘇付近の狩場遺跡群の鉄器保有の様相を見ると、以下のとおりだ。
「九州北部でみられたような鉄鎌や鋤先などといった大型鉄刃農具の出土数は少なく、その多くが鉄鏃、次いで鉇(やりかんな)、摘鎌といった小型鉄器が主体となる。また阿蘇郡を中心とした阿蘇山麓周辺の弥生時代後期の大規模集落には、多量の鉄器、鉄片とともに鉄滓が頻繁にみられる。このため、当該地域では鉄器だけでなくその原料素材さえも生産していた可能性が指摘されている。北部九州に素材を頼らずに地域内で成品を加工した可能性もありえよう。」(野島永「弥生時代における鉄器保有の一様相」京都府埋蔵文化財論文集6、2010,p.45)



菊池の遺跡群方保田東原遺跡・うてな遺跡でも鉄鏃が大量に出土しており、筑紫平野を抱えた奴国のような食料を自給する国ではなく、主として鉄鏃などの武器を生産する軍事拠点であり、鉄素材や食料などを外部から供給していたと推理した。(2024.11.27 赤字追加)

それでも菊池付近が邪馬台国に対抗する狗奴国だと主張するならば、3世紀の後半に纏向ヤマトで誕生したヤマト王権について前回の検証で見たとおり(【検証11】定説の根拠を疑え(^_-)-☆)、北部九州から土器がほとんど運ばれていないことから考えて纏向ヤマトは邪馬台国ではないし、北部九州の邪馬台国が纏向ヤマトに東遷したのでもないことも考古学から分かる事実だから、それでは邪馬台国でも狗奴国でもない纏向ヤマトはいったい何者なのか、どういう経緯でヤマト王権が成立したかということが全く説明できない。

ということで、纏向遺跡が菊池の狗奴国(注3)を操っていた黒幕だというのは、鉄鏃が大量に出土した方保田東原遺跡から山陰や畿内の土器が出土しており、狗奴国王卑弥弓呼は纏向遺跡に居たと考える方が自然だろう。つまり菊池の遺跡群は纏向遺跡の狗奴国の出先の最前線軍事拠点で、狗奴国の官狗古智卑狗が指揮して北部九州の倭国と抗争していたと考えることができる。
【検証18】倭国大乱の痕跡だ!で弥生後期後葉の第一次倭国大乱期の鉄鏃・銅続の出土状況を示したが、鉄の供給ルートを以下の図のとおりと推理した。(2024.11.27 赤字追加)



つまり、年齢的には、大国主の先代の狗古智卑狗だが(最後の奴国王スサノヲの子孫の出雲・丹後王の八束命・日高彦親子、豊岡市久久比神社の祭神久久遅彦は王の襲名、詳細は「【刮目天の古代史】出雲・丹後王国の謎!」参照)、スサノヲ大王の時代からコネのある半島南部(弁辰)の製鉄場から鉄素材を仕入れて、備後(三次・庄原)や丹後半島の鍛冶炉で鉄製品を作り、吉備のニギハヤヒ大王やその直系の子孫の狗奴国王卑弥弓呼(注2)に供給し、ヤマトの拠点集落の開発を行ったのだと考えている。同時に、阿蘇から菊池にかけて鉄鏃などの武器製造の集落(軍事拠点)を造り、北上して倭国の領土である筑紫平野を攻撃したのだろう。これが第一次倭国大乱だ。(2024.11.27 赤字追加)

上記のとおり恐らく、阿蘇・菊池付近でも一部は在地で製鉄炉を作り、砂鉄や褐鉄鉱を直接還元して鉄素材を供給していたのだと思うが、大量の鉄素材が必要なので半島からも板状鉄製品を供給したものと考えられる。倭国が師升一族の伊都国男王難升米(スサノヲ大王を殺した帥升の子孫の王の襲名)に支配されていたために「魏志倭人伝」にある壱岐・対馬経由のルートが使えないこともあり、ムナカタ海人族の助けを借りて沖ノ島ルート(海北道中ルート)を使って供給していたのだと推理した。大和朝廷が4世紀以降におこなった沖ノ島祭祀はこの頃のムナカタ海人族の貢献を称え、卑弥呼(イチキシマヒメ)の怨霊を抑えてもらうために行われているのだと思う(詳細は「【検証3】『神宿る島』宗像・沖ノ島の謎 」参照)(2024.11.27 赤字追加)

【関連記事】

【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?(*^▽^*)

奴国宮廷楽師帥升(正しくは師升)らの反乱を逃れたスサノヲの弟ニギハヤヒが吉備の裏切り者を征伐して、吉備で奴国を再興した。ヤマト王権の基礎を築いて、宋史王年代紀に第19代奴国王天照大神尊とされている人物。今上天皇はその子孫と推理している(詳細は「【刮目天の古代史】天智天皇の謎?( ^)o(^ )」参照)。

 

【刮目天の古代史】出雲・丹後王国の謎!

日本の建国において最も活躍したのは、王として、列島各地に散らばって活動していた縄文海人ムナカタ族を束ねたスサノヲの子孫たちでした。日本書紀は神代の日向三代の神話などを創って徹底的に隠しましたが、考古学や民俗学などの成果から推理しました。(^_-)-☆

 

 





(注1)紀元前2000年頃のヒッタイトの遺跡から製錬された鉄が発見されている。ヒッタイトはこの鉄器によりオリエントを制したと言われているが、このときの製鉄法は塊錬鉄製鉄法であった。紀元前12世紀頃、ヒッタイトが滅亡するとこの製鉄技術が四方へ伝播し、紀元前9世紀には中国に伝わった。
 中国では伝来当初は塊錬鉄製鉄法であったが、華北地方では紀元前15世紀頃から始まった銅精錬と製陶技術を応用して鋳鉄製造が早くに始まった。当時の製陶においては1280℃の高温を得ることができたことから、1200℃を越える製錬温度で溶融銑鉄を製錬する間接製鉄法が発達した。春秋戦国時代には製錬炉で溶融銑鉄を撹拌脱炭して効率的に鋼ができるようになり、漢の時代には間接法による製鉄技術がほぼ完成されることとなる。
 一方、江南地方ではオリエントやインドからの伝播と思われる海綿鉄の直接製鉄法が発達したことにより、紀元前後(日本における弥生時代中期の終わり頃)、広大な中国大陸では華北では間接法、江南では直接法という具合に2つの製鉄法が並立することとなった。
◆古代の製鉄 2016年08月22日 | 古代日本国成立の物語(第一部)より)

(注2)卑弥呼がヒメミコからくるとしたらヒコミコの誤写で卑弓弥呼だったのではないかと考えられる。天照大神尊ニギハヤヒ大王直系の男子の皇子(ミコ)が王になっているということだと考えている。

(注3)第一次倭国大乱の時期では狗奴国の王都はニギハヤヒ大王の吉備の遺跡群(倉敷市上東遺跡など)にあった。楯築王墓はニギハヤヒ大王が被葬者だと推理している(詳細は「【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?(*^▽^*)」参照)。敵対する倭国が公孫氏などと交流して隆盛になったので、ニギハヤヒの直系の子孫卑弥弓呼王が播磨から河内に展開し、拠点を築いたと考えている。纏向遺跡は204年以降に卑弥呼が女王に共立され、半島南部から鉄素材が供給されなくなったので、その対応として卑弥弓呼王(記紀の開化天皇)が各地に散らばった旧奴国王族を結集するために纏向遺跡に政治都市を建設したと考えている。狗奴国の名称は倭国王難升米が旧奴国の蔑称として作ったと考えている。(2024.11.27 赤字追加)


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渡来人は異民族とは限らない?( ^)o(^ )

2024-11-27 00:00:02 | 古代史

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古代史ランキング

#2021-11-27 19:23:30に公開しましたが、図のリンクが切れていましたので修理し、その後の研究で藤原鎌足の正体も判明していますので、(注3)に記事のリンク先を追加しました。よろしければまたお付き合いください(#^.^#)


#2018-06-17 00:54:34の記事ですが、この話も重要なのですがあまり読まれていないので、注記を追加して再度アップします。実は、(注2)と(注3)に書きましたが、古代史を塗り替えるようなとんでもないことがわかりました。とりあえず、最後までどうぞ!

藤原鎌足は百済王子の豊璋? 関裕二説

藤原鎌足が百済王子余豊璋だという説は当時の状況を考えると、謎が説明できていいかなと考えてます( ^)o(^ )

でも、もしも百済王の出自が自称、高句麗と同じ北方アジア系とするならば、現代日本人男性のY染色体を調べると、C2はわずか3%です。

*東アジアの民族の父系のルーツを整理して図にしましたのでご覧ください。

クリックで精細な図になります( ^)o(^ )

 (詳しい解説は、日本民族とその周辺民族の父系のルーツ! を参照してください)

この3%は平安時代に貴族としてかなりの荘園を所有し、あれ程勢力を張った藤原氏にしては少なすぎると思いますね(^_-)-☆

そうすると百済は馬韓の伯済国から出たとする説もあり、馬韓人ならば現代コリアン男性の1/3の殷(商)人系の可能性があります(実は、倭人と近い。でも現代コリアン男性の4割はシナ人系O2です)。しかし、これも現代日本人の中に8.4%ですから、やはりこれもちょっと少なすぎるような気も少しします(注1)。

そうすると現代日本人に1/4も居る倭人系であると考えるといいかも知れません。つまり藤原氏は倭人系の渡来人か?( ^)o(^ )

前から考えてますが、半島からの渡来人と言っても、663年に白村江で敗れて完全撤退するまで半島南部は倭人の勢力が結構強かったので、渡来人=倭人の可能性があります。(注2)。

つまり、百済人とか新羅人などは、必ずしも異民族とは限らずそこに住んでいた倭人を指すかも知れません。加羅の人々も(ほとんど倭人か)、562年に大加羅が新羅に滅ぼされ新羅人と呼ばれた可能性があります(注3)。

また日本の越(コシ)も、紀元前4世紀に越(エツ)が楚に滅ぼされて越人が日本に着たのであれば0.8%しか現代日本人男性に居ないのも少なすぎかも知れません(多分越の王族かも( ^)o(^ )と書きましたが、言い伝えでは越の王族は呉と同じ夏人でしたので間違い)。

日本に来た越人の大半は、越に居た江南の呉人(=倭人)という中田力説が良いようです(「日本古代史を科学する」PHP新書、pp.129-138)。彼らは紀元前463年に越に滅ぼされた呉の人ですが、同じ水田稲作・漁労民族ですから江南に残留した呉の人たちです。ちなみに越を滅ぼした楚の人は文化の異なる異民族です(注4)。

渡来人に対する見方を考えていただく話でした(^_-)-☆

(注1)その程度なのかもしれません。
でも、ルーツが倭人系でないとしても、千年以上日本の風土の中で日本人として暮らせば、日本人であることは変わりないと思います。たとえ、特別な文化をずっと継承していたとしても日本国民として長い間暮らせば日本人の考え方になっていますから、今更異民族として扱う理由もないでしょう。そんなこと言ったら倭人だって縄文人とは違う異民族ってことになってしまいますから。

弥生人が渡来人だというのは間違いですよ(;一_一)

主に、水田稲作文化や金属文化などを日本列島に持ってきた倭人(江南の呉の人々)と、もとから居た縄文人、そしてこれらの人々の混血が、弥生時代に居た日本人であって、それが弥生人ですよ(^_-)-☆

日本の中にアイヌ民族とか琉球民族が存在するなどありえません。関西人や関東人や九州人などと同じように、アイヌ人も沖縄人も同じ縄文系をベースとする日本民族で日本国民ですよ。反日国家の謀略に引っかかると、悲劇しかないでしょう。

一方で、現代の日本に文化の違う異民族を移民として入れると、そこにコロニーが出来上がって、日本の中に別の社会ができ、最後は独立を主張することも考えられますので、これも悲劇を生む可能性が出てきます。やはり、民族はそれぞれ独自の文化を持っているわけですから、生まれ育った場所で国家を作り、一緒に暮らすのが安心できると思いますね。(^_-)-☆

(注2)新羅については、仏教の伝来を調べていて分かりましたが、新羅ではもともと龍神(ナーガ)を祀っていたとありましたから、間違いなく倭人(江南の呉人)でした(崔琮錫「弥勒信仰の新羅的受容と変容」東アジア仏教学術論集2017-01、p.201)。倭人は弁韓・辰韓にも居ましたので、渡来系の新羅人は、列島に戻って来た倭人ということです。筑前・豊前から豊後にかけて奴国大王スサノヲ(龍王、第四代脱解王のモデル)の子孫たちや縄文系ムナカタ海人族卑弥呼と関わりのある倭人の子孫が住み着いたようです。宇佐地方で辛嶋氏が祀っていた原八幡神は宗像女神卑弥呼です。

(注3)これも驚きの事実ですが、百済には二つあり、最初の百済は遼西(現在の河北省の一部と遼寧省の一部)に居り、伝説どおり、高句麗と同じツングース系扶余族でかなり強国で楽浪郡まで支配しました。しかし、六世紀初頭に滅び、馬韓の伯済国が百済を名乗ります。「日本書紀」で百済としたようですよ(坂田隆「古代の韓と日本」新泉社1996)。好太王碑(こうたいおうひ)では四世紀末ですから高句麗が討った楽浪郡の百済の残党という意味で百残と書かれています。その後の百済からの渡来人は倭人です。また後で詳しく説明したいと思っていますが、やっぱり、不比等は藤原氏の出自(伯済国の王族)を隠すのも大きな目的のひとつでした(詳細は「【衝撃】百済王のなぞ?いつ・誰が背乗りした?」・天智天皇とは何者だ?( その4 )参照)-☆

(注4)楚の成立(Wiki「楚(春秋)」より)
楚の成立に関しては、漢民族の母体となった広義の黄河文明に属する諸族が移住して成立したとする北来説と、それとは異質な長江文明の流れを汲む南方土着の民族によって建設されたとする土着説がある。楚の成立に関してはさまざまな仮説があるものの、いまだに定見も有力説も定まっておらず、民衆および支配層がいかなる民族であったのかは解っていない。
北来説の中で有力視されるものに、現在の河南省から山東省南部に分布していた東夷が楚を建国したという説がある。また土着説では、湖北から湖南・貴州省に点在するミャオ族の祖先が楚を建国したという説が有力視されているものの、どちらも有力な証拠はまだない。近年、楚墓発掘の進展で、おおかたの埋葬が王族庶民を問わず周様式の北向き安置ではなく南を向いて安置されており、当時の中国では珍しい形式であるため、土着ではないかとする説がやや有力になっている。



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「記紀は天皇の歴史書」が古代妄想?(;^ω^)

2024-11-26 00:01:55 | 古代史

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【ゆっくり解説】創建以来天皇が出雲大社本殿に入ることができない衝撃の理由がヤバい…【総集編 歴史 古代史 ミステリー】
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@katumoku10
古代史が謎だらけなのを多くの皆さんはロマンと思っているようですが、身近な話を考えてみればすぐに気づきます。あいつが言っていることは物証がないということならば、アイツは嘘ついていると直ぐに気づきます。ところが古代史は、現存する最古の歴史書「古事記」も正史「日本書紀」も「天皇の歴史書」という刷り込みがあるので、事実、つまり考古学や民俗学などの成果と文献が異なっていても、何らかの事実が書かれているはずだと、何となく思っているようです!(*´Д`)

そうなんですよ。日本書紀は天武天皇が編纂を命じたのですが、何と崩御34年後に完成しているのです。当時の権力者は藤原不比等だったのです。藤原氏にとって都合の悪い三世紀までの建国時代の史実を神話にして誤魔化して、人代もかなり改ざんしていることが事実から分かっているのですよ(詳細は「ほとんどの日本人が知らない?記紀神話と天皇」参照)

先に完成したとされる古事記ですが、実は九世紀の学者多人長(おおのひとなが)が突然表に出してきたものなのです。正史に記録はありませんし、日本書紀が参照した形跡もないのですよ。日本書紀が隠した史実を暴露する暗号書だったのです。この暗号を解けば空白の150年に隠された二人の天皇が判明し、富雄丸山古墳の被葬者も分かりました。また、倭の五王の系譜も分かりました(詳細は「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)(その2)(その3)」参照)。

古事記は平安時代中期の摂関政治になる前まで7回ほど行われた日本書紀の勉強会「日本紀講筵(にほんぎこうえん)」でサブテキストとして使われたようですが、その後はほとんど読まれず、祭祀関係の氏族が細々と伝えていたのです。それを江戸時代の国学者本居宣長が発掘して絶賛したのです。その影響を受けた神道家平田篤胤が記紀神話に基づく復古神道を唱え、それが幕末の勤王の志士らに人気になりました。明治になって、それまで日本書紀の神話が神仏習合、修験道などの影響を受けたナーガ(龍蛇神)信仰の中世日本紀という神話に変貌していたのですが(斎藤英喜「読み替えられた日本神話」(角川選書)参照)、神仏分離令がでて、全国で廃仏毀釈運動が起こったのです。神様を祀っている仏教寺院が打ちこわしに遭い、僧侶は無理やり還俗させられる暴力的なもので、日本版文化大革命だったのです。後に、フェノロサなどの活躍で寺院が復活されるようになったので今のような形になっているのです。そして、記紀神話に基づく国家神道が創設されて、学校で国史が教育されたので戦後の日本人も記紀神話が日本古来からの伝承だと洗脳されているのですよ(;^ω^)

それに気づけば話は簡単で、事実に基づかない神話や歴史が何のために作られたのか不比等の意図を推理すると、古代史の真相が解明できますよ。詳しくは「【刮目天の古代史】古代史を推理する」をご参照ください。

例えば、日向から出発して大和で即位した神武東征神話は史実を誤魔化すためなのです。ヤマト王権が成立した三世紀の奈良盆地には戦乱の痕跡はありません。逆に、ヤマトから九州や日本各地に遠征した崇神天皇の四道将軍のルートから戦跡を見つけました。同時に景行天皇の九州遠征についてもそのルート上で戦闘があったことが、同様に、鉄鏃・銅鏃の出土状況から分かりました(詳細は「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。日本書紀が三世紀の日本建国の戦いを崇神天皇から景行天皇の約150年の話に引き延ばして誤魔化したのです。


(詳細は「国譲り神話の史実は?」参照)

 

そして三世紀末から全国的に前方後円墳が作られるようになりますので、崇神天皇が日本を統一してヤマト王権を成立させたと分かります。崇神天皇紀には大国主の祟りで半数の国民が死ぬことになったので、大国主の子オオタタネコを探して祀らせたら国は収まったという話になっています。これが初代ヤマトの祭祀王応神天皇の史実だったのです。応神天皇の本当の父は大国主だったのですよ。そして纏向遺跡をヤマト(邪馬台国)と呼んだのです(詳細は「何故、大和をヤマトと呼ぶのか?」参照)。

だから崇神天皇の末裔の天皇は祟りが怖ろしいので、出雲大社には行幸して参拝できないのです。

これらを解明する過程で卑弥呼の正体が宗像女神市杵島姫で、卑弥呼の径百余歩の冢が宇佐市安心院町「三柱山古墳」と分かりました。

よろしければ「刮目天の古代史」をご参照ください。どうも、お邪魔しました(;^ω^)

 

【関連記事】

言挙げしてはいけない古代史の秘密(;^ω^)

奈良時代から平安時代にかけて、朝廷は以下の四柱の神様だけ皇族に与える特別な位階の神階「品位(ほんい)」一品を差し上げているのです。

伊佐奈岐命 (淡路国 伊弉諾神宮)
八幡神・八幡比咩神 (豊前国 宇佐神宮)
吉備都彦命 (備中国 吉備津神社)

宇佐神宮の八幡神(大国主命)・比売大神(市杵島姫命・卑弥呼)、そして吉備都彦命とされて隠されたニギハヤヒとその父イザナギのこれら四柱にだけ最終的にすべて一品(いっぽん)をお贈りしていますので分かりました。大国主の子孫のヤマトの大王から皇位を奪ってしまったので、最も祟りを怖れる大国主大神を祀る出雲大社にはどなたも行幸して参拝できないのでしょう。代わりに本当は大国主である天照皇大神を伊勢神宮で丁重にお祀りしているのですよ。

日本の古代史の学術的な探求で分かったので、これらの秘密は決して、神社・仏閣に行って尋ねないでくださいネ!葦原あしはら瑞穂みづほの国はかむながら言挙げせぬ国ですから(;^ω^)

隠された倭王と創作された継体天皇?

隋書 倭国伝」に登場する俀王姓阿毎字多利思北孤(倭王アメノタリシヒコ)が日本の現存する最古の歴史書「古事記」と正史「日本書紀」では推古天皇(第33代、在位593年ー628年)の時代とされています。記紀が「天皇の歴史書」だと思わされているいろいろな方が様々な天才的な発想でつじつま合わせの仮説を立てるだけで、ほとんど検証されていません。事実による検証をしっかりと行わないので、日本の古代史は仮説のジャングルの中で迷子になっていたのです。

藤原不比等が日本書紀の中で不都合な史実を隠ぺいし、そのために歴史を改ざんしたことに気付けば、仮説を考古学や民俗学などの成果で検証する科学的な方法「アブダクション」によって、真相に近づくことができるのです(;^ω^)

 

奴国は龍蛇神(ナーガ)国のことですよ~(#^.^#)

「日本書紀」について、最近の歴史学会では津田左右吉の成果からかなり研究が進んだようですが、やはり根底には「天皇の歴史書」だという思い込みがあるので、真相にまでは到達できなかったのだと思います。吉田一彦「『日本書紀』の呪縛」(集英社新書 2016年)は不比等の呪縛から目覚めさせてくれるもので、これまでの研究者の考え方の問題がよくわかる、とても参考になる本です。





【後記】

古代史界隈に「古代妄想」というちょっと過激に聞こえるギャグを入れましたが、妄想を逆手に取って開き直る方も居たり、ご不快に感じる方が居るかと思いますので、ここでちょっと言い訳です(;^ω^)

事実に基づく想像は、科学的な探求において推論とか推理という正しい方法です。しかし人間は空想する生き物なんです。空想は事実に基づかない想像のことです。普通は、本人も空想かも知れないと自覚していますが、空想に凝り固まって反証を受け付けない信念になると妄想という精神医学上の症状ということですネ(*´Д`)

古代史探求に嵌っている多くの方は、事実に基づかない「空想」を仮説にしたままで、数多くの事実で仮説を検証しようとしないようです。都合の悪い反証も無視するようですので「古代妄想」ということなのです。以前に、ある著名な古代史研究家のブログで、その点を指摘しても、「検証は後世に行われるハズだ」と自信満々だったので驚きました(#^.^#)

歴史あるいは歴史学という学問は人文科学の範疇ですので、科学の手法に従う必要があります。なぜならば、科学の手法による結果は偏見のない多くの方が納得行くものですので、定説として認められやすいからなのです。その仮説は「科学的な信念」になり(詳細は「なぜ邪馬台国問題が解決しないのか?」参照)、教科書にも載るような定説になります。これが科学的な探求の目標です。

しかし、定説となっても、それを導く過程で何らかの見落としやミスを犯していたかもしれないのです。ですから、定説となったその仮説も、常に新たな事実によって検証を受け続ける宿命なのです。定説が覆されることがあるのは、科学の世界では常識ですから。人間は神様ではないという証です。大国主のように死んでから神様になる人間は居ますが(#^.^#)

【古代史問題の科学的解決手法

もしも何か疑問点が生じましたら遠慮なくコメントしてくださいネ(^_-)-☆        


最後まで読んでいただき、感謝します。
初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」にアブダクショを説明していますので、是非ご参照ください!
よろしければ、 を何度でもいいですから、思いっきり押してください。