サラリーマンを辞めて、郷里に帰ってきた亡父は、程なく自分の店を出した。
実家の本店から1kmも離れていない場所だが、その当時は街の中心部になっていた。「川端通り」と「仲町」の交わる角にある木造3階屋の1階を借りた。
大家は2階でダンスホールを経営しており、3階に住んでいた。
店舗の奥まった所に50センチほど床を高くした居住空間があり、6帖の板の間に3帖の台所がくっついていた。風呂はなかったので銭湯を利用した。 狭いながらも一家五人が慎ましく暮らしていた。
夕方になると階上からダンス音楽が流れてきて、夕食はいつもBGM付きだった。 激しいステップで天井の一部が踏み抜かれ、夕食が台無しになったことが二度あった。「蛍の光」を最後にようやく静かになると、私達も眠りについた。
私の夜型の生活リズムは、この時に形成されたのだろう。
家にはチョークがいつも置いてあり、私は大きなコンクリートのキャンパスに絵を描いて遊んでいた。
実家の本店から1kmも離れていない場所だが、その当時は街の中心部になっていた。「川端通り」と「仲町」の交わる角にある木造3階屋の1階を借りた。
大家は2階でダンスホールを経営しており、3階に住んでいた。
店舗の奥まった所に50センチほど床を高くした居住空間があり、6帖の板の間に3帖の台所がくっついていた。風呂はなかったので銭湯を利用した。 狭いながらも一家五人が慎ましく暮らしていた。
夕方になると階上からダンス音楽が流れてきて、夕食はいつもBGM付きだった。 激しいステップで天井の一部が踏み抜かれ、夕食が台無しになったことが二度あった。「蛍の光」を最後にようやく静かになると、私達も眠りについた。
私の夜型の生活リズムは、この時に形成されたのだろう。
家にはチョークがいつも置いてあり、私は大きなコンクリートのキャンパスに絵を描いて遊んでいた。