「脳死は人の死」と参議院でも可決されました。
前も日記に書いたけど
私自身は死後献体を申請しています。
つまり脳死の場合でも「病院の判断に任せる」。
病理献体も良し。解剖献体も良し。
今後の医療の役にこの体が立てるなら
この体の何処かの部分が誰かの命を救えるなら
今まで生かしてもらえた感謝とお礼をこんな形で返したいと思ってます。
でも 人様がどう選択するかとかは実は興味はありません。
だって人は生まれるときも死ぬ時も1人だから。
自分の死については自分で考えたいから。
今回の15歳以下の子どもの脳死についての「脳死判定」
反対と言う意見を沢山聞きます。
我が家でも子どもに説明して『自分だったらどうして欲しいか?』
考えてもらいました。
万が一 その場合希望を尊重したいから。
他人事ではないといつでも思うから。
すると
『役にたてて欲しい』と子ども等は言いました。
あくまでもうちの場合です。
人の命を救えるなら 脳が死んだら人は死んだと判定されるとも説明した。
まだ暖かく顔色も普通。だけど死んでいると判定されると。
去年亡くなった従兄は4年半 脳死状態で生かされていました。
意識があるときから「植物人間にはなりたくなかなぁ~」と
家族の迷惑になると延命を拒否していた従兄は
自分の意思を尊重されずに4年半も機械につながれ生きていました。
反応しない目から涙を流していました。
それが何を意味するのかは分らないけど
私は従兄の「死ぬとしたら」の希望を聞いていたので
とても辛い思いで見ていました。
家族を非難する気持もないです。
生きてくれてるだけでいいんだ。と言う従姉の気持、ハトコ達の気持も
痛いほど分る。
脳死とはそれ程難しい。
生かし続けても後悔の日々を彷徨い
意志を尊重しようとしても決意を固める事が出来ない。
そんな親戚や知り合いを数多く見てきました。
子ども達が思い病に苦しみ 移植を待つのを思うと
やはり私は移植の問題が前進する事を望みます。
でも まずは対象となる子ども達に充分に教育をして欲しい。
自分の命について。
人の命について。
「脳死は人の死」と言う言葉が誤解をうむと思う。
他人事のような「人の死」
「脳死は人間の死」と言えばまだ子ども等も世間にも分りやすい。
今まさに どちらにも直面してる人達がこの世の中にいて
どうするべきか苦しんでる。
法律という壁を越えて より深く深くそれぞれが考えて
いつか来る死について考える機会と時間をもてたら。
可決された事で 脳死移植を断る人を批判する事のない
選択肢をキチンと与えて欲しい。
脳死移植を希望する人も同じく非難される事がないように
そんな道筋を作って欲しいと思いました。