さゆりのひとり言-多発性骨髄腫と共に-

多発性骨髄腫歴20年/'08年4月臍帯血移植/「病気は個性」時にコケながらも前向きに/はまっこ代表/看護師/NPO所属

多発性骨髄腫、奇病に侵された人間のたわごと

2006年04月21日 12時31分22秒 | MM闘病記
骨髄移植を受けて社会復帰している患者仲間の日記を読んだ。
その文章は、ものすごいパワーにあふれ、輝きに満ちていた。

骨髄バンク関係のシンポジウムに出た話が書かれていたのだが、
彼女は、その会に出席して、バンク設立者からのパワーを得たという。
輝きを感じた、という彼女自身も、その文章からあふれ出る輝きを帯びていた。

日記の中で、彼女は、
ドナーさんからもらったものは、「時間と生きる責任」と書いていた。
今は生きぬくことが人生の目標、と。

読みながら、私は、涙を流していた。
なぜだろう。
もちろん、感動したのだ。
同時に、自分自身に問いかけていた。

私は、早く死んでしまいたいとさえ最近思ってしまう。
いつまで、今のままの生活を送れるのかもわからない。
この先、どんな治療が必要となるのかも分からない。
サリドマイド、ベルケード・・・。
お金がいくらあったって安心することは出来ない。
骨破壊が進んで、身動きが取れなくなるかもしれない。
動けないどころか、痛みに苦しまなければならないかもしれない。

そんな最悪なシナリオを、それでも、視野に入れて今の生活を送らなければならない日々。
どうして、前向きにいられるだろうか。
まあ、ほとんどの時間は結構前向きなのだが。

しかし、私の根にしっかりとこういった問題が巣食っているのだ。

私は、同種移植をしたわけではない。
血液科の病棟で入院している限り、自家移植なんて、だ。
「自家移植なんて、同種移植に比べたら・・・」
と始まる。
劣等意識を植えつけられる。
もちろん、冷静に考えれば、こんなにつらい思いをして、なぜに比べられて劣等感を持たなくてはならないのか、と思うのだが、私はいつも大きな賭けには出ずに中途半端な事しかできていない感に襲われる。
それが、最善の治療の選択であるにもかかわらず、だ。
であれば、なぜにもっと医療者はフォローしないのか、とさえ思ってしまう。
まあ、勝手な注文なのは承知の上だが。

白血病?
なんてうらやましい病気なのだろうか。
大きくたって懸けるチャンスが与えられる。
懸けに勝てば、素晴らしい人生が待っているではないか。
ドナーさんとの一体感を感じ、人生の責任を得られ、目標まで定まってしまうのだから。
白血病に限らない、彼女の場合は、骨髄異型性症候群だった。
とにかく、治る見込みのある病気であることなのだ。

多発性骨髄腫。
なんとも、中途半端で厄介な病気だ。
まあ、私の性格にはあっているというか、だからこそ、罹った病気なのかも知れんが、なぜに、あなたは、私をここまで追い詰めるのだ。

くそ。

あ~わが人生の小ささよ。
どうせ、死ぬんだからと思うなら、人生の大きな賭けをすればよいではないか。
したいことをしてみれば良いではないか。
マンションのローンなんてくそくらえだ。
安定した仕事が、いったい何をもたらしてくれるというのだ?
お金があれば幸せか?
安心して治療が受けられるからか?
治療を受けたい、って言うことは、やっぱり生き抜きたいって言うのか?

死ぬことにも、生きることにも夢中になれない。
わが人生、なんて中途半端なんだ。



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