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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−17 (行基現われる)

5. 神奈備山の修行道場

甘南備寺伝によると甘南備寺は天平18年(746年)に行基菩薩によって創建されたと伝わっている。

天平十八年人皇四十五代聖武天皇の御代行基菩薩は普く諸国巡遊して專ら仏法を弘通し足跡の印する處其の創建に係る寺院甚だ多りしが隅々行化して石見の甘南備荘に来り縣の社として知られたる、渡之山甘南備神社の鎮座し玉ふ實観ヶ嶽の勝地を求め此処に錫を留めて勤行する事数日時に熊野六所権現の御告げに依って行基菩薩は自ら虚空蔵菩薩の御尊像を彫刻し、一宇の草堂を結び安置して求聞持の法を修し仏法の興隆を期し玉へり。

(同寺の梵鐘は大和大仏の鐘と同時の鋳造なりと云い伝ふ)

行基とは、奈良時代の高僧​​(生没年 : 668〜749年)で、15歳で出家し、本薬師寺で法相宗を学び、民間布教に努めた。

弟子を率いて諸国を巡り、橋を架ける、道を作り、池を掘る、寺を建てる等、社会事業に力を注いだ。

その後、東大寺大仏造立に際し、弟子と共に協力し、その功績が認められて745年にわが国最初の大僧正に任命された。聖武天皇に深く尊信された。人々は行基菩薩と呼んだという。

なお、東大寺大仏は天平17年(745年)に制作が開始され、7年後の天平勝宝4年(752年)に開眼供養会が行われた。

行基の生涯からみて、甘南備寺が行基本人によって創建されたというには、かなり無理がある。というのは、甘南備寺が創建された天平18年(746年)は、行基の年齢は78歳であることになるからである。

大仏造立の時期や、高齢であることを考えると、この片田舎に来て寺を創建することはどう考えても無理である。恐らく、行基の命を受けた弟子が布教のためこの地に立ち寄ったのではないかと思われる。あるいは、行基とは関係ない僧が創建したが、行基の名声が伝わるなか、いつの間にか行基の成したことになったのか、ではないかと思う。

「行基会発行」の行基由緒寺一覧によると、

行基の由緒を持つ寺院は島根県に9寺院ある。この内石見地方に有る寺院は、甘南備寺と浄念寺である。

浄念寺は浜田市旭町今市にある寺院で宗派は浄土真宗。阿弥陀如来(延宝年間行基作)。元和二年浄念が創設されたとある。(但し、元和、延宝とも江戸時代に使われた元号である)

ともあれ、甘南備寺が天平18年に創建されたということであるが、それは誰が、どの様に行ったのか?

なぜ、行基が甘南備寺を創建したと伝えられているのか?それなりの理由があったのだろうか?

妄想が湧いてくる。

 

5.1. 行基現われる

天平18年のことである。一人の男が渡村(桜江町坂本)に現れた。年の頃40歳前後で僧であった。

その僧は行基という名前で、大和国から来たと云う。行基は仏教の布教を通じて、苦しむ人々を救うために諸国を行化していると言った。

村人は行基のことは、ここ渡を通過する旅人や国や郡の役人から噂で知っていた。

なんでも、大和の国に大きな仏像を造り始めており、その勧進を行基という偉い坊さんが行っている、という噂である。その噂の行基が目の前に現れて村人はビックリした。

仏教や行基、仏像という名前だけは知っていたが、それがどんなものなのかを頭のなかで思い描くことも出来なかったし、ましてや言葉にだして誰かに説明することも出来なかった。

仏教という言葉を知ったのもついこの前のことである。

数年前に、那賀郡(今の浜田市の大部分と、江津市の一部)の国府に国分寺と国分尼寺が造られたことを、噂で知っていた。

しかしこの頃は、民衆へ直接仏教を布教することを禁止しており、この渡に住んでいる人々はこれらの寺に行ったこともないし、見たこともなかったのである。

この禁を破って行基集団を形成して広く人々に仏教を説き、困窮者の救済や社会事業を指導したのが行基であった。

行基の弁舌は巧みであった。流れるように喋り、人々を飽きさせずに喋った。

村人は、この良く喋る男に好奇心を持ったが、猜疑心も捨ててはいなかった。

行基は、村人に仏教について語り出した。

仏教は遠い昔、海の向こうの遥か彼方にある天竺という国に生まれたお釈迦様という人が長い修行の中で悟られた教えである。

簡単に言うと次の通りである。

お釈迦様は、「人生は思い通りにはならない」と知ることが大切であるという。

世の中は諸行無常つまり、移り変わるもので、何一つ変化しないものはないのである。

このことを悟れば、一喜一憂することもなく心の安定が得られ、心の苦しみから解放されるのである。

村人は理解できなかったが、何か自分達には良く分からないが大切なことを言っているのではないかと思うようになった。

都からやって来て、想像もつかない唐・天竺のことを滔滔と喋るこの男には、この地方を治めている役人以上の威圧感と貫禄があるような気がしてきたのである。

行基に対する好奇心と猜疑心は敬意の念に変わっていった。

 

行基は神奈備山を指差して「あの山はなんと言う山か?』と村人に尋ねた。

村人は「神奈備山と呼んでいる」と答えた。

行基は、この山の名前はその昔に都の偉い役人が「神奈備山」と名付けたものであること、また山頂に熊野本宮から勧請した「神奈備神社」が建っていることを村人から聞くと、「しばらくここで勤行してみるか」と思った。

 

行基は神奈備山に登って行った。登山道は尾根伝いに造られており、急峻であった。

登山道は何度も折れ曲がり高度を上げていく。

山頂に着くと鳥居が見えた。

山頂は平地になっており小さな社があった。

『これが神奈備神社か』と行基は思った。

想像していたより小さかったが、綺麗に保たれており、行基は麓の人々の信心深さを感じた。

 

ここを拠点にして、仏教を布教することができると思った。

しばらくここに拠点を構えてみようと思った。

 

<続く>

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