何をどのように食べるのかは、人生をどう生きるのかに繋がっていると思う
点滴や栄養補助食品でも生きられるかもしれません。でもそれは、合成化学肥料で育った水耕栽培の野菜のようなもの。全て管理され虫も付かずキレイな野菜。味も遺伝子組み換えで美味しいかもしれない。美味しいものが栄養価が高いとは限らない。本当は逆。
そして環境が変われば、適応力がなくすぐ枯れてしまうでしょう。
子ども達をそんな人間に育てていませんか?
収穫した野菜を見て思う。不揃いだったり、虫食いがあると、食べるために手間がかかります。均一なら楽なのです。管理しやすいのです。
人間も知らず知らずのうちに、管理する側とされる側に別けられていませんか?
大事な子ども達を、管理されて食べられる(搾取される)人間に育ててはいませんか?
20歳の時、教育実習に行った母校の中学校で『生徒管理』という言葉に違和感があり教員を目指すことを止めました。
その違和感の元が何だったのか…最近それにようやく気付きました。戦後教育…それこそが管理された水耕栽培のような人間を作ること。
均一で従順な労働力としての人間育成
管理しやすい人間の育成が、今の義務教育の本質のように思うのです。(現場の先生の事ではありません。教育指導要領がそうなっているのです)
算数のさくらんぼ算なんてその最たるもの。
人間は不揃いで当たり前
傷ついたことのない人間なんていません
だからこそ、守らなければいけない
でもそれは、他人が外から守るのではなく、自ら守れるように支援でなければいけないと思う
傷ついたり躓いたりしながら、それを乗り越えるから、味がある人生がおくれるのだと思うのです。
苦があるから楽がある
悲しみがあるから喜びを知る
それが生きることではないでしょうか?
管理する側(グローバリスト?ディープステート?)には、邪魔な人間の個性や感情。
それらを一見認めるような『多様性』という言葉に違和感があります。
本来、人は一人一人違う。多様な生き物。
だからお互いの違いを認め、集団の中では同じ所を見つけ、繋がりを保たねばならない。お互いの個性を重んじるからこそ、自重し謙虚でなくてはならないのに、『多様性』という言葉で、自己中心的な考えを肯定する風潮に違和感があるのです。
個人がバラバラになって喜ぶのは、管理する者です。団結すれば強力でも、個は弱い。コントロールしやすくなるから。
違いは主張するものではなく、黙って認めあうもの。違いを主張しあえば、争いになる。
沈黙は金なり
口は災いの元
なぜそんな当たり前のことをわざわざ声高に言うのかが私には理解できない。
認めてもらっていると思えば、主張しないでしょう。認められていないと思うから、主張するのかもしれません…
そもそも全員の人に認められるには、相当の努力と天性が必要だと思う。
大体は10人中1人か2人。1人でも自分を認めてくれる人がいればいい方だと思う。
十人十色
認める人もいれば認めない人もいる
それで良いのではないだろうか?
人はみんな違うのだから、みんなが認めなければいけないと言うことはないと思う
それを、認めるから良い・認めないから悪いにすり替えるから、争いになる
自分の個性を認めていないのは、相手ではなく自分自身。
誰が良い始めた言葉かは知りませんが、その人自身のコンプレックスが生んだ言葉が『多様性』のような気がします
人にどう思われようが、自分らしく生きればいいと思う。あなたが自分を認め輝いていれば、周りも自然と認めるようになる。
主張したければすればいい。でも、主張したから全員が認めなければいけないと言うのはおかしいと思う。