報道されていた。大戦中、本土決戦に備え、
非戦闘員である老人や婦女、児童10万人を
本土または台湾へ疎開させよとの政府の命令が
あり、対馬丸は、この命令により疎開活動に
あたっていた船団の一隻であった。
1944年8月20日、台風による激しい風雨の中、
一般人及び学童合わせて1788名を乗せた
対馬丸は、長崎へ向け出港したが、22日
15ノットでトカラ列島悪石島沖を
航行中、米潜水艦の魚雷を受け沈没し
1418名が犠牲になった。
私は、ひめゆり記念館や南部戦跡の方へは
行ったことがないが、対馬丸記念館と言う
ところもあるので、機会があれば訪れて
みてください。
疎開というのは、爆撃の被害から犠牲者を
出さないために田舎の方へ逃れることだと
思っていたが、それは本土の事でこの宮古島や
八重山は別の意味の疎開であったそうだ。
戦時中、日本軍守備隊の食糧は現地調達が
原則で、3万人が駐留していた。
その食糧不足を補うために、非戦闘員は台湾へ
疎開するように命令されたとオバァが言っていた。
オバァは疎開を拒んだそうだ、そのことで
嫌な思いをしたと言っていたが、あまり
詳しいことは語りたがらない。
台湾へ疎開していたオジィ達は、終戦後もしばらく
収容所で働かされたと言う。よくしゃべる
オジィも戦争の話になると、私に気を使って
くれているのか64年たった今でも言葉を濁す。
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