下地間切に属していた松原村と、砂川間切に属していた久貝村は、
1908年(明治41年)に施行された特別町村制によって、
平良村の松原、久貝という字に置き換えられた。
地域名として使われている「久松」は、1898年(明治31年)に設置されたと記されている。
平良尋常小学校久松分教所(のちの久松小学校)が始まりと言われている。
島のオジィ、オバァは久松のことを「野崎」と呼ぶ。
元々、今の久松と呼ばれる地域には「野崎」という集落があり、伊良部村史に
よると、1310年頃に野崎から海を渡って伊良部に渡り、土地を耕し、のちの
「くがい村」となる基礎を作ったと記されている。
沖縄の魚類図鑑には、魚の方言名が書かれているものがある。
方言名は沖縄主に3つで、糸満方言と伊良部の佐良浜方言、そして久松方言で書かれている。
それくらい過去に漁業が盛んな集落であった。
オバァは久松出身で漁業で繁栄した当時の事をよく知っている。
最盛期にはカツオ工場や鯨の解体工場もあったという。
伊良部島には伊良部漁協があり、池間島には池間漁協があった。
宮古島本島には平良漁協とかっては久松漁協があった。
漁業の衰退と高齢化でなくなってしまった。
30年ほど前までは、沖縄特有のくり船、一人乗りのサバニが漁港には並んでいたが
今では朽ち果てたサバニが数隻あるだけ。
久松に沈む夕日は特別に美しいので、今でもたまにサンセットを見に行くことがある。