日露戦争真っ只中の1905年(明治38年)5月25日。
このとき那覇から宮古島へ向かう帆船が、ロシアの
バルチック艦隊を発見し、宮古島司へ急報した。
それを受けた島司は至急海軍に通報することにしたが、
当時の宮古島には電信施設がなかった。
唯一の手段は八重山の石垣島までサバニで漕ぎ渡り、
そこから電報を発信することである。
そこで久貝、松原の両字から5名の屈強な若者が選ばれた。
垣花善(30歳松原区長) 垣花清(23歳善の弟) 与那覇蒲(26歳)
与那覇松(24歳) 与那城蒲(22歳)
一行は石垣島の東海岸まで130キロの海をサバニで力漕し、
そこから2時間かけて電信所まで走って打電させた。
しかし敵艦発見の電報は、哨戒艦信濃丸の方が早かった。
わずか1時間といわれている。
日本海海戦は日本海軍の大勝に終わったものの、この出来事は伏された。
後に顕彰運動が起こり、昭和5年、昭和10年の海軍記念日に顕彰され、
新聞の報道更には教科書にも載るようになった。
教科書には「遅かりし五勇士」という言葉が書かれていたという。
実はもう一つの説がある。バルチック艦隊が出航し日本に向かっている
ことはわかっていた。しかし日本海を通るのか、太平洋側を通るのかは
わからなかった。そこで当時の海軍は日本の海岸線に物見台を設置し、
周辺海上にはたくさんの哨戒艇を配置して見張っていた。
海軍より先に民間が発見することはあってはならないことであった
といわれている。
事実は五勇士の方が早かったという説がある。
オバァは五勇士の一人が叔父さんにあたるそうだ。
生の五勇士を知っている人だった。
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ダイバー
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きじむな
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