*こちらは、宇都宮市の屋台研究家 池田貞夫氏が季刊誌「しもつけの心」(vol.058、16-19頁、2020年9月発行)に投稿されたものを、池田氏のご了解を得て転用させていただきました。下野(栃木県)の山車・屋台の総論的なもので分かりやすいです。他にも、多くの屋台・山車、さらには天祭に使われる天棚が多数ありますが今回は取り上げていない点はご了承ください。
●全国に誇る栃木の絢爛豪華な山車・屋台
平成28年12月、全 国33件の祭りで構成する「山・鉾・屋台行事」が、ユネスコ無形文化遺産に登録され、栃木県では那須鳥山市の「山あげ行事」と鹿沼市の「鹿沼今宮神社祭の屋台行事」が世界の宝に認められた。2件のランクインは快挙であるが、実は県内には両市に迫る山車・屋台行事が数多くあり、この分野の裾野は広く厚い。遺産登録から3年余、両市はもとより県内各地で当該行事が大いに盛り上がりを見せ、地域コミュニティを結びつける大きな原動力になっている。行事に用いられる造形物の山車・屋台は、本県においては江戸の祭礼文化の影響を受けつつも、独自の進化を遂げた。特に、屋台本体の前後、左右、上下、全てを彩色彫刻で埋め尽くした彫刻屋台は、「動く陽明門」と形容するにふさわしい。本年は新型コロナウイルス感染拡大に影響を受け、ほとんどの祭りや行事が中止となったが、この機会に改めて県内に現存する貴重な山車・屋台について、その種類や歴史、特徴、魅力などを紹介する。
●山車・屋台とは
山車・屋台とは祭礼行事において、氏子らが繰り出す「出し物の一種」である。このうち山車は江戸期には、「出シ(出し)」と表記しており、神様が降臨する依代として繰り出された。このため台車の中央部に心柱を建て、剣や幣束、人形、赤熊(しゃぐま)、万灯など種々の飾りものを掲げた。直立した長い心柱を有することが山車の特徴である。一方屋台(家体)は奉納余興として、お囃子や歌舞伎、手踊りなどの芸能を行う場(造形物)として発展した。屋台は屋根のある家の形をしており、彫刻を施した「彫刻屋台」と造花や提灯などを飾った「花屋台」がある。なお、日光二荒山神社の弥生祭に出る屋台は、今も旧例に習って「家体」の字を使用している。
●宇都宮市の山車・屋台
宇都宮市の市街地及び市域には、現在29台の山車・屋台があり、県内でもトップクラスの台数を誇っている。このうち江戸期の建造のものは18台、明治期のものは4台である。新石町火焔太鼓山車は弘化二年(1845)に造られた、江戸期の宇都宮を代表する豪華な山車である。総高は約9m、舞楽の楽太鼓を模し、頭上に火焔と日輪、下部に龍の彫刻を配している。平成26年、101年ぶりに復元された。伝馬町屋台は県内随一を誇る彫刻屋台で、嘉永五年(1852)に造られ、四方八方を埋め尽くした彩色彫刻は、正に日光東照宮の彫刻に迫るものがある。徳次郎(とくじら)町上町屋台は、文化五年(1808)に造られた文化・文政期を代表する形式の屋台で、彫刻は日光東照宮五重塔再建工事で彫物方棟梁を務めた名彫工「後藤周次正秀」が手掛けた逸品である。
図)宇都宮市 新石町 火焔太鼓山車(2枚目撮影 鹿沼市 駒場氏)
図)宇都宮市 伝馬町の屋台(2枚目撮影 鹿沼市 駒場氏)
図)宇都宮市 徳次郎町上町屋台(撮影 鹿沼市 駒場氏)
図)宇都宮市 徳次郎町田中の屋台
●鹿沼市の屋台
鹿沼市は彫刻屋台の宝庫であり、市街地には27台が揃う。江戸期建造のものは13台あり、最も古いのは下横町屋台の文化元年(1804)である。久保町、上材木町、下材木町、石橋町、仲町屋台など、江戸期を起源とする彫刻屋台は、隙間なく彫刻が施され、その豪華さ、華麗さは終日眺めても飽きることはない。鹿沼市の屋台は奉納余興として、お囃子の演奏を目的とすることから、「囃子屋台」と呼ばれる。屋台後方の下座(囃子場)において、5人1組の囃子方が、意気の合ったお囃子を演奏する。なお囃子屋台には、宇都宮で発達した「宇都宮型」と鹿沼で発達した「鹿沼型」がある。鹿沼型は宇都宮型に比べ全体に規模(概ね間口1.8m、奥行3.6m)が大きく、4つの車輪が屋台本体の内側に配置されていることが特徴である。
図)鹿沼市 下横町の屋台
図)鹿沼市 材木町の屋台
図)鹿沼市 麻苧町の屋台
●栃木市の山車
栃木県内の祭礼行事において、屋台を用いた巡行が主流を占める中、もっぱら山車を繰り出しているのが栃木市の秋まつりである。同市街地には9台の山車があり、2年に1度豪華な山車が出揃う。このうち倭町三丁目の静御前人形山車は、嘉永元年(1848)に江戸日本橋の伊勢町などで造られ、巡行していたものを、明治7年に購入したものである。また万町一丁目、同二丁目、同三丁目、倭町二丁目の人形山車は、明治26年に町内有志が江戸型人形山車を模して建造している。人形は東京日本橋本石町の人形師「3代目原舟月」などに依頼して作っており、その完成度は高い。さらに山車の外周を飾る幕には、緋や白色の羅紗地に飛龍や鳳凰、白虎などの刺繍が見られるなど、山車を一層華やかにしている。このように、栃木市の人形山車には、江戸期に隆盛を誇った江戸天下祭の華やかな祭礼文化が、今に生き続けている。
図)栃木市倭町三丁目の山車(静御前)(撮影 鹿沼市 駒場氏)
図)栃木市万町一丁目の山車(劉備玄徳)(撮影 鹿沼市 駒場氏)
図)栃木市万町二丁目の山車(関羽雲長)(撮影 鹿沼市 駒場氏)
●日光市の家体
日光二荒山神社の弥生祭において、例年繰り出される家体は「花家体」である。この花家体は二層造り(三階建て風)で、切妻屋根の上にヤシオツツジ(造花)が飾られる。4輪の車輪で移動するが、前輪の方が小さい。東 町に8 台、西町に7台の花家体がある。歴史をたどると、日光では江戸期に土台、車輪のない、舘(やかた)造り二層の「担ぎ家体」が造られた。屋根には金色の鯨、周囲に唐獅子やぼたん、白象、人物、唐子などの多彩な彫刻を施した秀麗な造りで、これを何と強カ16人で担いだ。原形を留めるこの「担ぎ家体」は現在4台残っており、市内に保存・展示されている。なお、弥生祭ではこのほか山車の一種である巨大な「万度(万灯)」の奉納も行われ、その一部が現存している。
図)日光市松原町の家体
図)日光市稲荷町の家体
●那須烏山市の屋台
那須烏山市の山あげ行事は、六町が輪番で行事を仕切り、若衆らが山をあげ、 野外歌舞伎を上演する。六町はそれぞれに彫刻屋台を有するが、これらの屋台はお囃子を演奏する「囃子屋台」に対し、「踊り装飾屋台」と呼ばれる。すなわち、 屋台が歌舞伎を上演する場所に到着すると、本体が前後に切り離され、後方の部位は舞台に、前方の向拝と呼ばれる部位は、歌舞伎上演の背景を彩る装飾に早変わりする。このため烏山の屋台の特徴は、車輪が2輪で回転・移動しやすいこと、前方の向拝が彩色彫刻などで彩られている一方、後方は造花と大幕で覆われる。また、屋台正面の頭上を飾る向拝飾りは、一般的に木彫りの彫刻が多いが、烏山では特産の和紙を用いて唐獅子や鶴などを造作した、独特の「ハリカ」の装飾も見られる。
図)那須烏山町の上演
●那珂川町の屋台
那珂川町馬頭(旧馬頭町)のたけのこ祭りは、町内四町が輪番で祭りを仕切り、屋台を巡行するとともに奉納余興を行う。馬頭の屋台は鳥山の屋台同様、「踊り装飾屋台」に分類される。歌舞伎や手踊りの上演時に、華麗な彫刻屋台を舞台背後に据えることによって、場面に彩りを添える。馬頭の屋台は車輪が二輪で、前方の向拝が特に豪華であること、屋台前方に伸びた長柄を操作して巡行する点では、烏山の屋台と類似している。しかし馬頭の屋台は、屋根が切妻造り、瓦棒(かわらぼう)葺きで、棟の前後に金色の「鯛」が載る。その歴史は古く、特に南町屋台は明和四年(1767)の起源を有する県内最古級の屋台である。また、歌舞伎などの芸能を上演する折、専用の車付き舞台があり、これを用いて奉納余興を行う。なお、たけのこ祭りは残念ながら、現在巡行、余興は不定期の状態にある。
図)馬頭南町屋台
●足利市の屋台
足利市には葉鹿町に3台、小俣町に1台の屋台があり、これらの屋台は「踊り舞台屋台」と呼ばれ、県内の屋台としては規模が突出して大きく、前方の空間(踊り場)が歌舞伎や手踊りの舞台として使われる。葉鹿町では古くから葉鹿上・仲・下町の三町が、輪番で祭りを担い、神興の渡御や屋台の巡行を行ってきた。しかし、近年、屋台の巡行及び本格的な奉納余興は休止していた。こうした中、平成29年に葉鹿仲町が屋台の修復を実現し、6年ぶりに巡行奉納余興を行った。当町屋台は江戸時代後期の建造で、間口2.7m、奥行4.5m、高さ4.8mの規模をもつ。屋台前方にある舞台の両袖を広げると、舞台の幅が約6mに達する。なお、当該年七月の祭礼では、舞台上で歌や踊りに加え、子ども歌舞伎(白浪五人男)が上演された。
図)足利市葉鹿 仲町の屋台
図)足利市葉鹿 下町の屋台(撮影 足利市小林氏)
図)足利市 小俣町の屋台(部分)
●山車・屋台の文化を次世代に
紙面の都合もあり、今回紹介した山車・屋台はごく一部に過ぎない。筆者が過去に調査した範囲では、県内には山車(万灯などを含む)が81台、屋台が245台を数える。最古級のものは、建造から350年の歴史を刻む。初めにも触れたが、栃木県は日光東照宮を筆頭に、華麗なる彫刻建築物を数多く保有する。このことが、庶民文化である山車・屋台にも取り入れられ、四方八方を埋め尽くす、総彫刻屋台を生み出す要因ともなった。また、県内各地域において、特色ある歴史や文化、資源を活用し、人々の創意工夫によって多彩な山車・屋台が発達してきた。「祭りは地域活性化のバロメーター」である。祭りの衰退は地域の衰退であり、祭りの隆盛は地域の隆盛である。長い年月にわたって、先人が営々と築き上げてきた栃木県の祭り、山車・屋台の文化を次世代に伝えることは、現代に生きる私たちの責務である。
●全国に誇る栃木の絢爛豪華な山車・屋台
平成28年12月、全 国33件の祭りで構成する「山・鉾・屋台行事」が、ユネスコ無形文化遺産に登録され、栃木県では那須鳥山市の「山あげ行事」と鹿沼市の「鹿沼今宮神社祭の屋台行事」が世界の宝に認められた。2件のランクインは快挙であるが、実は県内には両市に迫る山車・屋台行事が数多くあり、この分野の裾野は広く厚い。遺産登録から3年余、両市はもとより県内各地で当該行事が大いに盛り上がりを見せ、地域コミュニティを結びつける大きな原動力になっている。行事に用いられる造形物の山車・屋台は、本県においては江戸の祭礼文化の影響を受けつつも、独自の進化を遂げた。特に、屋台本体の前後、左右、上下、全てを彩色彫刻で埋め尽くした彫刻屋台は、「動く陽明門」と形容するにふさわしい。本年は新型コロナウイルス感染拡大に影響を受け、ほとんどの祭りや行事が中止となったが、この機会に改めて県内に現存する貴重な山車・屋台について、その種類や歴史、特徴、魅力などを紹介する。
●山車・屋台とは
山車・屋台とは祭礼行事において、氏子らが繰り出す「出し物の一種」である。このうち山車は江戸期には、「出シ(出し)」と表記しており、神様が降臨する依代として繰り出された。このため台車の中央部に心柱を建て、剣や幣束、人形、赤熊(しゃぐま)、万灯など種々の飾りものを掲げた。直立した長い心柱を有することが山車の特徴である。一方屋台(家体)は奉納余興として、お囃子や歌舞伎、手踊りなどの芸能を行う場(造形物)として発展した。屋台は屋根のある家の形をしており、彫刻を施した「彫刻屋台」と造花や提灯などを飾った「花屋台」がある。なお、日光二荒山神社の弥生祭に出る屋台は、今も旧例に習って「家体」の字を使用している。
●宇都宮市の山車・屋台
宇都宮市の市街地及び市域には、現在29台の山車・屋台があり、県内でもトップクラスの台数を誇っている。このうち江戸期の建造のものは18台、明治期のものは4台である。新石町火焔太鼓山車は弘化二年(1845)に造られた、江戸期の宇都宮を代表する豪華な山車である。総高は約9m、舞楽の楽太鼓を模し、頭上に火焔と日輪、下部に龍の彫刻を配している。平成26年、101年ぶりに復元された。伝馬町屋台は県内随一を誇る彫刻屋台で、嘉永五年(1852)に造られ、四方八方を埋め尽くした彩色彫刻は、正に日光東照宮の彫刻に迫るものがある。徳次郎(とくじら)町上町屋台は、文化五年(1808)に造られた文化・文政期を代表する形式の屋台で、彫刻は日光東照宮五重塔再建工事で彫物方棟梁を務めた名彫工「後藤周次正秀」が手掛けた逸品である。
図)宇都宮市 新石町 火焔太鼓山車(2枚目撮影 鹿沼市 駒場氏)
図)宇都宮市 伝馬町の屋台(2枚目撮影 鹿沼市 駒場氏)
図)宇都宮市 徳次郎町上町屋台(撮影 鹿沼市 駒場氏)
図)宇都宮市 徳次郎町田中の屋台
●鹿沼市の屋台
鹿沼市は彫刻屋台の宝庫であり、市街地には27台が揃う。江戸期建造のものは13台あり、最も古いのは下横町屋台の文化元年(1804)である。久保町、上材木町、下材木町、石橋町、仲町屋台など、江戸期を起源とする彫刻屋台は、隙間なく彫刻が施され、その豪華さ、華麗さは終日眺めても飽きることはない。鹿沼市の屋台は奉納余興として、お囃子の演奏を目的とすることから、「囃子屋台」と呼ばれる。屋台後方の下座(囃子場)において、5人1組の囃子方が、意気の合ったお囃子を演奏する。なお囃子屋台には、宇都宮で発達した「宇都宮型」と鹿沼で発達した「鹿沼型」がある。鹿沼型は宇都宮型に比べ全体に規模(概ね間口1.8m、奥行3.6m)が大きく、4つの車輪が屋台本体の内側に配置されていることが特徴である。
図)鹿沼市 下横町の屋台
図)鹿沼市 材木町の屋台
図)鹿沼市 麻苧町の屋台
●栃木市の山車
栃木県内の祭礼行事において、屋台を用いた巡行が主流を占める中、もっぱら山車を繰り出しているのが栃木市の秋まつりである。同市街地には9台の山車があり、2年に1度豪華な山車が出揃う。このうち倭町三丁目の静御前人形山車は、嘉永元年(1848)に江戸日本橋の伊勢町などで造られ、巡行していたものを、明治7年に購入したものである。また万町一丁目、同二丁目、同三丁目、倭町二丁目の人形山車は、明治26年に町内有志が江戸型人形山車を模して建造している。人形は東京日本橋本石町の人形師「3代目原舟月」などに依頼して作っており、その完成度は高い。さらに山車の外周を飾る幕には、緋や白色の羅紗地に飛龍や鳳凰、白虎などの刺繍が見られるなど、山車を一層華やかにしている。このように、栃木市の人形山車には、江戸期に隆盛を誇った江戸天下祭の華やかな祭礼文化が、今に生き続けている。
図)栃木市倭町三丁目の山車(静御前)(撮影 鹿沼市 駒場氏)
図)栃木市万町一丁目の山車(劉備玄徳)(撮影 鹿沼市 駒場氏)
図)栃木市万町二丁目の山車(関羽雲長)(撮影 鹿沼市 駒場氏)
●日光市の家体
日光二荒山神社の弥生祭において、例年繰り出される家体は「花家体」である。この花家体は二層造り(三階建て風)で、切妻屋根の上にヤシオツツジ(造花)が飾られる。4輪の車輪で移動するが、前輪の方が小さい。東 町に8 台、西町に7台の花家体がある。歴史をたどると、日光では江戸期に土台、車輪のない、舘(やかた)造り二層の「担ぎ家体」が造られた。屋根には金色の鯨、周囲に唐獅子やぼたん、白象、人物、唐子などの多彩な彫刻を施した秀麗な造りで、これを何と強カ16人で担いだ。原形を留めるこの「担ぎ家体」は現在4台残っており、市内に保存・展示されている。なお、弥生祭ではこのほか山車の一種である巨大な「万度(万灯)」の奉納も行われ、その一部が現存している。
図)日光市松原町の家体
図)日光市稲荷町の家体
●那須烏山市の屋台
那須烏山市の山あげ行事は、六町が輪番で行事を仕切り、若衆らが山をあげ、 野外歌舞伎を上演する。六町はそれぞれに彫刻屋台を有するが、これらの屋台はお囃子を演奏する「囃子屋台」に対し、「踊り装飾屋台」と呼ばれる。すなわち、 屋台が歌舞伎を上演する場所に到着すると、本体が前後に切り離され、後方の部位は舞台に、前方の向拝と呼ばれる部位は、歌舞伎上演の背景を彩る装飾に早変わりする。このため烏山の屋台の特徴は、車輪が2輪で回転・移動しやすいこと、前方の向拝が彩色彫刻などで彩られている一方、後方は造花と大幕で覆われる。また、屋台正面の頭上を飾る向拝飾りは、一般的に木彫りの彫刻が多いが、烏山では特産の和紙を用いて唐獅子や鶴などを造作した、独特の「ハリカ」の装飾も見られる。
図)那須烏山町の上演
●那珂川町の屋台
那珂川町馬頭(旧馬頭町)のたけのこ祭りは、町内四町が輪番で祭りを仕切り、屋台を巡行するとともに奉納余興を行う。馬頭の屋台は鳥山の屋台同様、「踊り装飾屋台」に分類される。歌舞伎や手踊りの上演時に、華麗な彫刻屋台を舞台背後に据えることによって、場面に彩りを添える。馬頭の屋台は車輪が二輪で、前方の向拝が特に豪華であること、屋台前方に伸びた長柄を操作して巡行する点では、烏山の屋台と類似している。しかし馬頭の屋台は、屋根が切妻造り、瓦棒(かわらぼう)葺きで、棟の前後に金色の「鯛」が載る。その歴史は古く、特に南町屋台は明和四年(1767)の起源を有する県内最古級の屋台である。また、歌舞伎などの芸能を上演する折、専用の車付き舞台があり、これを用いて奉納余興を行う。なお、たけのこ祭りは残念ながら、現在巡行、余興は不定期の状態にある。
図)馬頭南町屋台
●足利市の屋台
足利市には葉鹿町に3台、小俣町に1台の屋台があり、これらの屋台は「踊り舞台屋台」と呼ばれ、県内の屋台としては規模が突出して大きく、前方の空間(踊り場)が歌舞伎や手踊りの舞台として使われる。葉鹿町では古くから葉鹿上・仲・下町の三町が、輪番で祭りを担い、神興の渡御や屋台の巡行を行ってきた。しかし、近年、屋台の巡行及び本格的な奉納余興は休止していた。こうした中、平成29年に葉鹿仲町が屋台の修復を実現し、6年ぶりに巡行奉納余興を行った。当町屋台は江戸時代後期の建造で、間口2.7m、奥行4.5m、高さ4.8mの規模をもつ。屋台前方にある舞台の両袖を広げると、舞台の幅が約6mに達する。なお、当該年七月の祭礼では、舞台上で歌や踊りに加え、子ども歌舞伎(白浪五人男)が上演された。
図)足利市葉鹿 仲町の屋台
図)足利市葉鹿 下町の屋台(撮影 足利市小林氏)
図)足利市 小俣町の屋台(部分)
●山車・屋台の文化を次世代に
紙面の都合もあり、今回紹介した山車・屋台はごく一部に過ぎない。筆者が過去に調査した範囲では、県内には山車(万灯などを含む)が81台、屋台が245台を数える。最古級のものは、建造から350年の歴史を刻む。初めにも触れたが、栃木県は日光東照宮を筆頭に、華麗なる彫刻建築物を数多く保有する。このことが、庶民文化である山車・屋台にも取り入れられ、四方八方を埋め尽くす、総彫刻屋台を生み出す要因ともなった。また、県内各地域において、特色ある歴史や文化、資源を活用し、人々の創意工夫によって多彩な山車・屋台が発達してきた。「祭りは地域活性化のバロメーター」である。祭りの衰退は地域の衰退であり、祭りの隆盛は地域の隆盛である。長い年月にわたって、先人が営々と築き上げてきた栃木県の祭り、山車・屋台の文化を次世代に伝えることは、現代に生きる私たちの責務である。
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