*2018年10月22日に投稿しましたが、その後の調査により大幅に改変し再投稿しました。クローズな会(北関東宮彫研究会)の会報として作成したものですが、宮司様のご許可を得て、一部をこちらに投稿します。
彫工:嶋村円哲、藤田孫兵衛、元禄十二年(1699)
大前(おおさき)神社の本殿、拝殿は平成30年12月に国の重要文化財に指定されました。本殿は、地元の名主文書(柳幸一氏蔵、文献①)から、造営事業が元禄十二年にはじまり、10年後の宝永六年(1709)に完成しました。大工棟梁は近くの羽黒(茨城県桜川市)の出身の櫻井瀬左衛門で、彫工に嶋村円哲が関わったことが脇障子の墨書で明らかになっています。また、桜井瀬左衛門の弟子の藤田孫平次の銘があり、高齢であったであろう瀬左衛門の代役として大工を務めました。孫兵衛(孫平次)は宮彫にも精通しており、軒下の「龍」「息」の尾垂木を制作したと思われます。
中備「龍」と木鼻「獅子」の作風は、桜井瀬左衛門/藤田孫兵衛が関与しなかった新勝寺光明堂、千葉県睦沢町・光福寺のものに似ており、孫兵衛よりも円哲が彫工として主であったと考えられます(以下に列挙)。
円哲の銘(墨書)が確認できますのは、この大前神社本殿の脇障子、行徳寺本堂の欄間の2ヵ所、棟札で確認できますのが新勝寺の光明殿、三重塔のみで、嶋村円哲の基準作品になります。
●彫工、大工の典拠:
(1)右脇障子裏の墨書ー宝永四年(1707)
嶋村円哲が彫工として参加し、藤八郎、入道(僧籍)と名乗り、神田の紺屋町に住んでいたことがわかります。
円哲の弟子は四人。また、大工として藤田孫平次(笠間箱田出身)が参加したこともわかります。
他に
・同脇障子 中央下部の墨書(拡大) 大工・藤田孫兵衛の部分
孫兵衛は、宝永四年(1707)の時点で数え32歳であり、延宝四年(1676)に出生したことが明らかになりました。
・同脇障子 左下部の墨書(拡大) 彩色担当職人*ぬしや(塗師屋)
(2)部材裏の墨書―身舎正面中央の「波と旭日」の彫物の裏にあります。
・中央部の墨書「茨城郡笠間箱田村之住 藤田孫平治藤原常信 宝永四丁亥五月八日書之」
藤田孫平治は、新勝寺三重塔の棟札では藤田孫兵衛と名乗っています(会報066号)。前述の脇障子と同じ内容です。
(付記)同部材の墨書の両脇には、宝暦十二年(1762)に修理された際の墨書があります。
-栃木の富田宿の礒辺儀左衛門(礒辺家の祖)が関わったことがわかり、師匠が竹田藤重郎でした(この号末で述)。
(3)名主文書(柳幸一氏蔵、文献①)
宝永六年の項に、「大工当料常陸国笠間領羽黒村桜井瀬兵衛と申者也、請ニ取立十三年目ニ成就ス、ほり物師江戸二て圓てつと申テ法身いたし一食ノ塩立行にて罷有候をたのミさいしき共細工ス、此ゑんてつ江戸上野中堂のほり物も被仰付無類上手之由」とあります。
*大工棟梁は、羽黒の桜井瀬左衛門-二代安信と思われます。
*「円てつ」「ゑんてつ」は、嶋村円哲を指します。
*上野中堂は、寛永寺根本中堂を指します。根本中堂は、元禄十一年(1698)に建立されましたが、落慶供養が行なわれて三日後に新橋で発生した火災で、厳有院(四代将軍家綱)の霊廟が焼失しましたが、根本中堂は、佐竹藩の延焼防止で難を逃れ無事でした。しかし、慶応四年(1868)の上野戦争で焼失しました。嶋村円哲は寛永寺、新勝寺光明殿の仕事を終えた後、大工桜井瀬左衛門とともに椎尾山薬王院の三重塔に関わり、その後、この大前神社に移ったと考えられます。
●大前神社本殿- 三間×二間の社殿です。
●本殿前部
*中備の「二龍」 右(緑龍)阿形、左(橙龍)は吽形。二匹の龍がともに外側を向く形態です。参拝者が本殿前に拝殿、幣殿があるため中備を正面から見ることができず、幣殿脇から見る際に「龍」の顔が向くように設計した。
(拡大)左(橙龍)
(拡大)右(緑龍)
●向拝部の木鼻 -前方「白澤(はくたく)」、側方「獅子」
左木鼻 正面「白澤」
右木鼻 正面「白澤」
左木鼻 側方は「獅子」
(作風比較)「白澤」/比較 成田山新勝寺光明堂
円哲に特徴的な丸い目は同じですが、眉、顎ひげが異なってきます。耳は同じ形状です。初期の頃の「白澤」の眉毛は巻き毛状のことがあります。円哲の世代で巻き毛からトゲ状に変わったと考えられます。その目的は獅子との差別化であったかと思います。
(作風比較)「獅子」/比較 成田山新勝寺光明堂
丸い目、前額部のV字のひだ、鼻の形状-酷似しています。
・向拝部手挟み 「牡丹」
・向拝柱―紋彫(亀甲/内に麻葉、六つ唐花) 上部に猪目細工
●本殿身舎
・身舎前面 海老虹梁はなし。
・身舎左面
・身舎後面
・身舎右面
●身舎の軒下 尾垂木 -「龍」、「息」 -尾垂木は藤田孫兵衛の作(推定)
・下図は後面:後ろに向かって4つ「龍」の尾垂木があります。髭は金属製。
・身舎隅部の尾垂木 -身舎の四方は全て同じ配置になっています(阿吽は別)。
上方が「龍」-しかし眉毛がトゲ状ではなく、巻き毛になっており、理由は不明です。
下方が「息(いき)」-この息は角が不明です(ホゾがあるか不明)。
●身舎の木鼻(頭貫)について
〇「虎」 前面に2つあり、右が阿形、左が吽形です。
〇「獅子」 前面両隅、側面全てに付きます。
〇「獏」 獏は身舎後面の両隅に付いています。
〇「象」 象は身舎後面に2つあります。阿吽になっています。
●身舎 上部の蟇股と下部の欄間
配置図
〇正面A、B、C部
・A部 「菊慈童」/「波に鯉」
・B部 「通玄仙人(瓢箪から駒)」/「波に太陽」
・C部 「陳楠仙人」/「波に鯉」
〇身舎左側面 D、E部
・D部 「鉄拐仙人」/「波に兎」
・E部 「簫史、又は王子喬(笙)か」/「波に兎」
〇身舎後面 F、G、H部
・F部 「蝦蟇仙人」/「波に獏」
・G部 蟇股「不明」(行徳寺仁王門にもあり)/「波に亀、猿」
・H部 「黄鶴仙人」(又は丁令威)/「波に獏」
〇身舎右側面 I、J部
・I部 「黄安仙人」又は「蘆敖(ろごう)仙人」/「波に犀」
・J部 「琴高仙人」/「波に犀」
●身舎胴羽目
地紋彫-桜井瀬左衛門が多用しており、大工(孫兵衛も含む)の意匠であったと思います。
・左側面
・後面 -紋様は側面と異なります
・右側面
「花菱」(青)「紗綾形」(白)「麻の葉」(赤)「亀甲麻葉」(緑)、 柱 「入子菱」(白)
●脇障子 嶋村円哲作
左 「林和靖」/ 右「西王母」―裏に墨書あり
(付記)その後の本殿修復(彩色)-宝暦十二年(1762)、礒部儀左衛門信秀、息子2名
藤田孫平次の墨書名の隣に、宝暦十二年の彩色修復の際の墨書が書かれています。
墨書によりますと、下野の富田町の礒部儀左衛門、礒部松太郎、松三郎が関わったことがわかります。また、礒部儀左衛門は、結城小森村の彫物師 竹田藤重郎門弟であることが明らかになりました。礒部儀左衛門は、初代礒部儀左衛門(天明元年(1781)没)と考えられ、松太郎は、長子の二代礒部儀左衛門知英(寛政四年没)、松三郎は三男の初代礒部義兵衛隆顕(文政四年没)と比定されます。
*「いそべ」は、契約書等の文書から「礒邉」が正式ではないかと思われますが、「礒辺」で統一させていただきます。
参考文献
①大前神社:『大前神社社殿 歴史的建造物調査報告書』、平成29年3月
②田野井武男:「彫工磯辺儀左衛門信秀一族」、鹿沼史林 第37号、76-99頁、平成9年
彫工:嶋村円哲、藤田孫兵衛、元禄十二年(1699)
大前(おおさき)神社の本殿、拝殿は平成30年12月に国の重要文化財に指定されました。本殿は、地元の名主文書(柳幸一氏蔵、文献①)から、造営事業が元禄十二年にはじまり、10年後の宝永六年(1709)に完成しました。大工棟梁は近くの羽黒(茨城県桜川市)の出身の櫻井瀬左衛門で、彫工に嶋村円哲が関わったことが脇障子の墨書で明らかになっています。また、桜井瀬左衛門の弟子の藤田孫平次の銘があり、高齢であったであろう瀬左衛門の代役として大工を務めました。孫兵衛(孫平次)は宮彫にも精通しており、軒下の「龍」「息」の尾垂木を制作したと思われます。
中備「龍」と木鼻「獅子」の作風は、桜井瀬左衛門/藤田孫兵衛が関与しなかった新勝寺光明堂、千葉県睦沢町・光福寺のものに似ており、孫兵衛よりも円哲が彫工として主であったと考えられます(以下に列挙)。
円哲の銘(墨書)が確認できますのは、この大前神社本殿の脇障子、行徳寺本堂の欄間の2ヵ所、棟札で確認できますのが新勝寺の光明殿、三重塔のみで、嶋村円哲の基準作品になります。
●彫工、大工の典拠:
(1)右脇障子裏の墨書ー宝永四年(1707)
嶋村円哲が彫工として参加し、藤八郎、入道(僧籍)と名乗り、神田の紺屋町に住んでいたことがわかります。
円哲の弟子は四人。また、大工として藤田孫平次(笠間箱田出身)が参加したこともわかります。
他に
・同脇障子 中央下部の墨書(拡大) 大工・藤田孫兵衛の部分
孫兵衛は、宝永四年(1707)の時点で数え32歳であり、延宝四年(1676)に出生したことが明らかになりました。
・同脇障子 左下部の墨書(拡大) 彩色担当職人*ぬしや(塗師屋)
(2)部材裏の墨書―身舎正面中央の「波と旭日」の彫物の裏にあります。
・中央部の墨書「茨城郡笠間箱田村之住 藤田孫平治藤原常信 宝永四丁亥五月八日書之」
藤田孫平治は、新勝寺三重塔の棟札では藤田孫兵衛と名乗っています(会報066号)。前述の脇障子と同じ内容です。
(付記)同部材の墨書の両脇には、宝暦十二年(1762)に修理された際の墨書があります。
-栃木の富田宿の礒辺儀左衛門(礒辺家の祖)が関わったことがわかり、師匠が竹田藤重郎でした(この号末で述)。
(3)名主文書(柳幸一氏蔵、文献①)
宝永六年の項に、「大工当料常陸国笠間領羽黒村桜井瀬兵衛と申者也、請ニ取立十三年目ニ成就ス、ほり物師江戸二て圓てつと申テ法身いたし一食ノ塩立行にて罷有候をたのミさいしき共細工ス、此ゑんてつ江戸上野中堂のほり物も被仰付無類上手之由」とあります。
*大工棟梁は、羽黒の桜井瀬左衛門-二代安信と思われます。
*「円てつ」「ゑんてつ」は、嶋村円哲を指します。
*上野中堂は、寛永寺根本中堂を指します。根本中堂は、元禄十一年(1698)に建立されましたが、落慶供養が行なわれて三日後に新橋で発生した火災で、厳有院(四代将軍家綱)の霊廟が焼失しましたが、根本中堂は、佐竹藩の延焼防止で難を逃れ無事でした。しかし、慶応四年(1868)の上野戦争で焼失しました。嶋村円哲は寛永寺、新勝寺光明殿の仕事を終えた後、大工桜井瀬左衛門とともに椎尾山薬王院の三重塔に関わり、その後、この大前神社に移ったと考えられます。
●大前神社本殿- 三間×二間の社殿です。
●本殿前部
*中備の「二龍」 右(緑龍)阿形、左(橙龍)は吽形。二匹の龍がともに外側を向く形態です。参拝者が本殿前に拝殿、幣殿があるため中備を正面から見ることができず、幣殿脇から見る際に「龍」の顔が向くように設計した。
(拡大)左(橙龍)
(拡大)右(緑龍)
●向拝部の木鼻 -前方「白澤(はくたく)」、側方「獅子」
左木鼻 正面「白澤」
右木鼻 正面「白澤」
左木鼻 側方は「獅子」
(作風比較)「白澤」/比較 成田山新勝寺光明堂
円哲に特徴的な丸い目は同じですが、眉、顎ひげが異なってきます。耳は同じ形状です。初期の頃の「白澤」の眉毛は巻き毛状のことがあります。円哲の世代で巻き毛からトゲ状に変わったと考えられます。その目的は獅子との差別化であったかと思います。
(作風比較)「獅子」/比較 成田山新勝寺光明堂
丸い目、前額部のV字のひだ、鼻の形状-酷似しています。
・向拝部手挟み 「牡丹」
・向拝柱―紋彫(亀甲/内に麻葉、六つ唐花) 上部に猪目細工
●本殿身舎
・身舎前面 海老虹梁はなし。
・身舎左面
・身舎後面
・身舎右面
●身舎の軒下 尾垂木 -「龍」、「息」 -尾垂木は藤田孫兵衛の作(推定)
・下図は後面:後ろに向かって4つ「龍」の尾垂木があります。髭は金属製。
・身舎隅部の尾垂木 -身舎の四方は全て同じ配置になっています(阿吽は別)。
上方が「龍」-しかし眉毛がトゲ状ではなく、巻き毛になっており、理由は不明です。
下方が「息(いき)」-この息は角が不明です(ホゾがあるか不明)。
●身舎の木鼻(頭貫)について
〇「虎」 前面に2つあり、右が阿形、左が吽形です。
〇「獅子」 前面両隅、側面全てに付きます。
〇「獏」 獏は身舎後面の両隅に付いています。
〇「象」 象は身舎後面に2つあります。阿吽になっています。
●身舎 上部の蟇股と下部の欄間
配置図
〇正面A、B、C部
・A部 「菊慈童」/「波に鯉」
・B部 「通玄仙人(瓢箪から駒)」/「波に太陽」
・C部 「陳楠仙人」/「波に鯉」
〇身舎左側面 D、E部
・D部 「鉄拐仙人」/「波に兎」
・E部 「簫史、又は王子喬(笙)か」/「波に兎」
〇身舎後面 F、G、H部
・F部 「蝦蟇仙人」/「波に獏」
・G部 蟇股「不明」(行徳寺仁王門にもあり)/「波に亀、猿」
・H部 「黄鶴仙人」(又は丁令威)/「波に獏」
〇身舎右側面 I、J部
・I部 「黄安仙人」又は「蘆敖(ろごう)仙人」/「波に犀」
・J部 「琴高仙人」/「波に犀」
●身舎胴羽目
地紋彫-桜井瀬左衛門が多用しており、大工(孫兵衛も含む)の意匠であったと思います。
・左側面
・後面 -紋様は側面と異なります
・右側面
「花菱」(青)「紗綾形」(白)「麻の葉」(赤)「亀甲麻葉」(緑)、 柱 「入子菱」(白)
●脇障子 嶋村円哲作
左 「林和靖」/ 右「西王母」―裏に墨書あり
(付記)その後の本殿修復(彩色)-宝暦十二年(1762)、礒部儀左衛門信秀、息子2名
藤田孫平次の墨書名の隣に、宝暦十二年の彩色修復の際の墨書が書かれています。
墨書によりますと、下野の富田町の礒部儀左衛門、礒部松太郎、松三郎が関わったことがわかります。また、礒部儀左衛門は、結城小森村の彫物師 竹田藤重郎門弟であることが明らかになりました。礒部儀左衛門は、初代礒部儀左衛門(天明元年(1781)没)と考えられ、松太郎は、長子の二代礒部儀左衛門知英(寛政四年没)、松三郎は三男の初代礒部義兵衛隆顕(文政四年没)と比定されます。
*「いそべ」は、契約書等の文書から「礒邉」が正式ではないかと思われますが、「礒辺」で統一させていただきます。
参考文献
①大前神社:『大前神社社殿 歴史的建造物調査報告書』、平成29年3月
②田野井武男:「彫工磯辺儀左衛門信秀一族」、鹿沼史林 第37号、76-99頁、平成9年
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