北関東の宮彫・寺社彫刻(東照宮から派生した宮彫師集団の活躍)

『日光東照宮のスピリッツ』を受けついだ宮彫師たち

日光東照宮-宮彫師の原点

2018年10月24日 | 総論 
当ブログの副題に「日光東照宮」が入っていますので、ベタですが紹介させて頂きます。
日光東照宮の宮彫(彩色)等の技術が、時代を経るにつれて一般に広がっていきます。
素晴らしい彫刻が盛りだくさんですが、創建当初はなかったとされています。

江戸時代には、東照宮内の設備に対する小修繕はほとんど毎年行われ、大きな修繕は何回かやっています。
歴史的には日光は昔から霊地で、満願寺(現 輪王寺)と二荒山神社がありました。徳川家康の遺言により、この地に堂宇が建てられ、後に東照大権現となります。(家康の没年の翌年に東照大権現の神号の宣旨がありました)

●東照宮の地理的条件
大谷川と稲荷川に挟まれた三角部分には、東照宮が創建する前から輪王寺と二荒山神社があり、創建当初は家康の遺言に従い両者に挟まれる場所にコンパクトな社殿を置きました(元和の創建)。その後、孫の家光の意向(寛永の大造替)で規模を大きくしたため、限られたスペースに地形を活かして建物がコンパクトに置かれました(甲良宗廣ら)。(→浦井正明氏によると、最初の秀忠公の元和の造営はコンパクトなものではなく、現在の東照宮の建造物がほぼ同規模で作られたとされます。約20年後の家光公の造替は、元和期の建造物を撤去し(世良田等へ移設)、新たに同規模のものを作ったようです。)



敷地内には、神仏習合の様式が随所に見られます。
 神道系の要素が強い建造物:大鳥居、三神庫、神厩舎、拝殿、石之間、本殿
 仏教系の要素が強い建造物:表門(仁王門)、五重塔、輪蔵、鐘楼、鼓楼、本地堂、祈祷殿(旧 護摩堂)、宝塔
 不明:陽明門、唐門、坂下門、奥社拝殿

●東照宮配置図


●陽明門(国宝)
 別名 日暮門ともいいます。境内で最も装飾に手間をかけています。現在は正面左右に「随身像」、背面には「狛犬像」が置かれていますが、江戸時代には背面には「風神、雷神」がありました。柱は表面に屈輪(グリ)紋が彫られ、上から胡粉が塗られています。1本だけ逆さに紋様が付いています(魔除の逆柱)。江戸時代には庶民は、陽明門の中には入れませんでした。浦井正明氏によると、「陽明門」の名称は、宮中十二門の一つで真東にあった門になり、現在の陽明門は奥社の南に南向きで建てられていますが、家康公をめぐる一連の「東」(東方浄瑠璃界の薬師如来、東照大権現、関東八ケ国)を意識していると指摘されています。





























●唐門(国宝)
 拝殿の前面に位置します。唐門から左右に透塀が連なり、本殿・拝殿を囲んでいます。正面には「舜帝朝見之図」の彫り物があります(舜帝は中国の理想の君主で、家康公も舜帝に並ぶ君主という意味があります。)。他に「許由と巣父」「竹林七賢人」があります。










●本社(拝殿、石之間、本殿)
 権現造。拝殿内の法親王着座の間は、江戸期には「天海着座の間」でした。


●回廊(坂下門の近く)
 陽明門に連なります。


有名な「眠り猫」。天下泰平を意味します。




●坂下門
 家康公の墓域へ入る門で、江戸時代には常に閉じられ、この先は容易に入ることが出来なかったため、別名「あかずの門」と言われました。大名でさえも奥社への参詣は許されず、将軍の日光参詣、50年毎の大祭に際に、勅使、祭祀関係者のみが参詣しただけになります。この門の先は、非常に静寂な空間になり、陽明門、唐門、本社とは対照的になります。







●祈祷殿(旧 護摩堂)
 江戸時代には、天下泰平を祈り護摩が焚かれていました。堂内中央には須弥壇があります。





●本地堂(薬師堂)
 陽明門前を左に曲り、突きあたりに建ちます。境内で最大の建造物になります。家康公(東照大権現)の本地仏である薬師如来を祀っています。家光の大造替の前にあった本地堂(現在の祈祷殿と神楽殿の間あたりにありました)は寛永寺(天台宗)に移され、元三大師堂として使用されました。寛永十二年に建てられた本地堂ですが、残念ながら昭和36年の火災で焼失し、現在の建物はその後に再建されたものです。












●鐘楼
 陽明門に向って右に位置します。(左は鼓楼) 鼓楼と異なり尾垂木に龍等の彫物が多く付きます。階上の火燈窓には「法輪」の文様があります。








●鼓楼
 陽明門に向って左に位置します。









●神輿(しんよ)舎
 陽明門を入って、左奥に東面で建ちます。内部に3基の神輿が入っています。




●輪蔵(経蔵)
 上神庫と神道をはさんで相対して建って入いる。正面には火燈窓が付いています。長押、頭貫は極彩色です。
仏堂様の特徴がみられます。天海版の一切経を収蔵。















●上神庫
神庫(渡御祭の祭器具を蔵する)が3つあり、表門から下、中、上神庫が並びます。屋根は中神庫は入母屋造(五間の向拝)、上と下神庫は切妻造(一間の向拝)。
上神庫は桁行八間、梁間四間。校倉造。正面の切妻に装飾が重点的についています。狩野守信の下絵による彫刻と伝わっています。妻の結綿に鬼面の彫刻があります。内部中央には須弥壇があり、仏像が安置されていたそうです(仏像は不明)。














●中神庫
桁行九間、梁間三間、校倉造。五間の向拝を有します。表門から下神庫、次にこの中神庫が目に入りますが、あえて形状を変えて印象深くしています。






*「寛永造営帖」では、中神庫と下神庫間に雪隠と記されており、溝が掘られていますが実際には使用されませんでした。


●下神庫
桁行七間、梁間四間、校倉造。構造は上神庫に似ます。妻の結綿に鬼面の彫刻があります。








●神厩舎
桁行三間、梁間五間、単層流造。境内唯一の素木造。長押上の小壁の羽目に猿の彫刻。8枚の羽目板には猿の一生が描かれており、有名な三猿は庚申信仰と深い関係があります。「猿は馬の病気を治す守り神」である伝承(厩猿信仰)の他、山王の眷属が「猿」であることが関連しているかもしれません。









●表門(仁王門)
東照宮の最初の門。正面には仁王像(仏式)、背面には狛犬(神式)が置かれています。












●五重塔(文化十四年)
初代の五重塔は、家康の三十三回忌の法要にあわせて慶安三年(1650)に酒井忠勝公により建てられたものですが、文化十二年の落雷により焼失し、酒井忠進(ただゆき)公により文政元年(1818)に再建。天保二年、嘉永三年、文久三年に修理が加えられています。東照宮の中で新しい建築物になります。その後の修理(天保二、嘉永三、文久三年)も幕府方は関与せず、寄進者の酒井家によって行われていました。
方三間、五層塔婆、銅瓦葺。初重外周りの蟇股の彫物は十二支で、子の裏に「日光御神領住 後藤正秀」、亥の裏に「日光御神領住 後藤正秀鑿彫」の刻銘があります。*正秀は礒辺家。









●水盤舎
水盤背面に「元和四年戌午四月十七日 奉献灯御手水鉢石 鍋島信濃守肥前侍従藤原勝茂(佐賀城主)」と刻銘
柱が御影石になっています。貫も同じ材質でしたが、後世に破損して木製に代わっています。
水盤の水は暗渠で引かれており、サイフォンの原理を利用して水が噴出します。











その他
●石造の大鳥居(元和四年製)
元和四年四月十七日に黒田長政公が奉納しています(家康は元和二年四月に死去していますので、ちょうど2年後になります)。筑前の石を用いたと銘があります。




―「東照大権現」の神号ですが、決定までに紆余曲折がありました。山王一実神道による「権現」号を主張した天海(天台宗)と、吉田神道による「明神」号を主張した崇伝(臨済宗 南禅寺)、梵舜(吉田神道)の間で論争が起こりました。家康公が「東照大明神」になった可能性があるのですが、最終的に「権現」号を時の将軍徳川秀忠公は採択しました。浦井正明氏によると、家康公が豊臣秀吉公(豊国大明神)と同じ「明神」号では、徳川の時代が長く続かないかもしれないと天海が主張し、「権現」になった可能性を指摘しています。
 山王一実神道では、家康公は本地仏(薬師如来)、垂迹神(東照大権現)になり、薬師如来が衆生を救うために仮(権)に東照という名の神として現れたという解釈になります。

●奥院宝塔(天和三年製)
元和創建の木造の宝塔は、寛永十八年に石造に作り替えました(『日光山宿坊日記』)・この初期の宝塔は元和七年着工(家康没後五年)、翌八年四月竣工で、後に世良田長楽寺に移設されました。石造の宝塔は天和三年の地震で破損し、同年の修理工事で現在の銅製の宝塔になっています。この下に家康公の遺骸が埋葬されています。天海が、家康公の遺言にはなかった、久能山から日光山への家康公の遺骸を移すことを行いました。「御墓ノ上二御宝塔ヲ建ツ、御本尊薬王菩薩」(『旧記』)とあり、宝塔内には薬王菩薩の像が安置されていた可能性があり、別説では、「釈迦、多宝」の二仏(『仮名縁起』)ともあります。


主な社殿関連の歴史
●元和期の創建
元和二年四月一七日に家康死去。直後に秀忠の命により久能山神廟の社殿が造営(中井正清)。
元和二年十月に日光の土地の選定、工事着手。元和三年三月に竣工。棟梁は太子流の中井大和守正清(永禄八年生)。
-日光山への家康公が祀られた理由は、家康公の遺言によります。
「臨終候ハゝ、御体をハ久能へ納、御葬礼を増上寺にて申付、御位牌をは三川(三河)之大樹寺に立、一周忌も過候て以降、日光山に小さき堂をたて、勧請し候へ、八州之鎮守になりなさるべし」(本光国師日記)という遺言です。
「元和三年四月八日尊骸(家康公の亡骸)を奥の院廟塔に納め奉る」(『日光山宿坊日記』)


●寛永の大造替(徳川家光の命)
寛永十三年に行われ、この時に規模が大きくなったといわれています。
幕府作事方大統領の甲良豊後守宗廣、息子の宗次(左衛門)、宗久(左吉)、孫(宗次の子)宗賀(豊前)が関わりました。甲良三代の宗賀はこの時わずか九歳。十四歳で相州中原御殿の棟梁を務め、後の宝永四年に善光寺本堂の造営を行い、享保二年九十七歳で亡くなっています。
寛永十二年正月から翌十三年三月の作事には、彫物大工 294325人日、平大工 384159人日、木挽 101277人日が関わった記録があります(甲良豊後宗廣の手記)(文献①)。

●元禄の大修理
大工棟梁は、甲良三代宗賀、息子の四代甲良志摩宗員がつとめました。この時に大猷院霊廟の修理も行われています。


■幕府の作事方
徳川幕府の創建時に設置された作事方は、鶴家(紀伊)、甲良家(近江)、平内(紀伊)の三家でした。鶴家は享保五年に三代で作事方は終わっています。


★日光輪王寺大猷院
 徳川家光の霊廟。慶安四年に家光の遺命によって造立が始まり、大工木原杢義久、平内大隅守正信が関わりました。承応二年に竣工しました。
 家光の遺言は、「敬仰している家康公(東照大権現)の側で、朝夕お仕えしたいので、自分の遺骸は、まず東叡山に遷して、ついで日光山に遷し替えてほしい。埋葬地は天海僧正を祀る慈眼堂の傍らに」としています。こうして遺命通りに、大黒山の天海廟の傍らに埋葬されたのが、現在の大猷院霊廟になります。(文献②)














●参考文献
①田邊 秦:日光廟建築、昭和19年
②浦井正明:もうひとつの徳川物語、1983年
③高藤晴俊:図説 社寺建築の彫刻、平成11年
④日光東照宮:陽明門を読み解く、平成29年
⑤日光市史 中巻、昭和54年



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