旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

海の困った話しー三話

2015年04月14日 23時20分18秒 | エッセイ
海の困った話し、三話

1.潮が満ちて岩場が島に

 高校生のころだったろうか、男友達と2人で海に行きました。季節は春だったと思う。海の水はまだ冷たいが日差しは暖かい。平日だったんだろうね、天気は良いのに人は少なく波は静かでした。岸から一番遠くまで海に突き出た岩を沖へ沖へと出て行き、先端部で春の日溜まりの中、岩の隙間に出来た透き通った水溜まりをのぞき込み、小魚やヤドカリ、イソギンチャクで遊びました。
 これはやった事にある人ならば分かるでしょうが、巨人が小さな世界を見下ろしているような感覚になる楽しい遊びで、時間がたつのを忘れてしまいます。だけどそんな事にもいいかげんに飽きてきて、陽の当たる岩場で二人とも上着とリュックを枕にして寝てしまいました。
 何か叫んでいる友人の声で目を覚ますと、周囲が一変していました。二人がいる数メートル四方を残して岩場は海の中に孤立している。海岸はずっと向こうで、岩場は海に浮かぶ島になっているじゃあありませんか。「ウワー、どうしよう。」「あそこまで泳げるかな。」数分間はパニックでした。全く高校生なんて情無いもので、(或いは想像力が豊か過ぎて)何やら取り残された岩場の回りを泳ぎ廻る鮫の背びれが見えた気までしてきました。
 しかしそんな物がいるはずも無く、靴を脱ぎ思い切ってまだ冷たい海の中へ入っていくと意外にも浅く、ジャボジャボ進んでも海面が腰より上に来ることはありませんでした。
と言うわけで、結局は大したことは無かった訳ですが、潮の満ちるのがあまりに速いことにはびっくりしたよ。

二.仏ヶ浦の取り残し

 大学生になって始めての夏、生まれて始めての一人旅をしました。夜行列車に乗って北を目指したのです。寝台車ではなく、座席で4人向かい合わせの席に、カーキ色の大きなズタ袋を持った自分、何やら旅慣れた男性(2,3歳上の学生)と、家族が予約してくれたという青森の浅虫温泉に向かうおばちゃん、3人が座りました。ベテランの旅人は話し好きで、様々な旅のエピソードを披露してくれ、おばちゃんは人なつこく大きなカバンから次々に食べ物を出して僕らに振るまってくれました。自分は一通り旅に出たいきさつを話すと後は話しのネタもなくなり、ずっと聞き役に回りましたが、見ず知らずの3人の会話が楽しくて、途中で眠ったのかな、一晩中話しをしていた記憶があります。
 何かの拍子に自分の爪を見たおばさんが、白い部分が極端に少なくて、縦に筋が入っているのを発見し、大変心配して健康にくれぐれも注意するよう、くどいほど繰り返していたのをよく覚えています。このおばちゃんの予言は見事に的中し、旅から帰って1,2ヶ月後に半月入院をする大病をしました。
 さて青森で列車を降り、宿を選んで始めての町を歩き廻りました。繁華街の飲み屋が全て、今まで聞いたこともない「喫茶バー」という名称なのが面白かった。所変われば品変わる。さて詳しい旅程は忘れましたが、ローカル線に乗って恐山に行き、さらに下北半島を北上しました。ローカル線の車内で、女学生の肌の色が平均的日本人に比べてずっと白く、おそろしく顔立ちが整っていることに驚いたものです。彼女たちの話す言葉がまたすばらしく訛っているのがうれしい。車窓から見た田畑で働く女性が、モンペのような物をはき、ムスリムの女性のチャドルのように目だけ出して顔をすっぽり覆っているのには驚いたな。
 青森で小型の遊覧船に乗り、下北半島の仏ヶ浦へ行きました。切り立った岩が海から数十m吃立している景観です。今ではどうか知りませんが、仏ヶ浦は内陸から通じる道はなく、海からしか行けない孤立した所です。今から思うと夜行列車でおばさんが指摘した病気、十二指腸かいようだったのだが、による貧血がすでに始まっていたらしく、太陽の眩しさに頭がクラクラしました。簡素な桟橋から仏ヶ浦に上陸した客は5-6人でした。一時間の停泊で出航します、ということでその間に自分は海岸の岩場を登り、船の見えない日陰で腰を下ろしボーっとしていました。そのまま寝てしまったのかもしれません。
 船の汽笛の「ボッボッボー」という音に気がついて桟橋に行くと、船が岸から離れて行くじゃあないか。あーどうしよう。荷物も船に残したままだし。海岸には人は全く見当たりません。桟橋の前には小さな小屋があるが、人の気配はない。ところが声をかけると、意外に若い女性が出てきて、「お客さん、乗り損ねたのかね。船を呼んであげるよ。」と言ってくれたので助かりました。無線でテキパキと連絡をしてくれたので、30分後には漁船が来て(チャーター料千円位だったと思う。)港まで運んでくれました。荷物も取っておいてくれました。

三.海堡で夜明かし

 今までの2つが自分のミスによる取り残しなら、第三の話しは自ら望んで赴き、一番手厳しい被害を被りました。
 この話しをするにはまず海堡の説明をしなければなりませんね。海堡、かいほう、とも言うようですが、釣り宿では、かいほ、と三文字で言っていました。海堡は第一から第三まであり、明治~昭和、終戦までの期間に渡る、帝都防衛の海上要塞の残骸です。東京湾に浮かぶ猿島と併せて4つの海上砲台で、進入してくる敵艦隊を迎撃しようというものです。しからばお台場はどうなの、という疑問が出ますよね。お台場も目的は同じです。品川沖に11基の台場を作り、洋式の海上砲台を設置しようとしました。幕府はペリー艦隊の再訪に備え、急ピッチで工事を進め8ヶ月の工期で一部を完成させました。そのためペリーは品川を避けて横浜まで引き返して上陸しています。しかし大砲の射程が伸び、海岸に隣接する台場では要塞の意味がなくなりました。台場は一部の完成を以てその役目を終えました。
 一方第一海堡は1881年起工、1890年完成。房総半島の富津岬の沖合いすぐに位置し、第二次世界大戦終戦まで使用され、連合国軍により要塞無力化のために中央部が破壊されました。現在は何故か財務省の所轄で立ち入り禁止。第二と第三海堡は共に、関東大震災により被災沈下し、廃止・除籍されました。特に第三海堡は水深39mもあって、難工事で完成まで30年もかかったが、完成のわずか2年後に震災により4.8mも沈下し全体の1/3が水没してしまいました。現在第二海堡は2005年に立ち入り禁止になっています。第三海堡に至っては2000年に撤去が開始され、2007年に完了し無くなってしまいました。
 自分は釣りに凝りだした始めのころ、よく横浜の山下町から出る渡し船で第二海堡や沖の防波堤に行き、色々な釣りを試していました。渡し賃は往復で1,500円位だったと記憶しています。しかしテクニックのせいか道具が悪いのか、はたまた元々魚が大していないのか海堡、沖堤防での釣りは大して釣果があがりませんでした。それでも中には良く釣る人がいます。しかし観察していると、良く釣れるのは明け方と夕方、釣りの世界でいる朝間詰め、夕間詰め、つまり日の出と日没の一時間前後、これが一番良いことが分かってきました。日中は陽の光が海中に差し込み、針も糸もよく見えてしまいます。岸近くのすれっからしの魚は用心深くて、針から垂れ下がった餌を突っつくだけで、ガブっと針ごと口に入れたりはしない。それなら、という訳で初夏のころ、海堡での夜明かしに挑戦しました。
 夕方から海堡に渡り、最終便で釣り人が一人残らず帰ってしまった後、広い海堡に一人居残って、翌朝始発の渡し船が来るまで釣りまくる計画。これなら夕間詰め、朝間詰めのベストタイムを二回得ることが出来ます。計画は即実行されました。たった一人で海の真ん中に残った気分は上々、解放感があります。海は広いぜ、大きいぜ。
 その時選んだ海堡は大きな方で、100mくらいある堤防が海の中にポッカリ浮かんでいるような所でした。足場はしっかりしています。突端で釣り始めると、薄暗くなった頃からメバルが釣れ始め、順調に4-5匹釣れたでしょうか。狙い通り、すると沖で花火が打ち上がりました。山下公園の前の海上で行う花火大会なのでしょう。ドーンと打ち上げ音は四方の海面に広がり、花火は音の大きい割には小さく、水平線の上にパパっと光ります。いい気分だ。ソーセージをかじり、クーラーBoxに入れて冷えているビールを飲んで花火を楽しみました。おっと強烈な引き、でも後が続かない。今度はカサゴがかかった。
 しかしいい気分もそこまで。花火大会が終わり、夜もふけると風が出始めうすら寒くなり、カサゴを最後に当たりが全く出なくなりました。電気浮きも大きく揺れ動き、エサを代えても、浮き下を深くしても浅くしても当たりは全く来ません。しかもまずいことに雨がポツポツと降り始め、やがて細かい雨粒がサーっと風に乗って顔を濡らします。天気予報では雨が降るなんて言っていなかった。雨カッパは持って来なかったから、ズボンもジャンパーも靴もしだいに湿って黒ずんで重くなってきた。
 この大きな堤防の真ん中にちょっと高くなった所がコンクリートで作られていて、港内を航行する船の安全のために常夜灯が一つ、白い灯りを寒々しくまき散らしています。海は先ほどより潮が満ちてきて海面が上昇してきた。真っ黒い海水が堤防の淵まで迫ってきて、50cmもないだろう。海は荒れてきて波はうねり始め、雨だけでなくしぶきもかかり始めました。とても釣りどころではない状況なので、竿を片づけずぶ濡れになったリュックを持って高台になっている常夜灯の下に避難しました。灯りはあるものの雨を遮る覆いは何も無い。風が強くなり巨大な水銀灯を見上げると、粒の細かい雨が夜空から圧倒的なまでの量で間断無く舞い降りてくる。常夜灯の風下にわずかな三角形の濡れていないスペースがあるので、そこに身を入れて体を小さくするが、そこも降り続く雨と不規則に揺れ動く風によって、たちまち黒ずんでゆく。夜が明けて早朝第一便の船が来るまでには、これから7-8時間はあるな。寒い、冷たい。
 今にして思うとその絶望的な夜をどのようにしてやり過ごしたのか、具体的な記憶がさだかではありません。雨に濡れながらもウトウトしたらしく、夢を見ました。夢の中の場所は、横浜港沖の海堡、常夜灯の脇という現実そのものの状態で、周囲の海面が上がって常夜灯の高台を残して水没し、押し寄せた海水が尻と足を浸した。ギャっと思って目を覚まし、今のは夢だったのかとホっとしました。早朝防水完全装備の釣り客を乗せた第一便が着いた時には服から水が滴り落ち、頭からシャワーを浴びた状態でほとんど洪水難民でした。「夜明かしがいたのかよ。」とやってきた釣り客はびっくりしていた。
 夜が明けた時、昨日の暮れ方に釣った魚のビクを引き上げたら、海が荒れて袋の口が開いたらしく、7-8匹いたメバル・カサゴが逃げてしまっていました。かろうじて一匹小さなメバルが袋の底で死んでいる。ようやく陸に上がって、山下公園の前を歩いていたら、子猫が近寄ってきました。おなかをすかせているのでしょう。「ニャー」とすり寄ってくるので、残ったメバルをあげました。冷たくなっていたので、皮を食い破るのに苦労していましたが、その食事風景を最後まで見ないで濡れた体で電車に乗って帰宅。風呂に入って体を温めて爆睡。その日から風邪をひいて3日間寝込みました。
 さてここまで書いてきて、あの日自分が渡ったのが第二海堡ではなく、沖堤防であったことに気がつきました。広いだけで何にもなかったし、海堡だったら『く』の字型に曲がっていて、もっと構造物があったから雨を防ぐ場所もあったのかもしれません。40年近く間違った記憶を仕舞ってきました。