旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

とびのフサ公

2015年04月15日 23時18分09秒 | エッセイ
とびのフサ公

 大学に行っていた5年間の内に4回、社会人になってからも頼まれて2回ほど、年末に正月のお飾りを売るアルバイトをやった。横浜に古くからある門前町商店街で、お飾りを売る小屋掛けの場所は2ヶ所あり、毎年決まっている。高校の同級生の家がとび職の親方で、先代の親方は亡くなっていたが、その娘さんが跡を継ぎ、その娘さんが同級生の母親と言うわけ。同級生のお父さんは普通の勤め人だった。
 自分はその同級生と特に親しかった訳ではないが、共通の友人Tがいて、このTがずっと一緒にこのバイトに参加した。裏白、荒神、3寸玉、5寸玉、正月のお飾りなんてここで始めて知ったよ。仮小屋を建てて(とびだからお手のもの)お飾りを売るのは、12月28,29,30の3日間。31日は一夜飾りといって忌むので店仕舞い。29日は苦の日、縁起を担いで売れ行きが悪い。勝負は28と30である。
 後ではこの3日間の店売りだけを手伝うようになったが、アルバイトの最初の1,2年は店売りの前に4,5日、テリトリー内の家々を廻って注連縄を張る仕事も手伝った。また自分はやらなかったが、Tは正月の獅子舞で巡回する方もやっていた。店も注連縄張りも2班に分かれていて、一人はカトーさん、もう一人はフサ公についた。カトーさんは40歳代の普通の大工さんで、笑顔が渋く僕らにもやさしかった。問題はフサ公。ふさ吉さんと呼ばれる年齢不詳の職人だが、どう見たってカタギの顔じゃあない。
 頭はゴマ塩の短髪がハリネズミのようにおっ立っていて、捻り手ぬぐいで縛ってある。ガッチリとした小男だが、うっとうしい位の迫力があり、街の中で関わり合いになりたくないオーラをプンプン漂わせている。カトーさんとフサ公は、2人で会えばニコニコして相手を持ち上げるが、一人になるとフサ公はカトーさんの悪口をボロボロ言い出す。
 とにかくフサ公は怖かった。見た目だけで恐かったので、緊張して慎重に接していたら、不思議な事に自分は割と気に入られたようだった。だいたい職人は直感で人を見る。出会い頭に判断して、この印象はずっとブレない事が多い、ように思う。そんな自分とは正反対にTは、何をやってもフサ公に怒られていた。Tもドジな奴で、注連縄張りで廻っている時、初日に家の脇で立ち小便をして、その家の住人に叱られフサ公が代わりに謝ったそうだ。とにかく自分は気に入られ、Tは目の敵にされた。これは何年たっても変わらなかった。
 フサ公は外見は恐いが、実はかなりおチャメな男で、鉛筆に小さな紙が貼ってあるので何かと思ったら、「ちょっと待て!よく見て盗め、右左」と書いてあった。注連縄張りでちょっと高級な家へ行った時、40代位のガタイの良い奥さんが出てきて、フサ公に向かって仕事の手際だか値段だかで、ポンポン文句を言いだした。するとフサ公、ゴマ塩頭をポリポリ掻いて「エヘヘ」。意外な反応に?その家を離れてフサ公が「アー、いい女だなア」と言ったのにはタマゲた。18歳の自分には、今のおばさんが欲望の対象になるなんて思いもよらない。しかもあの奥さんはフサ公が自分に欲情しているのを、明らかに知っていてそれを言葉で苛めるという、精神的な浮気行為を二人でしていたんだ。大人の世界って広いワ。
 手のひらを太陽に向けてごらん。フサ公は両手の指が外から数えて3本欠けている。いったいどんな渡世を送ってきたのか。その一端を知る機会は、店売りの3日間で訪れた。相性から2店の組み合わせは、カトーさんとT、フサ公と自分というケースが多かった。何で俺ばっかしフサ公、と思ったけどね。
 朝からフサ公は飾り玉を作り始める。裏白(シダ科の植物)が乾燥してチリチリになるので、余分には作らない。売れ行きと店の装飾効果を見通して、常に数個の飾りを店内に残すように、作業を進めるのが店長の腕だ。フサ公は何年も同じ場所で商売をしているから、人の流れ、大口の客がいつ頃来るかを把握している。人って年末年始、忙しく動いているが案外毎年同じスケジュールをこなすものらしい。
 買い物客の応対は自分にやらせ、フサ公は飾り玉を作る。裏白の生きの悪さに毒づき、飾りの部品の不足に文句を言い、カトーさんの悪口を言う。これも毎年の決まりごとだ。職人は手癖が悪いので、自分たち学生を組ませるのは、案外不正防止効果を狙ったのかもしれない。それでも昼飯から戻ってきて、売り上げ金を見てアレっと思う時がある。そんな時のフサ公は敏感にそれを察して、上機嫌で軽口をたたく。マーいいか、俺の金じゃあなし。ところが自分らも真面目一方とは言えない。店売りの時は比較的ひまな時間を見て、交代で昼飯をとるが(フサ公は面倒がって出前が多かった。)大てい2千円売り上げからつまみ出し、「いいもの食ってこいや。」と言ってくれる。通常250~500円で昼飯を済ませている貧乏学生にとって、2千円は大金だ。お釣りを懐に入れる度胸はないが、普段出来ない贅沢はしてみたいじゃあないか。
 寿司屋に入ったり、中華で一度に麺類と丼ものを食ったりした。そしてお釣りのコインをフサ公にチラっと見せて、チャリンと売上げに戻す。「ごちそうさまでした。」ある年、3日間続けて2人前の昼食を食ったら、大晦日の日に腹が痛くなって何も食えずに元旦までウンウン寝込んだことがあった。2日間、年越しソバもおせちも雑煮も、見るのもいやだった。急なぜいたくはいけない。
 フサ公は普通にしていても、「文句あるのか、この野郎」というブっそうな顔つきだが、不思議な愛嬌がある。毎年、夜の店じまいをするころ、でかいアメ車に若い衆を2-3人乗せたヤクザの兄いが、一番でかい飾り玉を買いに来る。フサ公は腕によりをかけて立派な玉を作っておく。「一番大きいのくれや。」「4万円」「おやっさん、またふっかけてんじゃないの。」とか言って、ヤクザの兄いはフサ公が好きなんだな。言い値を払った上に、「酒でもやってくんな。」と祝儀の万札を2枚ほど置いていく。
 フサ公は話し好きで、その話しは面白かった。夜になり商店街の人通りも減ってくると、玉作りも止めフサ公はぶっとい残った指を火鉢に当てて温め、酒をチビチビやり出す。買いに行かされたサカナの焼き鳥なんぞをくわえてご機嫌だ。そんな時に話しをしてくれる。
 40年近く前の話しだから、よくは覚えていないが喧嘩の話が多かったように思う。喧嘩の修行のため、揺れるボートの上で稽古をする話し。酔っぱらいは体がくねくねして、普通なら大けがをするような時も、打撃を吸収して平気なこと。始末に負えないので腹に大きな墓石を乗せて動けなくしたこと。フサ公の喧嘩は江戸時代のような集団戦が多い。となると用心棒の先生が出てくる。平手造酒ね。
 自分は大学生の時に空手の同好会にいたので、試しに聞いてみた。「空手とかどうです。強いですか?」「へん、あんなもん。」とバカにするかと思いきや、「強えな。空手は強えー」と意外な返事。何でも敵対するグレン隊?に空手遣いがいて、フサ公達は何度も彼にやられていたそうだ。その空手遣いに4-5人で掛かっていっても勝てず、けが人だらけになった。そこでフサ公たちはどうしたか。細かい砂に一味、七味唐辛子を山ほどとコショーを混ぜて空手遣いに近づき、タンカを切るやいなや、目つぶしを奴の顔にぶっかけた。さしもの空手遣いもこの奇襲にはたまらず、手で顔を覆ったところを集団でメッタ打ち、「すねを折ってやった。」と言っていた。
 年の暮れ、法被をまとっていても寒い夜、火鉢に手をかざしスルメをあぶってかじり、一杯だけともらったコップ酒をちびりと飲りながら聞く、遠い日の知らない世界のケンカ話。今にして思うにフサ公は世間に出て行く青年にとって、またとない世の中の師匠だったに違いない。




海の困った話しー三話

2015年04月14日 23時20分18秒 | エッセイ
海の困った話し、三話

1.潮が満ちて岩場が島に

 高校生のころだったろうか、男友達と2人で海に行きました。季節は春だったと思う。海の水はまだ冷たいが日差しは暖かい。平日だったんだろうね、天気は良いのに人は少なく波は静かでした。岸から一番遠くまで海に突き出た岩を沖へ沖へと出て行き、先端部で春の日溜まりの中、岩の隙間に出来た透き通った水溜まりをのぞき込み、小魚やヤドカリ、イソギンチャクで遊びました。
 これはやった事にある人ならば分かるでしょうが、巨人が小さな世界を見下ろしているような感覚になる楽しい遊びで、時間がたつのを忘れてしまいます。だけどそんな事にもいいかげんに飽きてきて、陽の当たる岩場で二人とも上着とリュックを枕にして寝てしまいました。
 何か叫んでいる友人の声で目を覚ますと、周囲が一変していました。二人がいる数メートル四方を残して岩場は海の中に孤立している。海岸はずっと向こうで、岩場は海に浮かぶ島になっているじゃあありませんか。「ウワー、どうしよう。」「あそこまで泳げるかな。」数分間はパニックでした。全く高校生なんて情無いもので、(或いは想像力が豊か過ぎて)何やら取り残された岩場の回りを泳ぎ廻る鮫の背びれが見えた気までしてきました。
 しかしそんな物がいるはずも無く、靴を脱ぎ思い切ってまだ冷たい海の中へ入っていくと意外にも浅く、ジャボジャボ進んでも海面が腰より上に来ることはありませんでした。
と言うわけで、結局は大したことは無かった訳ですが、潮の満ちるのがあまりに速いことにはびっくりしたよ。

二.仏ヶ浦の取り残し

 大学生になって始めての夏、生まれて始めての一人旅をしました。夜行列車に乗って北を目指したのです。寝台車ではなく、座席で4人向かい合わせの席に、カーキ色の大きなズタ袋を持った自分、何やら旅慣れた男性(2,3歳上の学生)と、家族が予約してくれたという青森の浅虫温泉に向かうおばちゃん、3人が座りました。ベテランの旅人は話し好きで、様々な旅のエピソードを披露してくれ、おばちゃんは人なつこく大きなカバンから次々に食べ物を出して僕らに振るまってくれました。自分は一通り旅に出たいきさつを話すと後は話しのネタもなくなり、ずっと聞き役に回りましたが、見ず知らずの3人の会話が楽しくて、途中で眠ったのかな、一晩中話しをしていた記憶があります。
 何かの拍子に自分の爪を見たおばさんが、白い部分が極端に少なくて、縦に筋が入っているのを発見し、大変心配して健康にくれぐれも注意するよう、くどいほど繰り返していたのをよく覚えています。このおばちゃんの予言は見事に的中し、旅から帰って1,2ヶ月後に半月入院をする大病をしました。
 さて青森で列車を降り、宿を選んで始めての町を歩き廻りました。繁華街の飲み屋が全て、今まで聞いたこともない「喫茶バー」という名称なのが面白かった。所変われば品変わる。さて詳しい旅程は忘れましたが、ローカル線に乗って恐山に行き、さらに下北半島を北上しました。ローカル線の車内で、女学生の肌の色が平均的日本人に比べてずっと白く、おそろしく顔立ちが整っていることに驚いたものです。彼女たちの話す言葉がまたすばらしく訛っているのがうれしい。車窓から見た田畑で働く女性が、モンペのような物をはき、ムスリムの女性のチャドルのように目だけ出して顔をすっぽり覆っているのには驚いたな。
 青森で小型の遊覧船に乗り、下北半島の仏ヶ浦へ行きました。切り立った岩が海から数十m吃立している景観です。今ではどうか知りませんが、仏ヶ浦は内陸から通じる道はなく、海からしか行けない孤立した所です。今から思うと夜行列車でおばさんが指摘した病気、十二指腸かいようだったのだが、による貧血がすでに始まっていたらしく、太陽の眩しさに頭がクラクラしました。簡素な桟橋から仏ヶ浦に上陸した客は5-6人でした。一時間の停泊で出航します、ということでその間に自分は海岸の岩場を登り、船の見えない日陰で腰を下ろしボーっとしていました。そのまま寝てしまったのかもしれません。
 船の汽笛の「ボッボッボー」という音に気がついて桟橋に行くと、船が岸から離れて行くじゃあないか。あーどうしよう。荷物も船に残したままだし。海岸には人は全く見当たりません。桟橋の前には小さな小屋があるが、人の気配はない。ところが声をかけると、意外に若い女性が出てきて、「お客さん、乗り損ねたのかね。船を呼んであげるよ。」と言ってくれたので助かりました。無線でテキパキと連絡をしてくれたので、30分後には漁船が来て(チャーター料千円位だったと思う。)港まで運んでくれました。荷物も取っておいてくれました。

三.海堡で夜明かし

 今までの2つが自分のミスによる取り残しなら、第三の話しは自ら望んで赴き、一番手厳しい被害を被りました。
 この話しをするにはまず海堡の説明をしなければなりませんね。海堡、かいほう、とも言うようですが、釣り宿では、かいほ、と三文字で言っていました。海堡は第一から第三まであり、明治~昭和、終戦までの期間に渡る、帝都防衛の海上要塞の残骸です。東京湾に浮かぶ猿島と併せて4つの海上砲台で、進入してくる敵艦隊を迎撃しようというものです。しからばお台場はどうなの、という疑問が出ますよね。お台場も目的は同じです。品川沖に11基の台場を作り、洋式の海上砲台を設置しようとしました。幕府はペリー艦隊の再訪に備え、急ピッチで工事を進め8ヶ月の工期で一部を完成させました。そのためペリーは品川を避けて横浜まで引き返して上陸しています。しかし大砲の射程が伸び、海岸に隣接する台場では要塞の意味がなくなりました。台場は一部の完成を以てその役目を終えました。
 一方第一海堡は1881年起工、1890年完成。房総半島の富津岬の沖合いすぐに位置し、第二次世界大戦終戦まで使用され、連合国軍により要塞無力化のために中央部が破壊されました。現在は何故か財務省の所轄で立ち入り禁止。第二と第三海堡は共に、関東大震災により被災沈下し、廃止・除籍されました。特に第三海堡は水深39mもあって、難工事で完成まで30年もかかったが、完成のわずか2年後に震災により4.8mも沈下し全体の1/3が水没してしまいました。現在第二海堡は2005年に立ち入り禁止になっています。第三海堡に至っては2000年に撤去が開始され、2007年に完了し無くなってしまいました。
 自分は釣りに凝りだした始めのころ、よく横浜の山下町から出る渡し船で第二海堡や沖の防波堤に行き、色々な釣りを試していました。渡し賃は往復で1,500円位だったと記憶しています。しかしテクニックのせいか道具が悪いのか、はたまた元々魚が大していないのか海堡、沖堤防での釣りは大して釣果があがりませんでした。それでも中には良く釣る人がいます。しかし観察していると、良く釣れるのは明け方と夕方、釣りの世界でいる朝間詰め、夕間詰め、つまり日の出と日没の一時間前後、これが一番良いことが分かってきました。日中は陽の光が海中に差し込み、針も糸もよく見えてしまいます。岸近くのすれっからしの魚は用心深くて、針から垂れ下がった餌を突っつくだけで、ガブっと針ごと口に入れたりはしない。それなら、という訳で初夏のころ、海堡での夜明かしに挑戦しました。
 夕方から海堡に渡り、最終便で釣り人が一人残らず帰ってしまった後、広い海堡に一人居残って、翌朝始発の渡し船が来るまで釣りまくる計画。これなら夕間詰め、朝間詰めのベストタイムを二回得ることが出来ます。計画は即実行されました。たった一人で海の真ん中に残った気分は上々、解放感があります。海は広いぜ、大きいぜ。
 その時選んだ海堡は大きな方で、100mくらいある堤防が海の中にポッカリ浮かんでいるような所でした。足場はしっかりしています。突端で釣り始めると、薄暗くなった頃からメバルが釣れ始め、順調に4-5匹釣れたでしょうか。狙い通り、すると沖で花火が打ち上がりました。山下公園の前の海上で行う花火大会なのでしょう。ドーンと打ち上げ音は四方の海面に広がり、花火は音の大きい割には小さく、水平線の上にパパっと光ります。いい気分だ。ソーセージをかじり、クーラーBoxに入れて冷えているビールを飲んで花火を楽しみました。おっと強烈な引き、でも後が続かない。今度はカサゴがかかった。
 しかしいい気分もそこまで。花火大会が終わり、夜もふけると風が出始めうすら寒くなり、カサゴを最後に当たりが全く出なくなりました。電気浮きも大きく揺れ動き、エサを代えても、浮き下を深くしても浅くしても当たりは全く来ません。しかもまずいことに雨がポツポツと降り始め、やがて細かい雨粒がサーっと風に乗って顔を濡らします。天気予報では雨が降るなんて言っていなかった。雨カッパは持って来なかったから、ズボンもジャンパーも靴もしだいに湿って黒ずんで重くなってきた。
 この大きな堤防の真ん中にちょっと高くなった所がコンクリートで作られていて、港内を航行する船の安全のために常夜灯が一つ、白い灯りを寒々しくまき散らしています。海は先ほどより潮が満ちてきて海面が上昇してきた。真っ黒い海水が堤防の淵まで迫ってきて、50cmもないだろう。海は荒れてきて波はうねり始め、雨だけでなくしぶきもかかり始めました。とても釣りどころではない状況なので、竿を片づけずぶ濡れになったリュックを持って高台になっている常夜灯の下に避難しました。灯りはあるものの雨を遮る覆いは何も無い。風が強くなり巨大な水銀灯を見上げると、粒の細かい雨が夜空から圧倒的なまでの量で間断無く舞い降りてくる。常夜灯の風下にわずかな三角形の濡れていないスペースがあるので、そこに身を入れて体を小さくするが、そこも降り続く雨と不規則に揺れ動く風によって、たちまち黒ずんでゆく。夜が明けて早朝第一便の船が来るまでには、これから7-8時間はあるな。寒い、冷たい。
 今にして思うとその絶望的な夜をどのようにしてやり過ごしたのか、具体的な記憶がさだかではありません。雨に濡れながらもウトウトしたらしく、夢を見ました。夢の中の場所は、横浜港沖の海堡、常夜灯の脇という現実そのものの状態で、周囲の海面が上がって常夜灯の高台を残して水没し、押し寄せた海水が尻と足を浸した。ギャっと思って目を覚まし、今のは夢だったのかとホっとしました。早朝防水完全装備の釣り客を乗せた第一便が着いた時には服から水が滴り落ち、頭からシャワーを浴びた状態でほとんど洪水難民でした。「夜明かしがいたのかよ。」とやってきた釣り客はびっくりしていた。
 夜が明けた時、昨日の暮れ方に釣った魚のビクを引き上げたら、海が荒れて袋の口が開いたらしく、7-8匹いたメバル・カサゴが逃げてしまっていました。かろうじて一匹小さなメバルが袋の底で死んでいる。ようやく陸に上がって、山下公園の前を歩いていたら、子猫が近寄ってきました。おなかをすかせているのでしょう。「ニャー」とすり寄ってくるので、残ったメバルをあげました。冷たくなっていたので、皮を食い破るのに苦労していましたが、その食事風景を最後まで見ないで濡れた体で電車に乗って帰宅。風呂に入って体を温めて爆睡。その日から風邪をひいて3日間寝込みました。
 さてここまで書いてきて、あの日自分が渡ったのが第二海堡ではなく、沖堤防であったことに気がつきました。広いだけで何にもなかったし、海堡だったら『く』の字型に曲がっていて、もっと構造物があったから雨を防ぐ場所もあったのかもしれません。40年近く間違った記憶を仕舞ってきました。

釣り百態

2015年04月07日 16時50分56秒 | エッセイ
釣り百態

 子供の時に釣りをしたことは何度かあるのだが、習慣になったのは大学生になってからだ。当時住んでいた家の近くに桟橋があって、そこは横浜駅にも近くて貨物船が停泊していた。保税倉庫が並んでいて普段は貨物の出し入れに忙しいが、休日は働く人がいなくてめっきり車も通らない。秋口に散歩に行くと、その桟橋に釣り人が大勢いて忙しくしている。名前はこれは後で知ったのだが、サッパの大群が桟橋に押し寄せていたのだ。ピンクのビニール片がついた針が十本くらい並んでいる仕掛けに、12-15cmほどの小魚が二匹、三匹と次々に食いついている。その仕掛けをサビキと呼ぶことは、これも後で知った。
 桟橋で釣り人が捨てたゴミの中から針が3-4本付いたサビキの残骸を拾い、先に小石を結びつけた。それからこれもゴミの中の釣り糸を拾って結び、ドキドキしながら腕を伸ばして海に投入した。すると瞬く間にカカカッと小気味良くサッパがかかったではないか。ウワっ心臓がバクバク鳴って、その瞬間に釣りの虜になった。
 翌日には釣り具屋に行き、リール・竿込みで1,500円位のセットを買いこみ桟橋に座り込んだ。その時買った安い振り出しのカーボン竿はその後ずい分愛用したものだ。一番多く小魚を釣った竿で、それが折れた時は悲しかった。
 何度も釣りに行っていると、いつでも釣れる訳ではなく、場所、季節、時間帯によって釣果は変わる事が分かってきた。釣りを始めた当初、良く行ったのが渡し船による横浜港の海保での釣り、それから主に三浦半島のあちらこちらでの堤防だった。釣れたり釣れなかったり、釣れない方がずっと多かった。やはり沖に出ないと駄目なんだ。
 最初に乗り合いに乗ったのはいつのことだったか、よくは覚えていないのだが、船頭があっちこっち船を走らせ、竿を上げろ入れろとやたらうるさい。隣の親父と糸がからまり(お祭りという。)、結構面倒で料金が高い。当時の乗り合いは一日五千円位だった。
 親父達は一様に長いひさしのついたキャップをかぶり、カラフルな長靴、派手なウェアを身につけ、自前のサオ掛け、高そうな竿とリールを使っていた。貧弱な装備、手拭いを頭に巻き、スニーカーをびしょびしょしする自分は、それでも何回か通う内に腕では中の上になった。船の中で、ベテランにはとてもかなわず半分くらいしか釣れないが、隣のモタモタしたおっさんよりは多く釣るレベル。アジ、キス、イサキ、イシモチ、メバル、カサゴ、カレイ、それからスルメイカ、太刀魚と季節の魚を狙って海にかよった。
 タイは何度か挑戦したが難しくて惨敗。小さいのしか釣っていない。アイナメに凝った時期もあった。走水に3,500円で午後から出る乗り合いがあり、よく通った。エサはデカイがほとんど動かない岩イソメで、アイナメは当たりはあるのだがなかなか針にかからない。ただエサが残っていると何度でも食いつく。それでも針にかからない。それが夕方になると突然バタバタと釣れ出す。暗くなると針が見えにくくなるんだろうね。但しその頃には岩イソメが無くなりかけていていつも悔しい思いをする。アイナメは釣り上げる途中でクイ、クイっと首を振るので面白い。煮魚にすると白身の上品な油がとてもうまい。大きいアイナメは刺身にしてもコリコリした食感がよい。
 この釣り宿のおかみさんは愛想がよく、実においしい味噌汁を用意してくれていた。普通の釣り宿はお茶にせんべいくらいだ。船頭は腕がよく、猿島近くのアイナメの付く根をたくさん知っていて、それらは独自のものらしく、他の船と一緒にはならない。だけどこの船頭さんは病気で亡くなってしまい、店を閉じてしまった。今でも残念だ。
 乗り合いで釣った魚の話しをすればキリがない。大漁だった日、一匹も釣れない(オデコと言う)日、とんでもない外道がかかったのを見た日、雪と霧で直ぐに切り上げた日、船が燃料切れで立ち往生した日もあった。ある日、船上で魚の処理をしていてナイフで指をザックリ切ってしまい、血が止まらなくなった。今でも傷が残っている。
 乗り合い以上に良く通ったのがボート釣り。ボートの料金は一日3千円~3千5百円で、他にエサ代がかかる。友人と2人で行く事が多かったので、ボート代を折半すれば乗り合いよりはずっと安い。船頭にとやかく指図される事もなく、自分で行き先を決められる。但し手漕ぎで重りの上げ下ろしも自分でやるので、余り沖にまでは行けない。乗り合いの釣り船だって小さいが、ボートは3人乗ったら身動きが出来なくなるほどの大きさだ。ちょっと風が吹いて波にウサギが飛ぶようになれば、木の葉のように揺れる。船酔いには強い方だがボート屋は直ぐに休業するし、そんな日に沖に出ても当たりが分からず、さすがに釣り糸をほぐしていると気持ちが悪くなる。ボートの釣りはちょっと風が吹くと出来ないんだ。早起きして海まで行って何度戻ってきたことか。
 ボートでの出船は三浦半島の京浜大津と金田湾が多かった。両方併せたら軽く五十回は行っているね。金田湾は三浦海岸の先にあり、ここのボート屋は人気があるので、土日は予約しないと乗れない。広い湾内は釣りボートで一杯になるが、平日は意外にすいていて湾内貸し切りの気分になれたりする。金田湾は水深が4-5mくらいと浅く、海底はほとんど砂地で所々に藻が生えている。つまり仕掛けを投げて引いてきてもあまり根掛かりがしない。メゴチ、キス、小だこ、ベラなど釣れる魚がだいたい決まっている。カレイが沸く年もあるようだが、自分は金田湾ではほとんど釣っていない。たいてい「惜しいね。先週までは釣れたんだけど。」ということになる。3-40cmの鮫の子がやたら釣れた日もあった。鮫は重いだけであまり引かない。食えないから逃がしたよ。でもあれだな、皮が本当に鮫肌だ。
 京浜大津は面白い。何が釣れるか分からない。水深は深く、10m以上はあって海底は砂地があり、岩礁地帯もあり、そこに当たると根魚(カサゴやメバル)がバタバタっと釣れる。イシモチが入れ食いになった日があった。急に釣れ出し竿を上げている内に、反対側に出した置き竿にも掛かってガクガクいっている。こっちを上げて魚を外し、餌をつけて放り込む。重りが海底についたら少し巻き上げて、あーもう掛かった。竿をキュッと上げて針の掛かりを確実にし、その竿を船縁に置く。反対側の置き竿を巻き上げると重い重い、ギュンギュン引いている。白い魚体が見えてくると二匹掛かっている。置き竿はその間ガクガク。時間にして30分か1時間か。嵐のような入れ食いが収まると、小さなクーラーBoxはイシモチで一杯。ところが、10mと離れていない所で釣っているボートの親父の竿は全く動かない。不思議な魚だ。
 ボートの釣りは海面が直ぐそこにあるから、当たりが強烈だ。30cmのカレイが掛かれば、わずか10m下の海底からボートに引き上げる迄の短い時間に数々のドラマがある。
強い引き、横走り、竿がしなったかと思うとフッとゆるむ。「あっバレた!」急いで竿先を上げ、リールを巻く。魚が上向きに泳いだのだ。ふたたびボートが引っ張られるような強烈な引き。キス用の細い糸(ハリス)、小さい針なのでいつバレるかとドキドキする。やっと水面に魚を引き上げ、その姿が見えた瞬間、「やった。カレイだ。」ここからが危ない。最後の抵抗でハリスが切れることがままある。
 これが乗り合いだと隣とお祭りしないようにしゃにむにリールを巻くので、感動の度合いが違う。カレイも最近は少なくなった。カレイは煮ても焼いても、カラあげにしてもうまいが、何故か飛びきりうまい時と、大したことがない日がある。餌と時期の違いなんだろうか。一度いつもと違う種類のカレイだと思っていたら、ボート屋の兄ちゃんから「これはヒラメだ。」と言われた。味は、ウーン、大して変わらなかったな。
 乗り合いで釣った魚は数知れず。房総半島、三浦半島、伊豆半島、東京湾に駿河湾、海の上から富士山を見、自衛隊の潜水艦を見、八景島のジェットコースターの悲鳴を聞いた。また貨物船のコンテナ積み込みを海上から眺め、小さなカツオノエボシの大群に取り囲まれた時もあった。炎天下で一日やって雑魚一匹釣れなかった日もあるし、時化で浮き上がるお尻を、座席の板をつかんで押さえながら釣った日もある。置いてあった釣りエサを貪欲なウミネコが飲み込んでしまい、暴れる鳥を四苦八苦して抑えている光景は二回見た。ヘヘお疲れ様。自分でなくて良かった。
 毎週のように駅で『週刊釣りニュース』を買い、どの魚がどこの釣り宿で釣れているかチェックし、ターゲットを絞るのは楽しい作業だった。例えその時釣りに行かなくとも、想像するだけでもワクワクする。釣った魚たち、飛び上がって手に噛みついたタチウオ。やたらに釣れてあまりの重さに悲鳴を上げたエチオピア、ことシマガツオ。大漁なのは良いけれど、これほどまずい魚はなかった。ブリの子供、イナダを狙ってよく釣れたソーダガツオも、アジの外道として釣れた夏のサバもうまくなかった。アジやメバル、アイナメ、ウマズラハギはいつでも美味しい。冬に釣れるサバもうまい。外道で釣れたマトウダイの肝をいつものように船の上でナイフで割いて切り取り、遠くにブン投げて海猫の餌にしたら、船頭が「マトウダイは肝がうめえんだ。身なんか食ってもしょうがねー」と言う。もっと早く言ってよ。
 思い出は次々に出てきてキリがない。最後に生涯に何度とはない入れ食いの日のひとつ、茨木、鹿島沖でのイカ釣りの話しをして締め切りたい。その日はたしか土曜日、会社の人たちと待ち合わせて、夕方から出港する予定だったのだが、横浜から首都高速が大渋滞だった。午後4時半ぎりぎりで港にすべり込み、車を港に乗り捨て船に飛び乗った。午前10時頃に家を出たのに。当時は携帯電話が無かったのです。
 船は鹿島港を後にし、アメリカに向かって太平洋へと繰り出した。速力の遅い船で、一番早く出港したのに後から出た釣り船に次々に抜かれ、一時間半ほどして漁場に着いた。アメリカはまだ遠い。他に何艘か釣り船がいて、早い船ではもう釣り始めている。まだ明るさの残る中、強力な集魚灯を点け仕掛け(集魚ランプ+ごつい烏賊ヅノ)を投げ入れる。海は穏やかに凪いでいる。
 タナは上から何mとかいう指示だったので、デプスメーターが無いといけない。最初の一時間は余り釣れなかった。ポツポツと釣れてくるのはスジイカといって、体に2本の縦線が入った小柄なイカで、これは狙っていたムラサキイカではない。おっ掛かった。暗くなるにつれだんだん自分も周囲も釣れ出し、一度に2杯、3杯と掛かるようになり、船上に活気が出てきて騒がしくなる。気がつくと海上は真っ暗になっていて、集魚灯が船の周りの海面だけを照らしている。強烈な明るさだ。まるで空中に浮かんだ飛行船のようだ。
 仕掛けを下ろせば釣れる状態になると、竿が大きくしなり、一回りか二回り大きなムラサキイカが混じってきた。重い。集魚灯に呼び寄せられて飛び魚が海面を飛び回り、その内数匹が船に飛び込んできた。とにかく仕掛けをおろせばイカが掛かる。船の上はイカが散乱し、そのイカが吐く水やスミで大混乱。反対側で叫んでいる奴がいたので、行ってみると、集魚灯の輪の中、海面近くをゆうゆうと泳ぐ1mほどの鮫がいた。
 怒濤の入れ食い状態が、1時間たっても2時間たっても衰えない。水深はどんどん上がってきて今や4-5m落とせばイカが掛かる。中型クーラーはとっくに一杯になり、樽に入れているがそれも一杯になってきた。このヌルヌルのイカ軍団をどうやって持ち帰ろう。もうこれ以上釣ってもしょうがない状態になり、ちょっと休んで釣れたイカを食ってみた。先っぽの三角の部分からカブリつく、が何か変。身がゴムのようでうまくない。スルメイカ、ヤリイカとはえらい違いだ。このスジイカ、結局サシミでは食えなかった。煮たり焼いたり、イカ飯にしたりして食ったが味は良くなかった。一方数杯混じったムラサキイカは肉厚で美味しかった。
 発泡スチロールの入れ物を買い入れ、クーラーBoxと併せて車のトランクを一杯にして持ち帰ったイカは、家で数えると全部で98杯、船上で食った奴を入れれば100杯、一束に達しその処理に苦労した。上手な人は150杯、200杯或はそれ以上釣っただろう。
 午前0時に漁ガ終わり帰港したが、集魚灯を消すと周囲の海上は怖いくらいの真暗闇だ。帰りの船上で寝っころびながら見上げた夜空に天の川が見えた。天の川を見たのは生涯で数えるほどしかない。印度のデカン高原で見た満天の星はギラギラして威圧的だったが、その夜太平洋に浮かぶ天の川は、澄んでいてはるかな距離を示し、とりわけ美しかった。