旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

レディー、ファースト

2015年12月22日 18時30分05秒 | エッセイ
レディー、ファースト

 ドアを開けて女性を先に通す。晩さんでは先にレディーから召し上がれ。道を歩けば男は外側(道路の中央寄り)にサッと位置を占め女性を守る。カッケー。なんで日本人の男どもは、これらの事がスマートに出来ないの?その答えは分かる。「日本にはレディーがいないから。」でも果たしてレディー・ファーストの実態やいかに。何でそうするの?そうすればHをさせてくれるから?ブブー不正解。
 15-6世紀、ルネサンスの頃のイタリアでは小国が乱立して貴族、王たちが覇権を争っていた。そしてカトリックの総本山の大ボス、法王(ローマ教皇)が生臭く政治に係わっていた。と言うより権力闘争の頂点に君臨していた。そのことは「カノッサの屈辱」に象徴されるよね。英仏百年戦争(実は英仏ではなくフランス人同士の戦争だった。『英仏百年戦争』佐藤賢一著、集英社新書を読めば分かる。)の終盤からフランス、イングランドといった国家意識が芽生え、中央集権国家が誕生すると法王は政治力を失った。
 ルネサンス期のイタリア人がいかに本能と欲望のおもむくままに振る舞ったかは、塩野七生さんの名著『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』(新潮文庫)を読めば分かる。毒殺、斬殺、男色、近親相姦何でもありだ。ここまで欲望剥き出しだと、いっそ清々しくさえ思える無軌道振りだ。
 さあカンの良い人はもう気がついたね。女を先に歩かすのは、ドアの向こうで短剣を構える刺客から、女を楯にして身を守り逃げるため。女に先に食べさせるのは毒見だ。では最後の男が道の中央寄りを歩くのは何故?馬車の暴走から女を守るため?ノン、上からウンコが降ってくるのを少しでも避けるためだ。
 17世紀に至るもパリには下水道が無かったから、住民はおまるを使い、朝になると窓から中身を道路にぶちまけていた。どうだ、これがレディー・ファーストの実態なのだ。マイったか。

荒ぶる日本人

2015年12月22日 18時28分55秒 | エッセイ
荒ぶる日本人

 中国のお人は声がでかい。電話で話しているのを隣で聞くと、何事かいな、喧嘩かと思う。この大声に関しては、大陸の人も台湾の人も共通だ。特に年配のおっちゃんは声がでかい。先日スーパー銭湯に行ったら中国のおじさんが二人で来ていた。へー中国の人も温泉来るんだ。水着じゃないけど大丈夫?で二人で話しをしているのだが、直ぐ隣りにいるのに10m先にいる人と話しているほどのボリュームで話す。普通にしゃべった方が良いのじゃないかね。リラックスしに来たのだろ。
 でもあれだな、日本人も動作が荒々しくていやだな。椅子から立つ時座る時、突然ガバっと振り向いたり、ラッシュ時の駅なんかドドドドって感じだよな。カンボジア、ラオス、ミャンマーの上座部仏教徒は、体もたいがい小さいが動きもゆっくりひっそりしている。パゴタであんなにたくさん人がいてもちっともじゃまにならない。うっとうしくならない。タタタタと動く人などどこにもいない。声も控えめでゆっくり話す。そしていつも微笑んでいる。
 もっともラオスの山岳民族、モン族の人達、特に女性は活発で表情豊かで目が輝き、話す時も抑揚に富み早口だ。それはそれで実に魅力的だ。極端に恥ずかしがり屋で、ニコっとして直ぐに隠れようとするラオ族の娘さんもかわいい。日本では絶滅危惧種だ。ミャンマーも大変な多民族国家(8つの部族、135の民族)で、首都ヤンゴンを歩いただけでもインド系の人は多く、アラブ系の人もいてイスラムモスク、ヒンズー寺院、キリスト教会が立っている。しかしビルマ族に次いで数の多いシャン、カレン、カチン、モン(ラオスのモン族とは全く別のモン族)といった人を旅人が見分けられるはずもない。何度も行けば分かるようになるだろうけど。
 ただ街を歩いても、ジロジロ見られることはなく人混みが苦にならない。どころか楽しい。日本にいたらデパートが苦手で、ショッピングモールとかは苦痛に近い。日本では老人までがイライラして、アーだのカーだの一人で不快な音を発している人がいる。そんな人はミャンマーでは一人も見かけなかった。いや、珍しく尊大な態度を取っていた男は日本人だった。あーいやだ、恥ずかし。これだから俺は日本がきらいだ。大嫌いとは言わないが、好き嫌いで言えばためらいなく嫌いだ。
 昔の日本はこうじゃあなかった。明治11年(1878年)に最初に日本に来たイギリスの女流旅行作家、イザベラ・バードや他の人々(幕末~明治初めに来日した人々)の記録を読めば分かる。当時の日本は、全く異質ながら知的な人々の暮らすワンダーランドだった。服装も髪型も住む家も、欧州の人にとっては誠に珍妙だった。しかし刀を二本腰に差し、藁靴で歩く人があの正確無比な日本地図(伊能忠敬)を作り上げたのだ。畑にウンコを撒き散らし、女は歯を黒く塗って眉を落として不気味なんだけど、誰でも文字が読み書き出来るんだ。
 浮世絵の斬新な構図、大胆な色使い、対象とする素材(風景、美人、役者、妖怪)の面白さはパリやロンドンの人々を熱狂させ、絵画の世界を中心としてジャポニスムが興った。それ以前でもマリー・アントアネットは日本の蒔絵の小箱を収集していた。
 当時の日本人は子供をこよなく愛し大切にする人々だが、時間にルーズで約束にいい加減なので困る、と欧米人が嘆いている。時間がちゃらんぽらんだなんて、現代の日本人とはえらい違いだ。例えばくい打ち1つにしても、「えーいとな~xxx」(例えばの話だ。何と唄っていたのか知らない。)とひとしきり唄ってから一打ち、また唄い始め唄い終わり、一打ち、こういう労働はいいな。効率など全く考えていない。内ポケットに金時計を入れている連中からしたら、実にイライラする場面でサッサと終わらせたら50%増しで賃金を出すぞ、と言いたくなるところだ。
 田植えにしても、何で作業に直接加わらないお囃子楽団が必要なのか、意味が分かんね。一緒にやれば早く終わるじゃん。あーあー踊りながら歌っているよ。体力使うなら田植えをしろよ。歌ならアカペラでいいじゃん。ところが違うんだな、そこが。いいかい、ここが重要な所だよ。ノルマを課されて仕事を強制されたり、報奨金を出して労働を煽ったり、また自発的に人より金儲けがしたくてしゃかりきに働くのとは、労働の質が違うんだ。
 お天とうさんのリズムに合わせて急がず休まず、ゆったりとした労働は苦にならない。ストレスが溜まらない。当たり前の人間の働きだから、日が暮れて一日が終われば、気持ちよく疲れて腹が減る。風呂に入ってぐっすり眠れる。こんなだから日曜日とか、特に無くても別に平気だ。雨が降ったら休みにするか、家で手仕事をすれば良い。もうすぐ鎮守の森のお祭りだ。
 日本は江戸時代になって、孝だの忠だの窮屈な国になり、女性の相続権も無くなった。本来はセックスには大らかで、女性の地位は高かった。卑弥呼にまで遡らなくても、女帝はいたし女城主もいた。堕胎と間引きは多かったが、生まれたばかりは神の領域で人間にはなっていない、と思われていたふしがある。今の道徳観念で絶対悪だと目くじら(目くじらも変な言葉だな。)を立てない方がよい。全ての事は相対。絶対、絶対と言う奴は頭のシワが少なくて、想像力が絶望的に欠如しているんだ。
 さてイザベラ・バード(1831~1904年)は明治11年に来日して、伊藤鶴吉青年を通訳兼ガイドとして雇い3ヶ月旅をする。この伊藤青年が実に魅力的なんだな。こすっからしくてお金をごまかし、女の子にちょっかいを出し、バードは彼の事を実に醜い顔、と言っているが旅を続ける内に信頼が生まれる。とても有能な青年なんだ。バードは正直な人物で、日本の田舎の汚らしい所と日本馬のバカっぷりを散々ののしるが、日本の旧家の清潔さ、人々の礼儀正しさ、風景の美しさも余すところなく表現する。とても不思議で魅力あふれる紀行文になっている。彼女の他の国の紀行文もずいぶん読んだが、日本紀行は公平に見ても秀逸だ。
 それにしても変な国だ。バードが夜床につくと、隣の障子越しに30人位の人(男女・子供・ジジババ)が異人さんを見に集まり、おとなしくジッと見ている。街を歩けば「異人だ!」となって、銭湯から素っ裸の男女がワラワラと飛び出し見物に集まる。北海道を旅した時は、バードはアイヌの人達の風貌と態度の立派なことに共感し、日本人の彼らを見下した横柄な態度に怒りをぶつけている。欧米人とアイヌ人は相性が良さそうだ。伊藤青年もアイヌの人達に対して尊大な態度を取り、バードに叱られる。伊藤君、駄目じゃん。伊藤鶴吉(1858-1913)は、その後も様々な欧米の有名人の通訳として活躍し、日本初のガイド組織の設立に係わっている。写真を見ると普通の顔だよ。醜いは失礼だ。
 さて他の欧米人が日本に滞在した時の話も面白い。商人とおぼしき二人が道で出会い、チョンマゲをチョコンと載せた頭を交互に何度も何度も下げ、ニコニコして手を前でもみ合わせながら長々と挨拶している。これを見ていた英国人の男性は、「ああ、あの二人はいったい何を話しているんだろう。話している内容が分かったらなー。あー知りたい。」と漏らしている。 庭で行水をしている女性が、塀越しに丸見えなのに驚いて立ちつくすと、女性がくるっと背を向ける。
 お茶畑のある庄屋で休憩したフランス人の若い士官達がいた。主が呼んだ娘さんがお茶摘みの作業を中断して、姉さんかぶり前掛け姿でお茶を出した。その娘はほおを紅潮させ、その目は知的で輝いている。うわっかわいい。士官達は争って交際を申し込んだ。いいなあ、面白いな。こんな国なら俺も大好き、行ってみたいな。
 ただね、変わっちまったのは日本だけでは無いとは思うよ。フランスの実業家アルベール・カーンが集めた百年前の世界の映像(フィルムと大量のカラー写真)を見ると、第一次世界大戦の前の欧州が、いかに民族色の豊かなカラフルな世界だったかが良く分かる。人々はそれぞれの民族衣装を普段から着ていて、特色ある帽子をかぶって暮らしていた。ちょうどタイ・ラオス・ミャンマーの国境地帯の山岳民族(黒モン族、シャン族、リス族、アカ族 etc)の人達がそれぞれの衣装を身につけているようなものだ。
 失われた文化、失われた生活、失われた心を取り戻すのは難しい。


巨人族、小人族

2015年12月20日 16時36分41秒 | エッセイ
巨人族、小人族

 どっちから行こうか。巨人?それとも小人?よし小人族にしようぜ。世界の各地で巨人伝説、小人伝説ってあるよね。小人族で有名なのは、『ロード・オブ・リング』に出てくるホビットだが、これは作者の空想の産物だ。
 中国では伝説上の異国のひとつに小人(しょうじん)又は短人があり、東方の海にある島に住んでいるという。日本のことかいな。小人は一人で出歩くと鷲に捕まって喰われるので、いつも3-4人で連れ添って歩くそうだ。
 個人で小さいのなら、ヨーロッパの王室は小人が大好きで、古い王宮ではいつでも小人が王に仕えていた。芸人の世界でも多い。『白雪姫と七人の小人』の7人はドワーフ族で、古くからの言い伝えが基になっている。だから小人症の人達ではなくて、小さい種族なんだ。
 日本昔噺の一寸法師、かぐや姫、桃太郎も個人として小さい。後で大きくなるが。しかしアイヌの伝承コロボックル(コロポックル)は部族だ。意味は「蕗の葉の下の人」だから相当に小さい。妖精の類いの小ささだ。それでも男と女がいて、生まれてきた子供は、うわっ小っちゃ。
 現存する人類で一番小さいのは、中央アフリカの狩猟採集民ピグミー族で平均150cm未満。印象では120-130cmほどだ。同じく狩猟採集の民ブッシュマン(サン)族や放牧民ホッテントット(コイコイ)族も小さいが、ピグミー族が一番小さいことになっている。アフリカには2m近い大男の揃うマサイ族もいるのにね。
 近年インドネシアのフローレンス島の洞窟で、12,000年前の人類の骨が7体分見つかった。ホモ・フローシエンシスと名付けられたこの人骨は、身長が1mほどしかない。最初は子供の骨かと思ったのだが、成人のものと判明した。身長に比較して足(くるぶしから下)が異様に大きいのが特徴である。この人類は猿人、原人。ネアンデルタール人の系統ではなく、ホモ、つまり現在の人類の亜種と言える。たかだか1万2千年前(日本の縄文時代早期)の骨なのだ。
 化石とは言えない近年のその骨が発見された洞窟には、食用にされた燃えた跡のある小型の象、ピグミーステゴドン(水牛くらいの大きさ)と1.8mもある鳥、ハゲコウの骨も発見された。限られた島で、本来は小型のトカゲや鳥が巨大化し、大型獣が小型化することが自然界ではままある。コモド大トカゲのいるコモド島は隣の島だ。
 この身長1mのビックフットは、現在も生存していて毛むくじゃらな姿がジャングルで目撃されるという話しがある。いやもっと具体的に、従来は人と割りと仲良くしていたのだが、村の子供をさらって食べたため、怒った村人が彼らの住みかの洞窟を焼き払ったという。彼らは現地ではエブ・ゴゴと呼ばれている、というのだが、これはUMAの話なので今回はこれ以上のコメントは控えることにする。ただもし1万年生息してきたとしても、後数年、十数年でいなくなるだろう。フローレス島の開発と森林伐採が進み、密林が急速に小さくなっているからだ。
 それでは巨人族。北欧神話にはたくさんの巨人族が登場する。そしてもともと北方系のノルマン人は背の高い人種だ。旧約聖書に出てくるパリシテ人の巨人兵ゴリアテは身長2.9m。これなら現人類の特殊な人の範疇だ。自分はタイ・カンボジア国境での井戸掘りをやっていた時、アメリカ人で身長2.2mほどの若者としばらく一緒に働いたことがある。
 実は大変大人しい青年だったが、その身体的威圧感は凄い。自分が話をするのにこれほど見上げたケースは稀だ。彼なら、身長160cmのタイの強盗団(国境は無法地帯だった。)も手を出さないな、と思った。ピストルの弾を2-3発食らっても反撃してきそうな迫力があるからだ。ついでに言えば、彼は布団も蚊帳も小さすぎて、足がはみ出し蚊のえじきになっていた。
 南米大陸の南の果て、パタゴニアは16-18世紀のヨーロッパでは巨人国と呼ばれ、その住人はパタゴンと称されていた。何だか怪獣につけるような命名だこと。マゼラン海峡を隔てて南極大陸、凄まじい風が吹きすさぶ荒涼とした土地だ。1519年にマゼランが訪れた時、身長3.7~4.6mもある原住民の男女に出会っている。これはでかい。そしてあろうことか、何人か捕まえ船に乗せてスペインへ連れ帰ろうとした。ひどいな。しかし餓えと壊血病で、多くのマゼランの部下と共に死んだ。船内ではずいぶん仲良くなった船員もいたようだし、彼らは毛皮を着て言葉を話すから、全くの未開人とは言えない。この巨人は キリスト教への改宗も考えていたという。
1579年に、イギリスの海賊で海軍提督(昔は普通だ。中国でもオスマン・トルコでも。日本でも似たようなものだ。)であるフランシス・ドレークの艦隊の船長が巨人を目撃している。1590年代、オランダ船に乗っていたイギリス人ウィリアム・アダムス(三浦安針)も言及している。他にも2-3記録があるから事実なのだと思われるが、骨が残っていないのが残念だ。現在この地の原住民テウェルチェ族は、長身だが1.9~2mがせいぜいだ。
そう言えば日本の学者が発掘していた、プレ・インカのシカン文化(750~1,350年)の墓の主は、2mを超え、逆さにあぐらをかいた状態で埋葬されていた。北米にも巨人の話が多い。18-19世紀にいくつもの巨人の骨が出てきている。といっても2.5~3m強位だが、決って歯が2列あるのが特徴だ。開拓初期のころにネイティブアメリカン(インディアン)に捕まって火あぶりにされた、7人だかの開拓者の内一人が歯が2列ある巨人だったという話しもある。巨人の骨の発見は、当時の新聞に掲載されているし、リンカーン大統領も骨を見ているのだが、不思議なことに現存するものが一つも無い。子供がかぶとのように被っている頭蓋骨の写真はあるのだが、現物はどこに行ってしまったのか。一部は埋め戻しているのだが。
進化の方向に一つとして、人類が一斉にダウンサイジングするのはどうかな。デノミネーションの切り下げだね。食料の節約、エネルギー消費の大幅な節約になるのは間違いない。1/100にしたらネズミにだって喰われかねない。平均身長75cm位でどうだろう。2車線の道路も4車線で使える。ブドウもイチゴもでっかくなるぜ。釣りも迫力が増すってもんだ。
さて時代、地域によって身長が異なるのは、他ならぬ我々日本人を見れば分かるよね。百年単位の話じゃあ無い。戦前と現代ではずいぶん違う。身長178cmの自分には、零戦のコックピットはきつい。ミャンマーの人達も平均して小さかったな。米だけはあるが、流通が悪くて副食品が市場に最近まで出回りにくかったのだ。食料事情の悪い北朝鮮の人と、韓国の人の特に若い世代での平均身長を比べたら、かなりの開きがあるんじゃないかな。
最後に歴史上の人物の身長を書き出すね。現存する鎧、肖像画、文献等から割り出したものだが、時代が古くなるほど信ぴょう性が薄れる。

徳川将軍(徳川家菩提寺、大樹寺に安置されている位牌は身長の高さになっている。)家康 159cm, 二代秀忠 160cm, 吉宗 156cm, 綱吉(生類憐みの令)124cmこれは小人症としか思えん。 源頼朝 165cm, 義経150cm,武蔵坊弁慶 195cm(って実在するのか?)織田信長 170cm, 武田信玄 153cm,
上杉謙信 156cm, 豊臣秀吉 150-160cm, 前田利家 182cm, 浅井長政 180cm, 加藤清正 161cm, 石田三成 156cm, 直江兼継 182cm, 淀殿 168cm,

劉備 172.5cm, 曹操 161cm, 関羽 207cm, 張飛 184cm, 諸葛孔明 184cm, 楊貴妃 150cm/推定65kgs, クレオパトラ 150cm,
マリー・アントワネット 154cm, エリザベス1世 175cm, ナポレオン 167cm, ワシントン 188cm, リンカーン 193cm,
スターリン 163cm, ヒットラー 175cm, 西郷隆盛 179cm, 宮本武蔵 185cm, 近藤勇 162cm, 土方歳三 167cm, 坂本竜馬 182cm(174または169の説あり)


唐辛子の伝播

2015年12月18日 07時32分53秒 | エッセイ
唐辛子の伝播

 20歳になって初めてオクラを食べた。子供の頃にはチンゲンサイやカリフラワーは知らなかった。あったのだろうけれど、普通に横浜の八百屋で売ってはいなかった。ブロッコリーは有ったけど、あれは八宝菜に入れるものね。グリーンアスパラは無かった。エリンゲなんてごく最近。レタスはあったが、生野菜のサラダ自体が今ほどポピュラーではなかった。中国人なんか生野菜のサラダを気持ち悪がっていた。兎かよ、なんてね。うちの母親は好奇心が旺盛だから、新しい野菜や果物が出回れば直ぐに買ってきたと思う。もちろん地域差はあるよね。京野菜とか桜島大根とか。流通も今ほど盛んではなかったからね。
 オクラに戻るが、ネバネバしているのね。カツオブシを振りかけて、醤油を垂らすと美味しいじゃん。ご飯にもよく合う。学生の時、古墳時代の住居跡の発掘のアルバイトに行って昼食(自己負担100円)の時、賄いの秋田のおばちゃん(とても親切な人だが、何をしゃべっているのか時々分からない。)が、よくオクラを出してくれたんだ。このオクラの原産地、分かる?果たしてどこ出身の野菜なんでしょう。
 答えは後で。果実も生のパイナップルが沖縄から入ってくるようになったのは、中学生になってからだった。缶詰のパインは流通していたんだけどね。パイナップルの切り方は家族で沖縄旅行に行って教わった。復帰の前でドルが通貨だったな。その後20世紀、グレープフルーツ、プリンスメロン、ネクタリン、ライチ、アボガド等々が出回り始めた。我が家は直ぐに買った。
 マンゴー、パパイヤ、ココヤシ、マンゴースチン、ドリアン、ザボン、スターフルーツ、釈迦頭。アジアの国々を旅するようになって、現地で初めて食べた。トロピカルフルーツは旅の楽しみの一つだ。季節があるので食べたくても売っていなかったり、初めての果実に出くわしたり、何度旅しても新しい出会いがある。市場の果実コーナーは楽しい。野菜は旅先で気楽には買えないものね。あっ大きいナス、でも買えね。さてオクラだけど、アフリカ原産だす。ジャンボ。
 いつもながらに前振りの長いこと。今回のテーマは唐辛子だった。唐辛子は実に種類が多い。懐の深い野菜なんだ。大きいの小さいの、赤いの緑色の、マイルドなの、触っただけで手が腫れるほど辛いの。でも元は南米原産なんだ。新大陸(欧州から見て)侵略によって欧州が獲得した物は、大量の金銀だけではなかった。欧州人は、広大な土地の他に次の物を手に入れている。梅毒、トウモロコシ、ジャガイモ、トマト、カボチャ、さつまいも、落花生、イチゴ、ピーマン、タバコ、北米産では、インゲン豆、ズッキーニ。これらが無かったら、最初のはいらないけど、大変だよね。
 反対に中南米、北米の人々が押しつけられたものは、奴隷的搾取と偏見、文化と尊厳の破壊、天然痘、麻疹、ペストそれからキリスト教。あんまり悪口を書くと、キリスト教原理主義者に刺されそうだから止めておこ。それにしてもジャガイモの無いドイツ、トマトの無いイタリア、全く中世以前は何を食っていたんだ。

*インカ帝国は一枚岩の封建制国家では無かった。群雄の治める国家群を統治するいわば徳川幕府だった。ピサロの侵略の数年前から天然痘の侵入は始まっていて、バンデミック、人口の6割は死滅しつつあった。国によっては人口の94%、ほぼ全滅した所もあったのだ。キリスト教と天然痘はセットで来るケースが多い。おっとまた怒られる。これでは現世を捨ててマチュピチュに逃れたくもなるよね。

 唐辛子は短期間に品種改良をくり返し、またたく間に世界中に広まった。各国に伝わり普及した過程と期日は不明だが、少なくとも15世紀までのインドのカレー、朝鮮のキムチは辛くはなかった。但し、山椒の実は良く使われていた。日本へは1542年ポルトガル宣教師が大友宗麟に献上、南蛮胡椒と呼ばれた。胡椒と唐辛子は全くの別物だが、歴史的な経緯からよく混同される。しかしコロンブルの新大陸(欧州から見て勝手に)発見が1492年、コルテスのアステカ文明の破壊・掠奪が1519年、ピサロのインカ帝国だまし討ちが1526-7年だから、日本への伝播は随分と早い。朝鮮へは、秀吉の二度に渡る侵略戦争の時に伝わったという説がある。けれど日本では唐辛子は味付け程度に使われ、これでもかと入れる料理は発達しなかった。いつもほどほどに、なんだよな日本は。韓国やベトナムの人はやるならとことん、が多い。

 さあ、他の野菜・果実はどこから来たのか、主な作物の原産地を書き出すね。
中央アジア、西アジア原産 : 玉ねぎ、人参、大根、にんにく、メロン、へちま、えんどう、そら豆、ひよこ豆、ほうれん草、生姜、その他。
インド・熱帯アジア原産 : きゅうり、なす、とうがん、にがうり、里芋、こんにゃく、胡椒、その他。
アフリカ原産 : ごま、スイカ、ひょうたん、ゆうがお、モロヘイヤ、その他
中国・東アジア原産 : 小豆、大豆、白菜、ネギ、菊、にら、孟宗竹、真竹、からしな、あぶらな、チンゲンサイ、その他。
ヨーロッパ原産 : キャベツ、春菊、アスパラガス、レタス、パセリ、マッシュルーム、ブロッコリー、かぶ、ごぼう、各種のミント類、その他。
 ヨーロッパは葉物以外苦戦している。氷河期に氷に覆われ、多くの植物が死滅したのが影響しているのだろう。しかしごぼうがヨーロッパ原産とは意外だ。戦時中、泰緬鉄道で使役した英軍捕虜にごぼうを食わせ、戦後木の根を食事に出した、といって戦犯に問われた日本の軍人もいたのになー。

さて日本原産 : 日本に自生していた植物。日本にしかないとは限らない。
山椒、せり、ぜんまい、つくし、椎茸/なめこ/ほんしめじ/松茸等のきのこ類、ふき、わらび、うど、あしたば、茗荷、蓮、わさび、山ゴボウ、かたくり、山の芋、たらのき、じゅんさい、薄荷、みずな、三つ葉、きくらげ、まこも、あさつき、鬼ゆり、くろぐわい、やまごぼう、その他。

さあ、こうなると止まらない。コーヒーは?エチオピアの高地と言われている。10~11世紀にアラビア半島に伝わり、イスラムの修行者が眠気防止に使っていた。アフリカ北東部とアラビア半島は一衣帯水。うそだと思うなら、ソマリランドの海賊に聞いてみな。焙煎の技術を発見すると普及して、オスマントルコで流行しヨーロッパへは17世紀に伝播した。ではソバは?中国南部らしい。小麦・大麦?コーカサス地方~イラク。
お茶はどうだ?諸説あるが西双版納(シーサンパンナ)が有力だ。雲南~ラオス・タイ・ビルマの国境、高原地帯。照葉樹林の広大な森林が広がる。実は稲(お米)もここが発祥の地らしいんだ。アジアのヘソ、諸民族のおっ母さんのような所だ。ここいらには納豆や赤飯もある。これは行ってみなくちゃ。タイ語通じるかな。シーサンパンナの北部に樹齢2千年、高さ25.6m、幹の周囲は2.8mの古茶樹が立っている。今でも茶葉を収獲しているらしい。どんな味がするんだろうね。シルクロードとシーサンパンナ、行かなきゃならない所が沢山あって困っちゃう。


ボーンズ

2015年12月15日 19時29分27秒 | エッセイ
ボーンズ

 「ボーンズ」というTVドラマがある。FBI捜査官のマッチョを相棒(後に夫)として殺人事件にいどむ、骨専門の法医学者が主人公だ。毎回これでもかとグロテスクな変死体が冒頭から出てくる。法医学者の博士は頭がよくて美人なのだが、空気が読めない人で相手の気持ちには全く気付かない。彼女のズバズバいうストレートな発言は回りの人達を傷つけるが、その真摯な態度は一貫していてぶれず、そんな彼女は愛されている。とはいえ、一見したらスゲーいやな女だ。それはさておき、彼女は骨を見ただけでその人の辿ってきた人生が分かってしまう。人種や年齢、生活環境、病歴等々。例えば殺された女性が8歳の頃に腕を骨折したが、半年後にはテニスの練習を前にも増して再開した頑張り屋さん、とかが分かってしまう。骨は語る。
 TVのドキュメンタリーで、グラディエイター、ローマの剣闘士の墓を発掘し4-5体を研究室に運び、それぞれの死因、人種、生い立ち等を分析していた。詳しい事は忘れたが、一人はアジア系(地域名は忘れた)で片手に剣、片手に網を振り回す格闘技を行っていたことが、肩の骨の発達と摩耗から推測された。どのような武器による損傷をどう受けて死んだかは当然分かる。別の男性はプロの格闘家ではなく、おそらく貴族の息子が賞金目当てか、好奇心かで参加し馬に乗って戦ったが、大腿部を深く斬られ出血多量で絶命した。この若い男性の骨は、その傷以外に全く損傷がなく、健全な食生活を送っていたことが分かる。
 十字軍時代の遺跡の発掘では、十字軍兵士の遺骨が打ち捨てられているのを掘りだした。エルサレムがキリスト教徒に占領されていた時代に、聖ヨハネ騎士団が攻勢をかけ、イスラム教徒の生命線ともいえる交通の要地(低地)に砦を築く。イスラムの英雄サラディン(この人はクルド人だ。)は砦を包囲するが、その完成まで不気味に手を出さない。中世のヨーロッパはイスラム教国に較べて、科学知識、芸術面、社会制度等で劣っていたが、築城の技術は優れていた。その堅固な城塞は、後にコンスタンチノープルとロードス島でオスマン・トルコ軍を手こずらせた。
 その強固な砦がやっと完成し、キリスト教徒がホッとしたその瞬間、城壁の一角が轟音をたてて崩れ落ちた。サラディン軍が時間をかけて掘り進んだトンネルは既に城壁に達していた。壁の真下に大量の薪を積みあげ、それに油をかけて燃やしたのだ。空気中の酸素が燃焼で失われて圧縮するのだろうか。騎士団に数倍するイスラム軍は崩れた城壁から侵入した。殺到するイスラム兵と迎え撃つ騎士。たちまち阿鼻叫喚の白兵戦が展開される。キリストの騎士は勇敢だった。腕を切り落とされ、頭に半月刀の一撃を食らっても前を向いて戦い続け、最後は至近距離からのどに矢を射られて絶命した。弓兵は現代のスナイパー、狙撃手だ。スナイパーは現在の戦場でも最も憎まれている。十字軍の弓兵は滅多切りにされていた。
 城壁が無ければ多勢に無勢、キリスト教徒側に勝ち目はない。追い詰められた騎士は、団長以下主だった指導者が騎乗して最後の突撃を敢行した。イスラム兵をさんざん切り捨て重包囲の中、火に飛び込んで息絶えた。史実ではそうなっているのだが、焼け焦げた骨はその騎士のものだろうか。また捕えられ首を刎ねられた頭骨も見つかった。立派な体格、何度も前を向いた負傷と回復の跡、指揮官だったのだろうか。
 珍しく簡易に埋葬された若者の骨は、兵士ではなくて石工のものと推測された。戦闘による傷がなく、石工の労働に相当する骨の発達が見られたからだ。彼は初期の頃に襲撃されて矢に当たり、傷口が化膿して敗血症で苦しみつつ死んだものと思われる。この若者は歯周病で悩んでいた。彼の口臭は相当なものだっただろう。骨からこんな事までが分かる。
 最後に英国の湿地帯で工事中に発見された大量の骨(200体分ほど)は、全て頭骨と体が分断されていた。当初は大量殺りくの事件かと思われたが、時代測定をしたところ、千年以上前に英国に侵入してきたバイキングのものと分かった。捕えられたバイキングの処刑だ。だが凄いことが直ぐに分かった。全ての頭蓋骨が前から斬られているのだ。バイキング達が己の勇気を誇示するために、斧か剣か分からないが、迫ってくる死を睨み据えて死ぬことを要求したものと思われた。怯える捕虜を200人押さえつけて、前からの刃で処刑出来るとは思えないし、またそうする必要もない。この200余の骨は見事に切断されていて、彼らが不屈の意志で死を受け止めた事を示している。首切り人の腕も確かだ。千年の時を超えて戦士の気骨が見える。