日本紀には、仁徳天皇の四十三年に鷹狩の由来が書かれていて、そこに鷹を意味する古語(百済の言葉)が登場するので、その部分を抜き出してご紹介します。(参考:『日本紀標註』)
原文
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読み下し文
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天皇召酒君 | 天皇(すめらみこと)、酒君(さけのきみ)を召して |
示鳥曰是何鳥矣 | 鳥をみせてのたまわく、これは何の鳥ぞ |
酒君對言此鳥類多在百濟 | 酒君こたへてまうさく、この鳥のたぐいさはに百済にあり |
得馴而能從人 | 馴づけ得てはよく人に従い |
亦捷飛之掠諸鳥 | またとく飛びて諸々の鳥をかすむ |
百濟俗號此鳥曰倶知 | 百済の人この鳥の名を「くち」という |
そして、この直後に「是今時鷹也」(これ今の時の鷹なり)という注釈があり、続いて、酒君が鷹を飼い馴らして鷹狩を行なったことが書かれています。
この「くち」という言葉は、平安時代後期の歌集である『永久百首』や『散木集』にも使用されていて、例えば『散木集』には次の歌が収録されているので(『新校群書類従 第十三巻』(塙保己一:編、内外書籍:1929年刊)より)、「くち」が日本語化していたのは間違いないでしょう。
【散木集-きぎすなく】(塙保己一:編『新校群書類従 第十三巻』より)
なお、このエピソードに登場する酒君という人物は、百済王の孫で、仁徳天皇の四十一年に紀角宿禰(きのつぬのすくね)という日本の使節に無礼を働いた罪に問われて日本に連行されたことが書かれています。
また、大阪市のホームページには、この人のお墓である「酒君塚古墳」(さけきみづかこふん)に関する説明があり、それによると、この古墳は東住吉区鷹合にあり、長径35m以上、高さ2m前後の首長墓で、築造時期は四世紀末と推定されているそうです。
ちなみに、鷹合(たかあい)という地名は、酒君が鷹を飼育した場所を鷹甘(たかかひ)の邑(むら)とよんだことが仁徳紀に書かれているので、「たかかひ」がなまったものだと思われます。
ところで、本ブログの「年代推定-仁徳天皇と履中天皇」でご紹介したように、仁徳天皇の在位期間は20年程度だったと思われますから、仁徳紀四十三年の記事は捏造されたものだと判断できます。
一方、これまで本ブログでご紹介してきたように、日本紀の編集者は神功皇后を卑弥呼に比定していたと思われ、かつ、卑弥呼の没年が正始八年(西暦247年)以降だと理解していたはずなので、神功皇后の没年である己丑(つちのとうし)を西暦269年に比定していたのではないかと推測できます。
そこで、269年に応神天皇の在位期間(41年)と仁徳紀の酒君の記事の年数(43年)を足すと、353年という値が得られます。
この西暦353年という年代は、当然ながら酒君の壮年期に該当すると考えられますが、これは四世紀末に酒君塚古墳が築造されたとする大阪市のホームページの記述と整合しますから、日本紀の編集者が仁徳紀の四十三年に酒君の記事を挿入したことは、実は必然性があったと思われるのです。
最後は余談ですが、酒君が日本に来る原因となった紀角宿禰という人物は、応神紀三年(つまり80年以上前)にも百済に派遣されています。
仮にこの人物が応神天皇の三年に20歳だったとすると、仁徳天皇の四十一年には100歳を超えていたことになりますから、これは常識的に考えると明らかに異常です。
もちろん、日本紀の編集者もこの問題を認識していたはずですが、国家の歴史書にあえてこう書いた理由を推測すると、この人の父親である武内宿禰(たけうちのすくね)が常識外れの長寿だったからだと思われます。
そこで、次回は武内宿禰の長寿の秘密についてご紹介します。
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