前回、神武天皇が二世紀の初めに日本を統一したと書きましたが、戦前に使われていた皇紀では、神武天皇が即位した年を西暦の紀元前660年と定めていました。
そのため、私の主張に対して違和感を感じる人がいるかもしれませんから、皇紀が定められた経緯をご説明したいと思います。
『暦と占いの科学』(永田久:著、新潮社:1982年刊)という本によると、日本で初めて暦を採用したのは西暦604年で、中国の暦法を輸入したそうです。
中国では、十干と十二支の組み合わせで年数を数えていたので、10と12の最小公倍数である60年で同じ干支が繰り返されることになります。(十干については本ブログの「あ行の「え」のまとめ」をご覧ください。)
【十干と十二支の組み合わせによる年数の数え方】
干支 | 番号 | 干支 | 番号 | 干支 | 番号 | 干支 | 番号 | 干支 | 番号 | 干支 | 番号 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
甲子 |
1
|
甲戌 |
11
|
甲申 |
21
|
甲午 |
31
|
甲辰 |
41
|
甲寅 |
51
|
乙丑 |
2
|
乙亥 |
12
|
乙酉 |
22
|
乙未 |
32
|
乙巳 |
42
|
乙卯 |
52
|
丙寅 |
3
|
丙子 |
13
|
丙戌 |
23
|
丙申 |
33
|
丙午 |
43
|
丙辰 |
53
|
丁卯 |
4
|
丁丑 |
14
|
丁亥 |
24
|
丁酉 |
34
|
丁未 |
44
|
丁巳 |
54
|
戊辰 |
5
|
戊寅 |
15
|
戊子 |
25
|
戊戌 |
35
|
戊申 |
45
|
戊午 |
55
|
己巳 |
6
|
己卯 |
16
|
己丑 |
26
|
己亥 |
36
|
己酉 |
46
|
己未 |
56
|
庚午 |
7
|
庚辰 |
17
|
庚寅 |
27
|
庚子 |
37
|
庚戊 |
47
|
庚申 |
57
|
辛未 |
8
|
辛巳 |
18
|
辛卯 |
28
|
辛丑 |
38
|
辛亥 |
48
|
辛酉 |
58
|
壬申 |
9
|
壬午 |
19
|
壬辰 |
29
|
壬寅 |
39
|
壬子 |
49
|
壬戌 |
59
|
癸酉 |
10
|
癸未 |
20
|
癸巳 |
30
|
癸卯 |
40
|
癸丑 |
50
|
癸亥 |
60
|
したがって、何かの歴史的事件が60年前に起こったのか、それとも120年前だったのか、あるいは600年前だったのか、この数え方では区別がつきません。
また、暦を輸入する際に、暦に関する伝説も日本に伝わったのですが、中国では辛酉(かのととり)の年には革命が起こるという伝説があり、さらに、21回目の辛酉の年には大革命が起こるとされていたそうです。
そのため、西暦604年からもっとも近い辛酉の年である西暦601年を基準に、その1260年前である紀元前660年が大革命の年と考えて、これを神武天皇即位の年としたのだそうです。
そして、これに合わせて歴史を改ざんし、例えば、応神天皇即位の年は庚寅(かのえとら)の年で、これを皇紀930年(西暦270年)のこととしたのですが、実際には本ブログの「年代推定-応神天皇」に書いたように、西暦390年が正しいと考えられるのです。
つまり、皇紀では、応神天皇即位の年を120年も古く見せかけているわけで、具体的には、各天皇の在位期間を、応神天皇は20年以上、仁徳天皇は約67年、允恭天皇は約23年、それぞれ延長していると考えられます。
このことは、それ以前の天皇についても同様で、例えば、第六代孝安天皇の在位期間は102年、第十一代垂仁天皇の在位期間は99年とされていて、明らかに異常な値となっていますから、これらを修正する必要があるわけです。
なお、修正案の一例を本ブログの「彌馬升=孝昭天皇説の検証」に示してありますので、よかったら参考にしてください。
結論として、皇紀には何の根拠もなく、神武天皇即位の年を二世紀の初め頃に想定するのがとても合理的だと考えられるのです。
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