『ついに現われた幻の奉納文 伊勢神宮の古代文字』(丹代貞太郎・小島末喜:著、小島末喜:1977年刊)という本の内容をご紹介しています。
この本の順番にしたがうと、次は舎人親王の番なのですが、前回との関係を重視して、今回は、太安萬侶とともに古事記の完成に尽力した稗田阿礼の奉納文をご紹介します。
なお、「伊勢神宮奉納文神代文字保存委員会」というサイトにこの奉納文の画像が掲載されていますので、よかったらご覧ください。
【稗田阿礼の奉納文】
番号
|
読み
|
古代文字の種類
|
---|---|---|
10
|
につきのたのいなからにいなからにはひもとほろふ | 阿比留文字 |
とろろつら | 阿比留文字 | |
あさしぬはらこしなつむそらはゆかすあしよゆくな | 阿比留文字 | |
やまとほこあまつみしろとよくむなりひめみこと | 肥人書 | |
つちのへさる和銅元(記号) 稗田阿礼(花押) | 肥人書+記号+漢字 |
古事記によると、倭建命(やまとたけるのみこと)は伊吹山で雹(ひょう)に降られて病気になり、能煩野(のぼの=現在の三重県亀山市付近)で亡くなってしまうのですが、この訃報を聞いて彼の后(きさき)たちや御子(みこ)たちが駆け付け、御陵(みはか)を作って倭建命を弔(とむら)ったそうです。
この奉納文の1行目から3行目は、その際に詠まれた歌とされますが、古事記とは少し異なる部分があるので、『古事記』(藤村作:編、至文堂:1929年刊)の原文をご紹介します。なお、意味は『紀記論究外篇 古代歌謡 上巻』(松岡静雄:著、同文館:1932年刊)という本を参考にしました。
【上記奉納文に対応する古事記の原文と意味】
(后たちや御子たちが)御陵に隣接する田をはいまわり、哭(な)きながら詠んだ歌。
原文
|
読み
|
意味
|
---|---|---|
那豆岐能多能 | なづきのたの | (御陵に)隣接する田の |
伊那賀良迩 | いながらに | 稲の茎に |
伊那賀良尒 | いながらに | 稲の茎に |
波比母登富呂布 | はひもとほろふ | はいまわる |
登許呂豆良 | ところづら | トコロ(ヤマノイモ科の植物)の蔓(つる)よ |
このとき、(倭建命の魂が)八尋白智鳥(やひろしろちとり=大きな白色の霊鳥)になって、浜に向かって飛び去ったので、后たちや御子たちは、小竹の切り株に足が傷つく痛みも忘れて、哭きながら追いかけて詠んだ歌。
原文
|
読み
|
意味
|
---|---|---|
阿佐士怒波良 | あさしぬはら | 笹原を (「あさ」は似て非なるもの、「しぬ」は小竹(篠)のこと) |
許斯那豆牟 | こしなづむ | (笹が腰にまつわりついて)行きなやむ |
蘇良波由賀受 | そらはゆかず | 空を飛ばず |
阿斯用由久那 | あしよゆくな | 徒歩で行くこと(のもどかしさ)よ (「な」は感動詞) |
両者の異なる部分を赤字で示しましたが、上記奉納文は古事記より古いので、稗田阿礼の奉納文が間違っていて、この間違いを太安萬侶が古事記で校正したということなのかもしれません。
これがもし偽造されたものであれば、わざわざ間違えることはしないでしょうから、こういった不一致も、古代文字の奉納文が本物である証拠だと思われます。
なお、見慣れない単語として「はひもとほろふ」がありますが、これは『大日本国語辞典』によると「はいまわる」という意味です。(次図参照)
【はひもとほろふ】(上田万年・松井簡治:著『大日本国語辞典』より)
また、「ところ」、「なづく」、および「なづむ」という言葉が『大日本国語辞典』に載っていたので、こちらも参考にしてください。
【ところ・なづく・なづむ】(上田万年・松井簡治:著『大日本国語辞典』より)
以上の検討結果をまとめると、全体の意味は次のようになると思われます。
【前半の意味】隣接する田の稲の茎にはいまわるトコロの蔓よ。(この蔓のように、私たちも田をはいまわる)
【後半の意味】笹原を行きなやむ。空を飛ばず、徒歩で行くこと(のもどかしさ)よ。
松岡静雄氏によると、これらの歌は、大葬において演奏するためにある時代に作製されたもので、前後にある古事記の記述は、むしろこれらの歌によって案出されたものと見るべきなのだそうです。
また、『大喪儀記録』(大阪朝日新聞社:編、朝日新聞合資会社:1912年刊)という本によると、明治天皇の葬儀の際に、これらの歌が楽曲として歌われたそうです。
4行目は、この時代の天皇の御名で、前回の太安萬侶の奉納文とまったく同じなので、これは第四十三代元明天皇のことだと考えられます。
5行目は、この奉納文が書かれた日付と署名で、「つちのへ」は仮名遣いに間違いがあり、前回指摘したように「つちのえ」と書くべきですから、やはりこの間違いは当時の仮名遣いの乱れを知る貴重な資料で、8世紀初頭には「え」、「ゑ」、「へ」の区別があいまいになっていたと考えられます。
次に、「和銅元」の下に2つの記号が書かれていて、1つ目は縦横5本ずつ計10本の線、2つ目は三日月のようなものですが、これを前回の奉納文と比較すると、「十月」という意味だと推測できます。
前回ご紹介したように、古事記の原本が古代文字で書かれていて、稗田阿礼が古代文字に習熟していた可能性がありますから、これらの記号は古代文字に由来するものなのかもしれません。
また、奉納者については、署名が漢字であるため、正しい発音は不明ですが、これまでの検討結果から、「ひえだあれ」と読むのが正しいと思われます。
なお、稗という漢字は、禾、白、ノ、十から成り立っていますが、この署名では、「白」が「日」となっており、古代の漢字の書体という観点からも、この奉納文は注目に値すると思われます。
そして、署名の最後に花押(かおう)と思われる印がありますが、実は「中臣連鎌子の奉納文」でご紹介した3枚目の奉納文にも花押らしきものが認められます。
『花押のはなし』(大森頼周:著、エス・アイ・エス系譜史料学会:1985年刊)という本によると、唐の中宗(西暦684年~704年)の頃、韋陟(いちょく)という人がいて、「陟」の字を五つの雲がたなびいているように崩して署名したのが中国における花押の起源だといわれているそうです。
また、日本では、平安時代の初期に公文書の署名が草書体となり、さらにそれを極端に崩して花押が誕生したとされるそうです。
したがって、伊勢神宮の古代文字の奉納文は、日本の花押の歴史を書き換える非常に貴重な資料だということになります。
最後に、前回は肥人書の異なる書体をご紹介しましたが、前回の太安萬侶が「第十二文」を使っていたのに対し、今回の稗田阿礼は「第二文」を使っており、同時代に別の書体が併用されていたことが分かります。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます