今回は、前回に続いて稲荷山古墳から出土した鉄剣の文字の解読です。
前回ご紹介したように、『倭王と古墳の謎』によると、この鉄剣には獲加多支鹵大王と刻まれていて、これを「わかたける」大王と読んで第二十一代雄略天皇に比定しています。
これは、六世紀までの天皇の和名を調べると、「かた」(加多)という音を含む天皇は、「わかたらしひこ」(第十三代成務天皇)と「おほはつせわかたけ」(雄略天皇)の二人しかいないので、古墳の推定築造年代(五世紀末頃)から雄略天皇に決定したのだと思われます。
このことは、雄略天皇の皇居である泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)が磯城縣(しきのあがた)にあったことからも、妥当な結論だと思われます。
参考までに、『大日本読史地図』の「上代の近畿」という地図の一部をご覧ください。
【磯城縣と泊瀬朝倉】(吉田東伍:著『大日本読史地図』より)
おそらく、泊瀬朝倉宮という名称は、後代の人が磯城にあった他の宮と区別するためにつけたもので、この鉄剣がつくられた当時、すなわち雄略天皇の生存中は、ここを斯鬼宮(しきのみや)とよんでいたのでしょう。
また、先頭の獲という漢字は、現代の読みは「かく」ですが、戦前の辞書には「くわく」と書かれていて、実際そのように発音されていたようですから、獲にW音が含まれていたのは確かだと思われます。
したがって、五世紀には、獲が「わか、わけ」のように「わ+K音」の場合の「わ」を表記する際に使われていたということのようです。
そうなると、支は「け」と発音されていたことになり、鹵は『明解漢和大字典』に漢音「ろ」、呉音「る」と書かれているので、日本語として自然な「る」という読みを採用したのでしょう。
これまでの情報をまとめると、次のような漢字の五十音図が得られます。
なお、この鉄剣は西暦471年に制作されたと考えられるそうですから、これは「魏志倭人伝」の約200年後の五十音図ということになります。
次回からは、この情報を参照しながら、再び「魏志倭人伝」を解読していきます。
ところで、「わかたける」が雄略天皇であるなら、和名の「おほはつせわかたけ」(漢字表記は大泊瀬幼武)は「おほはつせわかたける」が正しいことになります。
この理由を推測すると、漢字の伝来からしばらくして、漢字を訓読みすることが流行し、「わかたける」に幼武という漢字をあてたため、後世の人はこれを間違って「わかたけ」と読んでしまったのだと思われます。
したがって、この鉄剣の解読によって、武を「たける」と読むことが明らかになり、千数百年ぶりに間違いが訂正されることとなったわけですが、これは「やまとたけるのみこと」(漢字表記は日本武尊)の場合から考えても納得できる結果です。
日本紀によると、日本武尊は第十二代景行天皇の皇子で、最初は小碓尊(をうすのみこと)という名前でしたが、九州の熊襲を退治した際に、敵から日本武という名前をもらったとされます。
面白いことに、古い文献で日本武の振り仮名を調べると、『世界智計談 上』(村田尚志:編、金松堂:1874年刊)、『歴史問答作文 上』(堀達之助:著、出雲寺万次郎:1881年刊)、『新撰詩文登階 下』(佐藤利信:編、1882年刊)、『和漢三才図会 巻之26 神社仏閣名所』(寺島良安:編、内藤書屋:1890年刊)では、「やまとたけ」または「やまとだけ」でした。
そして、この振り仮名が「やまとたける」となるのは、明治26年に出版された『小学帝国史 前科 上の巻』(笹本恕:編、神戸書店:1893年刊)からでした。
これは、江戸時代以前には日本武を「やまとたけ」と読むことが定着していたわけですが、明治維新によって旧薩摩藩の人々が政府の役人となり、正しい読み方を伝えたため、ついに歴史の教科書が「やまとたける」に書き換えられることになったと考えられるのです。
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