漢字が輸入された時代背景を考察するため、『日本上代史の一研究』を参考にしながら年表を作成していて、今回は仁徳天皇と履中天皇の時代です。
この時代の朝鮮半島の資料は極めて乏しいのですが、中国の歴史書に倭の朝貢のことが書かれていて、そこに五人の王の名前が登場することから、これを倭の五王とよんでいます。
この本では、歴史学者の那珂通世氏や歴史・地理学者の吉田東伍氏の説を紹介して、倭の五王を次のように比定しています。
倭の五王 | 該当する天皇 |
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讃
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仁徳天皇
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珍
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反正天皇
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済
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允恭天皇
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興
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安康天皇
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武
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雄略天皇
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つまり、仁徳天皇は倭王「讃」であり、次の履中天皇は倭の五王ではなかったようです。
参考までに、この時代の天皇家の系図が本ブログの「漢字の音訳時期」にあるので、よかったらご覧ください。
なお、年表の作成にあたり、当時の交通事情や、中国への使いが正月の祝賀行事に参列した可能性などを考慮して、中国の記録の前年に天皇が即位したと仮定しました。
また、年表の★印は、著者の池内宏氏が歴史的事実と判断した事項です。
統治者
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干支
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西暦
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特記事項
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仁徳天皇 | 壬子 | 412年 | 仁徳天皇が即位(仮定) |
癸丑 | 413年 | ★義熙九年 高句麗、倭国・・・方物を献ず(晋書安帝紀) ★安帝の時、倭王讃あり(南史東夷伝) |
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甲寅 | 414年 | ||
乙卯 | 415年 | ||
丙辰 | 416年 | ||
丁巳 | 417年 | ||
戊午 | 418年 | ||
己未 | 419年 | ||
庚申 | 420年 | ★晋(東晋)が滅び、宋(劉宋)が建国される | |
辛酉 | 421年 | ★永初二年 倭讃、萬里貢を修む(宋書倭国伝) | |
壬戌 | 422年 | ||
癸亥 | 423年 | ||
甲子 | 424年 | ||
乙丑 | 425年 | ★元嘉二年 讃また司馬曹達を遣し表を奉り方物を献ず(宋書倭国伝) | |
丙寅 | 426年 | ||
丁卯 | 427年 | ★高句麗が平壌に遷都(高句麗の南下) | |
戊辰 | 428年 | ||
己巳 | 429年 | ||
庚午 | 430年 | ★元嘉七年 倭国王、遣使して方物を献ず(宋書文帝紀) | |
辛未 | 431年 | 仁徳天皇の没年(仮定) | |
履中天皇 | 壬申 | 432年 | 履中天皇が即位(仮定) |
癸酉 | 433年 | ||
甲戌 | 434年 | ||
乙亥 | 435年 | はじめて諸国に国史(ふみひと)を置いた(履中紀4年) | |
丙子 | 436年 | 履中天皇の没年(仮定) |
ここで、履中天皇の没年は、次回ご紹介する倭の五王「珍」(反正天皇)に関する中国の記録の2年前と考えて、西暦436年と仮定しました。
そして、履中天皇の在位期間は、日本紀によると6年、古事記によると5年なので、短い方の5年を採用し、履中天皇は西暦432年に即位したと仮定しました。
そう考えると、必然的に仁徳天皇の没年は西暦431年になりますから、在位期間は20年だったと計算できます。
なお、日本紀によると仁徳天皇の没年は即位から87年目となっていますが、これも応神天皇の場合と同様の作為で、仁徳天皇の場合は実に67年も在位期間が延長されていることになります。
さて、倭が晋(東晋)に朝貢した西暦413年は、高句麗の広開土王が没し、子の長寿王が即位した年で、高句麗もまたこの年に晋に朝貢し、長寿王は征東将軍という称号を授けられています。
また、前回登場した百済の腆支王は、西暦416年に朝貢し、鎮東将軍という称号を授けられています。
朝鮮半島では、この長寿王のときに高句麗の勢力がますます盛んになり、百済と新羅を圧迫した結果、百済はかつて敵対していた新羅と協力して高句麗に対抗するようになっていったそうです。
一方、中国では、西暦420年に晋が滅んで、宋(劉宋)が建国されました。
その際、宋の武帝は高句麗と百済に建国を告げ、長寿王を征東大将軍に、腆支王を鎮東大将軍にそれぞれ昇進させています。
倭が、西暦421年に宋に朝貢したということは、こういった海外の情報収集に努めていた証拠でしょう。
仁徳天皇は、交通の便がよい難波高津宮(現在の大阪府大阪市中央区)に皇居を移しましたが、これは海外の情報収集が目的だったのかもしれません。
続いて、西暦425年の朝貢では、「表を奉り」と書かれていますが、この表は漢文で書かれていたはずですから、この朝貢は、西暦405年に始まったと思われる漢字の習得が順調に進み、漢文で意思疎通ができるようになったことを意味しているようです。
したがって、本ブログの「漢字の音訳が意味するもの」でご紹介した、水(sui)を「すゐ」(suwi)、類(rui)を「るゐ」(ruwi)などと音訳する作業は、この間に行なわれていたと思われます。
最後に、履中天皇の四年(西暦435年頃か?)に、はじめて諸国に国史(ふみひと)を置いたことが日本紀に書かれているので、この時期には漢字の読み書きができる人が増えて、地方の記録も作成されるようになったようです。
このことは、本ブログの「稲荷山古墳の鉄剣」でご紹介した、西暦471年に制作されたと考えられる埼玉県出土の鉄剣に、115文字の漢字が刻まれていたことと整合がとれるようです。
次回も年代推定の続きです。
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