日差しが痛いほど強い7月14日巴里祭の日に鑑賞しました。
芸大美術館のなかの3階ワンフロアに84点の作品がコンスタントに並び、ぐるりと一周するとシャルフベックの生涯の作品を一気に鑑賞でき、見やすかったのでもう1周して鑑賞しました。
ヘレン・シャルフベック(1862~1946年)はフィンランドの国民的画家だそうです。
私は初めて知った画家でした。美しい色彩を持ち、女性らしい感性を持ちながらも、女の情念をことさらに強調した作風には流れない。対象を客観視する冷静さと均衡を保ち、しかも卓越した技術を持った画家でした。
3歳の時に階段から転落して腰を痛め、そのために杖を突いて歩かなければならないことになり、学校に通えなかったそうです。かけっこしたり、スキップしたりできないのは子供にどんなに悲しく残念だったでしょう。学校に通えなかったことも。そのためか写真で伺うヘレン・シャルフベックさんは内向的な雰囲気を持った女性に感じられました。
一方、子供って時に残酷だから日々の生活に杖を必要とする彼女には、学校に通えなかったから救われた部分もあったかもしれません。彼女の天性の素質が順調に開花され早くから絵の才能を発揮し、その技術の高さは10代の作品から見られます。
11歳のときフィンランド芸術協会で素描を学ぶことが許され、18歳で描いた「雪の中の負傷兵」でパリ留学の奨学金を支給されます。
「雪の中の負傷兵」1880年
パリと言っても当時男尊女卑の風潮で女子が学べる学校は限られていたそうで、女性画学生に門戸を開いていた先進的なアカデミー・コラロッシで絵を学んでます。
「妹に食事を与える少年」1881年
友人とフランスの田舎ポン・タヴェンに滞在して描いた作品です。貧しさをそのまま描写するレアリズム絵画
シャルフベックのまだ10代の作品ですが、すでに画力は高く、顔と目鼻立ちをはっきり大きく描いているのが印象深い。人間が好きで興味が尽きないのだろうなと思いました。
古典作品の模写がまた凄い。北方ルネッサンス時代の大画家ホルバインやバロックの画家フランス・ハルスの模写は緻密で正確に模写をしています。ルネッサンスやバロックの画法にも精通していることがわかります。
そのころイギリス人風景画家と恋をして婚約をしたそうです。
「洗濯干し」1883年
実際の絵の色は緑色がもっと鮮やかで画面から瑞々しさを感じます。草の上に干された白い布はうっすらと紅色に反射している。萌えいずる青春の時。
「扉」1884年
教会の内側から閉められた扉を書いてますが光が隙間から漏れていて壁に諧調を作ってます。その微妙な美しさ。
けれど、そのイギリス人画家は手紙1つで一方的に婚約を破棄したそうです。どういう事情があったのかわからないですが・・・・。結婚を夢見て幸せを願ってたシャルフベックには辛い現実です。
画家同志が夫婦になった時、他の例を見ると、より才能のある方に片方が吸収されてしまう事が多いように感じます。
同じ時代、イギリス人の風景画家は有名になってません。
才能という点では彼女は高みを持っているので、結婚がもしされていても男尊女卑の時代にお互いに辛くなってしまったかもしれません。家庭を支えるために画家である自分の本業をおさえてしまったかもしれません。
画家としては成長をとげていきます。絵に深みが増しているように感じられました。
「少女の頭部」1886年
小さな作品ですが、少女の澄んだ瞳が美しく印象的。
「子共を抱く女性」1887年
違う絵の下に描かれて最近発見した作品だそうです。母親のうなじの向こうから覗く赤ちゃんの目。
やはりこの絵も目が印象的。
他にも女性らしい色合いで描かれた花の絵も良かったです。
「日本の花瓶に入ったスミレ」1890年
花の描写が見事。
「恢復期」1888年
病気から快復し始めた小さな女の子の華奢な様子、だけど目には光を宿らせて、葉を萌らせてる小さな枝と共に小さきものの生命力の強さを感じさせます。また少女の服、クッション、そして特にラタンの椅子の描写が見事。1889年のパリ万博で銅メダルを獲得し、所蔵する国立アテネウム美術館の、そしてフィンランドの大切な作品となっているそうです。
その後フィンランドに戻ったシャルフベックはフィンランド芸術協会の素描学校の講師となるも病弱のため退職し、1902年ヒュヴィンカーに移り母と二人で田舎暮らしをします。
でもパリやロンドンのモード雑誌を定期購読し最新のアートの動向を知り、身近な人をモデルに人物画を描き、少しずつ形が単純化されます。
「お針子(働く女性)」1905年
当時一世を風靡してたホイッスラーの影響を感じる作品。
他にも樵の少年の絵など、魅力的な作品がいろいろありました。
1913年には画商のヨースタ・ステンマンと知り合い生涯の支援者に。ステンマン氏は良い方だったようで最後まで彼女の身を案じてたようでした
「黒い背景の自画像」1915年
フィンランド芸術協会は1914年に自国を代表する10人の芸術家に理事会室を飾る肖像画を依頼し描かれた作品。表情に自信が観られ、画家としても脂がのっている時期。
この年、エイネル・ロイターという19歳年下の森林保護官で画家でシャルフベックの絵のファンの青年が訪ねてきます。この青年、写真で見たらかなりハンサムなんです。意気投合し、芸術家である彼女に賛辞を贈る好青年に恋心を持ってしまうのは仕方ない事だと思います。出会ったとき彼女は53歳でした。
だけど、ロイターは4年後若い女性と婚約してしまいます。それもシャルフベックが勧めたノルウエー旅行で知り合った女性と。
これがどんなに彼女に深いダメージを与えたか。ロイターも多分シャルフベックの気持ちは知っていたと思うので、罪深い。
「エイネル・ロイターⅢ」1919~1920年
「未完成の自画像」1921年
自画像を描きつつ・・心が追い詰められたのでしょう、特に目にパレットナイフで傷を入れてます。
1915年ではあんなに颯爽とした自画像を描いたのに・・・
彼女にとって恋は心を混乱させるダメージでしかなかったのか・・・それでも心弾む時期もあったでしょう。
苦しくとも描くことをやめないシャルフベックの芯の強さをむしろ感じます。
それでも二人は彼女が死ぬまで友人でい続けたのは、ロイターなりのやさしさなのでしょう。二人の間には書簡が行きかいます。
もし、二人の年齢が近かったら、もしくは年齢差が逆転してたら恋は成就したのであろうか。その前に、彼女はときめいていたのだろうか。
ロイターはシャルフベックとの手紙のやり取りや交友の思い出を元に彼女の死後、ヘイッキ・アハテラというペンネームで伝記を3冊書きます。
それもなんだかなあと思うんです。彼女のナーバスな心の内を内輪の人間がさらけ出してる気がして。違う女性を好きになるのは仕方がないとはいえ、彼女を心臓に支障が起きて入院してしまうまで追いつめてしまった張本人だしなあ。
それで尊敬する人を深く傷つけたなら、そっとして、さらけ出さない礼儀をもつべきだと思うのです。シャルフベックもきっと私生活の話など公表されたくなかったと思います。
なのに、
顏を傷つけた自画像を描いた時の気持ちを手紙にしてロイターに送った文章が今回の展覧会で絵の傍の説明に書かれてあったけど、この文章が公になってるということは受け取ったロイターが公表したという事ですよね・・・。
作品を整理してカタログを作成したのもロイターだそうで、彼は貢献してると思います。でも、それ以上に自分がシャルフベックの画業に影響を及ぼしたのを知らしめたかったのかな・・・
そうやって考えると、ロイターの人生はシャルフベックに捧げられているとも考えられる・・・。やはりより大きな才能に吸収されているのだともいえる・・・。
モード雑誌に載ったモデルやイラストからヒントを得た作品
「諸島から来た女性」1929年
蔵書に載ってたエル・グレコの写真を見せたのはロイターだそうで(やはりそうか)、そこからエル・グレコの作品をアレンジして作品を生み出してます
「天使断片(エル・グレコによる)」1928年
当時エル・グレコはセザンヌやピカソなどにより再評価されてきた画家だったそうです
そして、画商のヨースタ・ステンマンの提案で過去の作品をもう一度再構成して描く試みもしてます。と言っても過去の模倣ではなく風景画や人物画がよりシンプルな絵になっていきます。
そして最晩年80代になったシャルフベックはステンマンの勧めに従いスウェーデン、サルトショーバーデンの療養ホテルに滞在し、セザンヌを思い起こす静物画と老いて死に近づく自画像を描き続けます。
「黒いりんごのある静物」1944年
部屋の中で静かに腐敗していくりんご
「自画像、光と影」1945年
少しずつ存在が透明になっていく・・・
シャルフベックは1946年に亡くなります。
映画で一人の女性の一代記を鑑賞したような気持ちになりました。
悲しい恋も作品に昇華されていく強さと才能をすごいと思いました。
日本にも国民的画家と呼ばれる女性がいるかしらと、思ったらふっと上村松園さんの名前が浮かびました。
どちらも卓越した技術と透徹した画家の姿勢を持った女流という括りには入りきれない、素晴らしい画家でありますね。
関係ない追記
今日7月17日はblogを始めて1111日目でした。
ゾロ目の日なので記念に書いておきます(^_-)-☆
読んでくださりありがとうございます
シャルフベックは私も初めて知った画家でした。なにか惹かれるものを感じましたので、是非鑑賞してレポを書きたいと思ってました。
作品は他にもいい味わいのものが多く、古典の模写も巧みでたくさん載せれないのが残念です
いつか、シャルフベックの作品に会ったときに再会した気分になってくださったら嬉しいです♪
19歳年下男め!(爆)
そーなんです。
芸術家として尊敬してるから自分だけが知ってる事を後世に残そうという気持ちはわからなくはない。そして多分自分もシャルフベックの芸術活動に貢献した事を知らせたい気持ちもあったのでしょう。
伝記を書くと必ず二人の事を書かなくてはならないじゃないですか。それがいい関係が長く続いてたら書いてもいいと思うけど。彼女の気持ちを知りつつ別の人と婚約してあんなに苦しめた人が書いていいものか。まるで第三者が書いたように名前を変えて出版するのもねえ。
イギリス人画家と言い、ほんとにもう・・・。
きっと心の中が大変で辛い日々が多かったと思います。それでもゆるぎない才能と制作意欲を持ったシャルフベックさんは素晴らしいですね!
女性としても素敵な人だと思いました。
そしてぞろ目記念日オメコメをありがとうございます☆。はい!2222日目指してマイペースで続けてゆきたいと思います(*^^*)
1111日目、ぞろ目記念日、おめでとでした(笑)
次の2222日目も、ぎゃんばってね(爆)
で!この画家さん、知りませんでした^^;
毎度丁寧なぶるーさんの解説で、なんだか、
前から知ってたような気になりました(笑)
19歳年下男め!(爆)
婚約破棄も辛いし。。。男運は悪かったのね;;
彼女の画家としての素晴らしい才能を、男なんかに吸い取られなくてよかったわ(笑)