日本と韓国の美しい半跏思惟像が6月21日から7月10日まで3週間、東京国立博物館の本館でお顔を向かわせて展示されてます。通常は月曜は休館日ですが、6月27日と7月4日は本館だけ特別開館されていました。それは展示する期間が短いので混雑するのを緩和するために開館したのだと理解しました。
私も6月27日に鑑賞に参りました。いつも期間終わり近くだと混むし、月曜日なら他の曜日よりきっと鑑賞する人も少なく並ばずにゆっくりお会いできると思って。
展覧会にはスムースに入場できました。会場内は人が多かったですが、混んでるというほどではなくゆっくり鑑賞できました。
半跏思惟像はガンダーラ仏でも中国の仏像でも存在しますが、釈迦菩薩(如来になる前のシッダールタ)や観音菩薩として作られているそうです。弥勒菩薩の半跏思惟像は朝鮮半島の三国時代(6~7世紀は高句麗、百済、新羅の三国時代に当たる)で始まり、日本に伝来しました。つまりは弥勒菩薩の半跏思惟像は朝鮮半島と日本しか存在してないと、以前書籍で読みました。
椅子に座り、片足だけ胡坐をして右手の指先をそっと頬に寄せる姿はほっそりとしなやかで美しい。
そのしなやかな美しい佇まいには朝鮮三国時代の青春の薫りを携えているんです。
弥勒菩薩は釈迦牟尼の入滅後56億7千万年後に救済に現れるという、未来仏。
紀元前5世紀に実在した人物でティシャ・マイトレーヤという名で、バラモン階級の子息で、大変な美少年で優秀な人物だったそうです。
6世紀頃、百済や新羅には見目麗しい10代の貴族の子息を集めた軍隊「花郎」が組まれたそうで、凛々しく勇敢で民衆からも愛されおおいに活躍したそうです。そしていつしか、弥勒菩薩とイメージを重ね合わせていったそうです。
やがて本来は釈迦菩薩の姿勢であった人々の救済を思う半跏思惟像の若々しく優美な姿は、弥勒菩薩の姿勢となり信仰されるようになったそうです。
そのエピソードを知ってから、半跏思惟像の弥勒菩薩様が更に魅力を感じ萌えるのです。
はい。ミーハーなんです(*´ω`*)
その美しい半跏思惟像が、日本は中宮寺門跡蔵から韓国は韓国国立中央美術館からお出ましになって対面されるなんて、日本のスターと韓流のスターが共演されるように思えてときめきました✨2躯のみの展示ですが、お会いしたく参上しました。そして本当に見応えのある美しいお二人でした。
まずは早く造られた韓国の弥勒薩様から
韓国国宝78号 弥勒菩薩 半跏思惟像 三国時代・6世紀 韓国国立中央博物館蔵
銅で造り金でメッキをした金銅仏です。金銅仏としては大きいのですが、足元から高さ83.2cmと小柄なお姿です。表面に金メッキがうっすらと残ってました、その鋳造技術はかなり高度で複雑な形ながら厚さ5mmに均等に鋳造されてます。表面も滑らかですべすべして見えます。そして弥勒菩薩さまの座っている台座は足元のところでは透かし彫りの様になっていて、まるで藤の椅子に座ってるように見えて銅像の向こうの壁が見えるのです。滑らかな曲線で衣服の襞、そして尖がった形で肩に布がかかってます。
お顔はすっと鼻筋がとおっていて端正。薄い唇は柔らかくカーブして微笑んでいて、それによって頬が少し盛り上がってます。お体もほっそりして少年の面影を感じます。豪華な冠をつけてますが、リボンのような布で頭に固定させているのかな。
指を軽くあてているお顔のアップも載せます
日本のもう一つの半跏思惟像、京都の広隆寺の弥勒菩薩様は同じく6世紀に朝鮮半島で造られ、日本に来られたと聞いてますが、やはりかんばせが似てらっしゃると思いました。
眼がきりっと切れ長で下瞼をくっきりと刻んでます。
次に日本の弥勒菩薩さま
ーーーー訂正があります。パンフレットを読んでみたら、中宮寺の半跏思惟像は如意輪観音菩薩様として信仰されているそうです。が、弥勒菩薩様として造られた可能性もあると書かれてました(7/9)。
国宝 如意輪観音菩薩 半跏思惟像 飛鳥時代・7世紀 奈良・中宮寺門跡蔵
楠(クスノキ)を彫って接ぎ木をして造られてます。楠は当時神木と言われていたのだそうです。お体全体に黒い漆を塗って、制作当時は更に肌色などの色を塗り、アクセサリーを体に纏わせていたそうです。長い年月が過ぎて彩色がとれてしまい、アクセサリーも外れてしまい、黒漆の姿になっていったそうです。でも、むしろそのほうがこの半跏思惟像の本来の美しさを引き出しているように思えます。
穏やかなほほえみを讃えたお顔はどこか女性的で包み込むようなやさしさを感じます。聖徳太子の母堂のお顔に似せて彫られたという伝承も納得です。
下瞼をはっきりとは彫らないでいるので、むしろ目に奥行が感じられ、反射した頬が白く光るので涙を流しているようにも見えました。
頭のてっぺんのお団子ヘアかわゆいね。
こちらも指をあてているお顔のアップを載せます
こうやって一緒に鑑賞して見ると、韓国の仏様のお顔はやはり韓国人のお顔に、日本の仏様のお顔もやはり日本人っぽいお顔になってます。
今回の展覧会はまず先に韓国で開催されたそうです。小規模ですが、古代仏教彫刻の屈指の名作同志の邂逅は感動的でした。お互い多くの困難を潜り抜けて生き残った仏様、それは信仰し愛情を持った人々が必死で守り抜いたからこその存在であるし、また仏様を守る事で周りの関係者の心の支えにもなったのだと思いました。
・・・そうやって思うと、アフガニスタンの秘宝にもつながる思いがあるなあ・・・。
パンフレットが2種類販売されてました。1000円の冊子と300円の冊子です。1000円の方は半跏思惟像の写真と詳しい学術的な説明も書かれているようでした。私は300円の冊子を購入しました。こちらも写真が充実して良かったですよ♪
その日は法隆寺宝物館も東洋館も開館されてなかったので、それぞれの建物の中で展示されている小さな金銅仏の半跏思惟像を鑑賞することはできませんでした。以前お会いしたことはありますが、また次の機会にお会いしに行こうと思います。
そしてせっかく本館が開いているし、いつもは企画展を鑑賞するだけでいっぱいで見れないでいた所蔵作品も鑑賞しました。
本館の所蔵展示にはやはり7月10日までイタリアから来た日本の少年の絵が展示されてます。
2階へは正面の階段からでも上がれますが、エレベーターでも上がれます。所蔵作品は写真を撮っても良い作品(フラッシュ不可)と撮影禁止の作品があります。古代日本の展示から始まり、物々しい鎧兜や名刀の展示室の次にある第7室に行きました。
こちらの作品も日伊国交樹立150周年を記念してイタリアはミラノから来日しました。2014年に確認され今回世界初展示となります。
伊東マンショの肖像 ドメニコ・ティントレット筆 1585年
この絵は本当は大きな群像作品になる予定でしたが、中止になったそうです。ヴェネツィアの大画家ヤコポ・ティントレットが手掛けた下絵を彼の死後息子のドメニコ・ティントレットが完成したのがこの作品。肩から下の服は太い筆で簡単に描かれてるけど、お顔と襞襟は完成されて描かれてます。
伊東マンショは祖父は城主でしたが戦乱の世で城を追われ、父と死別し、母とも生き別れ寺に預けられたそうです。孤独な少年はキリスト教に出会い洗礼を受けマンショという洗礼名を頂いたそうです。日本のキリシタン大名の名代として13歳くらいの少年たち4人の天正遣欧使節団のリーダーとなってイタリアに向かい法王に謁見、イタリア。スペイン、ポルトガルの王様にもお会いしたそうです。絵が描かれた時マンショは16歳なのだそうですが、年齢より大人っぽく見えます。きっと利発なしっかりした少年だったのでしょう。
それにしてもヨーロッパの法王庁や宮殿で暮らす人々が日本の暮らしからは想像を超える豪華さで驚いたでしょうね。西洋文明の凄みを肌で感じて圧倒され、更にキリスト教への畏敬の念を強くしたのではないかと想像します。
8年後大人になって帰国した彼らはいろいろ困難な人生が待ち受けていましたが、信長、秀吉、家康も経験し得なかった世界を経験した稀有な存在。日本ではその後忘れられていたそうですが、イタリアでしっかりと記録に残って絵にもなっていました。
日本とイタリアの国交の最初に貢献した少年になったのですねえ。
展示された室内には自由に持ち帰って良いリーフレットが置かれてましたので私も一部を頂きました。
半跏思惟像のパンフレットと伊東マンショ君のリーフレット
2階の展示室は人も少なくゆっくりと鑑賞できました。充実の1日でした☆