第7部を始める前に
関羽の樊城攻撃の敗戦でも生き残った馬良は、第7部では現れません。史実では夷陵の戦いで敗走中に呉軍に殺されたそうです。「演義」では夷陵の戦いからほどなくして亡くなったとなっているそうです。ドラマを見ていると、馬良の意見はいつも的を得ていたのに、主である関羽や劉備が聞こうとしなかったために敗戦に追い込まれてました。そして、孔明に布陣図を見せに行き、顔色を変えた孔明に急いで主君を助けに行くように命令され急ぎ戻って、本人は命を終えてしまった。「白眉」と言われる存在なのに、せっかくの才知を十分に発揮できなかった不運な人のように思えました。222年、享年35歳
劉備は関羽と張飛をを亡くした後に、傲慢さや短気さが際立ってしまいました。劉備の本来の気性を関羽と張飛がさらに強く持っていたから、対比として落ち着いた仁徳の人としてふるまえたのだろうなあ。やはり三人で一人の劉備なんでしょう。劉備が「仁徳」の人と自認していると、どうしてもそうでない部分が余計目立って見えてしまい、なんだ結構ずるい人間じゃない、なんて思ったことも何度もありましたが・・・。あれだけ気位の高い関羽や気の荒い張飛が従い、趙雲も心酔し、孔明が尽くした劉備はやはり人を引き付ける魅力をとても持っていた人でしょう。貧しい身の上から漢室再興の志を掲げ、天下統一という壮大な夢をもち、劉備の夢に共鳴した人たちがすすんで協力し、三国鼎立ながら皇帝まで上り詰める類まれな実現力を持った人ですもんね!
そして魏の中で司馬懿仲達の活躍を邪魔をする人物として印象に残る曹休と曹真のドラマの中でのこれまでの戦歴を簡単に覚書として記したいと思います。
222年、夷陵の戦いで敗走する蜀軍を呉軍が追撃する背後から攻めるため、大将軍の曹仁のもと、左将軍を曹休、右将軍を曹真が任務し合計20万の兵で攻撃→孫権や陸遜に打ち負かされ失敗
223年、劉備が崩御し、2代目皇帝劉禅が即位して間もない蜀を攻撃。その際呉と同盟を結ぶよう働きかけ、合計5路から一斉に攻撃、一番重要な第5路の大都督に曹真が任務→孔明の采配で魏の攻撃を打ち砕き、呉は馬謖の説得で魏との同盟を拒否、失敗
224年、その蜀への攻撃が失敗したのは、呉の裏切りのせいと今度は水軍を養成して曹丕自らが総指揮をしてやはり曹真、曹休を従えて呉を攻撃→呉と蜀の連合軍に惨敗。呉の水軍が最強なのは赤壁の戦いでもわかっていたのに・・・
曹休、曹真の指揮する軍隊は負けが続く。
これからドラマは魏と蜀の戦いに焦点が絞られていきます。
227年、国力を回復させて蜀の南方異民族も制圧した孔明は二代皇帝劉禅に「出師の表」を奉呈。「危急存亡の秋(とき)」は出師の表の一文。「北伐」と称し魏に侵攻します。
第7部も前半、後半に分けて書きたいと思います。
北伐を出発した孔明の軍の道中に孫権から酒と駿馬が用意され進呈されていた。が、孔明は孫権が常に蜀を監視していることと察し警戒。
魏延は足場が悪く危険も多いが最短の子午谷(しごこく)の道で長安を速攻で攻める作戦を提案し自分が精鋭兵を引き連れて進撃すると進言するも孔明は危険を伴うと却下、趙雲が率いる囮の軍隊を先陣隊として目立つ斜谷(しゃこく)の道に行かせて魏の軍隊に注目させ。本隊をかなり遠回りしながらも確実に進行できる祁󠄀山(きざん)を通る行程を選択。不満そうな魏延に馬謖はなだめる
「魏延、考えても見よ。丞相は危険を冒さぬから負けを知らぬ。」
孔明の率いる本隊の進行先の雍涼(ようりょう)には司馬懿が大都督となって赴任している。司馬懿は孔明が遠回りして雍涼を攻めることも予想して、皇帝に上奏し審議を待つと間に合わないため一存で兵を集め軍事訓令をしていた。
孔明は曹一族と司馬懿が対立していることを利用し離間の計を計り、司馬懿に謀反の気持ちありと魏の都洛陽に情報を流す。皇帝の曹叡は信じようとしなかったが、曹休は謀反に違いないと進言。司馬懿は厳しく追及され、これまでの功績を鑑みて死罪は免れたが、すべての役職を解かれる。
司馬懿さえいなくなれば他の武将は孔明の敵ではない。魏軍の平西大都督の夏侯楙(かこうぼう)は生け捕りにされ、城は次々に陥落。雍涼は曹休が代わりに大都督に赴任していたが逃げ出してしまった。
この時、魏の武将の姜維は蜀に降り、守っていた天水地域は陥落した。蜀軍は長安までせまってきていた。
新たに曹真を大都督に、魏の丞相の王朗が直々に軍師となり20万の兵を率いて孔明率いる蜀軍と対峙する。王朗は孔明に舌戦を仕掛ける。
得意げに見下すように延々と語るのは・・・
漢王朝も末期には世が乱れ乱や奸賊がのさばり万民が苦しんでいたのを武皇帝(曹操)が治め万民を救った。徳のあるものが天命を受けて国を治め、その意志を受け継いだ文帝(曹丕)が帝位についた。なぜ天命に逆らうのか、逆らう者は滅びると力説。更に魏軍の軍事力をかなりオーバーに言って勝ち目がないぞと脅す。
孔明は一笑。もとは漢王室に仕え恩を受けた身なのに、漢王室を立て直そうと考えもせず、己の出世欲しさに漢賊に手を貸した小狡い者が陣頭で天命を語るとは笑止千万。「白髪頭の匹夫よ、白髭の賊め」お前など兵が汚れると罵る。その結果
ブブッ
心の片隅に潜んでいた咎を見事に突かれ、これ以上ない侮辱を受け、王朗死す。孔明と口喧嘩してはいけません、理屈で殺されます(@_@;)。大将の曹真は恐れをなし、魏軍はまたも大敗北。
勝利した蜀軍では魏から投降した姜維がすでに作戦会議に参加。姜維は孔明が蜀軍に入れたくて離間の計を用いて投降させた武将だそうです。
さらに、蜀の重臣で北伐に反対していた李厳の息子の李豊が急ぎ伝令に来る。嫌な予感がした孔明だが、伝令は李厳の説得で、魏に降下した孟達が蜀に寝返ることを申し出たという朗報だった。蜀漢の統一は近い!
一方魏の洛陽は蜀軍が攻めてくることに緊張が高まっていた。天子曹叡に仕える鍾太傅は一族の命を差し出し推挙したい人物がいるという。
蟄居している草庵で琴を弾く司馬懿。孔明といい、周瑜といい、琴は才知ある人のたしなみのようです。
司馬懿は再び驃騎大将軍に任命される。息子司馬昭と赴任し、続々と司馬懿の元に軍が集まる中、司馬懿の友人の申儀が魏への忠誠を確かめた上で孟達が蜀に寝返った情報を伝える。司馬懿は早速孟達を討ち取り、曹叡に首級を献上。曹叡は喜び司馬懿に洛陽と長安の軍権を預け天子への上奏なしでも軍を動かす権利を与える。曹叡に侍っていた曹休と曹真は面白くない表情をする。
司馬懿は魏の将軍たちと軍議をする。これまで魏は敗戦が続き、残っているのは17の城のみ。宮中も民も動揺している。が、蜀軍も兵士を失い時間がたち疲弊し兵糧も少なくなっているはず。今や魏軍の方が有利になっている、司馬懿はしゃがれた笑いをする。
「私が孔明なら子午谷を通り長安を取る。」おお、魏延が提案した道だ(゚Д゚;)
「だが諸葛亮は用心深過ぎる。」孔明は遠回りでも確実に攻め落とせる行路を取ると判断し、兵糧調達の重要経路である街亭の地に張郃(ちょうこう)を大将とした魏軍を進軍させる。
魏軍の街亭への進軍に気づいた孔明に、馬謖は参軍になって対戦することを熱望。孔明は一瞬戸惑う。が、趙雲の勧めもあって参軍に任命、堅実な王平を副将に任命して街亭の五叉路で待ち構え魏軍の行く手を1か月間足止めさせろと命令。心配な孔明は更に高翔を街亭付近に陣を布いていざというときの援軍を命じ、魏延にさらに街亭を突破されたときのために漢中の入り口の陽平関を守らせる。それだけ街亭は蜀にとっての重要拠点。
馬謖は初めての大軍の指揮。なのに、孔明以上の策を持って一気に敵を討とうとして、山の上に陣を構えよと命令する。驚いた王平は孔明の命令と違う事、登ろうとするのは弧山なので四方を敵に囲まれると退路が絶たれると訴えるが、、馬謖は得意げに孫子の兵法を引き合いにし、自分は孔明に評価されているとも言って、実戦経験の多い王平に見下すように言って耳を貸そうとしない。王平は仕方なく5千の兵を引き連れて山のふもとに陣地を取る了承を求めると、馬謖はその代り魏軍を破っても手柄は私のものだと言い渡す。
孔明の前だと見せない傲慢さが馬謖に現れ、王平は静かに怒りの感情を押し殺す。
馬謖の陣を偵察した司馬懿は馬謖の浅はかさを見抜き。山を包囲し水路を絶たせる。
孔明の元に王平から布陣図が届けられ、それを見た孔明は激怒する。馬謖の独断で街亭は敗北が決定されてしまった。孔明は姜維に伝令を命令し、街亭の次に攻撃される楊平関を守る魏延の軍に援軍を送り、また撤退の道筋を確保、先陣隊の趙雲軍の即時撤退を命じる。馬謖に大事を任せるなという劉備の忠告を守らなかった事を悔いる。
馬謖軍の兵は脱水症状でふらふらになり倒れる兵士が続出。馬謖は倒れた兵士に腹を立て怒鳴り蹴とばし、どうしてこうなったと部下に聞き水路を絶たれたことにやっと気づく。多分少ない水は優先的に位の高い武将が飲むから、事態の深刻さをぎりぎりまで気づかなかったのでしょう。ここまで気づかなかったこと自体が将としてどうかと思いますが。戦う力を失った馬謖軍に魏軍が一気に攻撃をかけてくる。
司馬懿の軍はさらに陽平関と趙雲の軍を襲う。孔明の読みの通りだった。孔明のいる本陣には武装兵300人と老幼兵2000人が残るのみ。街亭の陥落で兵糧の補給が絶たれたため兵糧を蓄えている小さな西城(せいじょう)に移る。
その西城に司馬懿の大軍が現れる。西城の中で今戦える兵は1000人も満たない。もう逃げることもできない。
孔明は門を開けさせ平静を装い城門の上に上がり琴を弾き始める。
魏軍の先頭では、司馬懿が聞き入る。彼も琴をたしなんでますからね。
聞き入っていた司馬懿は孔明の罠だと思い、伏兵を恐れ全軍撤退を命令する。
ひたすら琴を弾く孔明に姜維が司馬懿の軍が撤退したと知らせる。その直後、弦の一本がピンッと切れる。孔明の演奏が乱れていたら、弦が切れるのがもう少し早かったなら、攻撃され確実に命を奪われ、さらには漢中に侵攻され蜀の国が危なかった。孔明は蒼ざめながら
「天は我を助け給うた」とつぶやく。孔明は危ない橋を渡らない慎重な性格と理解する司馬懿だから、司馬懿が人一倍用心深い人物だというのを孔明は理解していたから、空城の計で幻惑することができた。
「私と司馬懿は、まさに知友のようだ」そう言って涙を流す。
撤退した司馬懿は後から孔明の策略と知りつぶやく「諸葛亮は神のごとき策略家だ。わしは奴にかなわぬ。なぜ天は私を助けぬ?」
孔明の読みの通り、陽平関に魏軍が攻撃したが魏延と援軍で討ち取り、魏の徐晃将軍は戦死。魏延は誇らしげであった。
そこへ先陣隊の大将だった趙雲が帰還する。部下の将軍は報告する。撤退時、部下に先導させ、自らは殿(しんがり)で魏の武将を倒し追撃されないようにして、兵も武器も無傷で帰還させた。孔明は趙雲の殊勲に喜び、褒賞を与えようとするが、軍が負けているときの褒賞は賞罰がつかないと辞退。孔明は感嘆し
「忠勇であるだけでなく志も天を突くほど気高い。」と賞賛。自分の武功がかすんでしまった魏延は複雑な表情になる。
老将軍となった趙雲。自ら危険を冒して部下を助ける気概を持ち続けている。
そして馬謖と王平が帰還する。孔明はまず副将の王平に問いただす。王平は馬謖の独断を反対したが聞こうとせず、麓に陣を布いた五千の兵では守り切れなかった事実を伝える。
馬謖は自らを縄で縛らせ孔明の前に現れる。孔明は馬謖の慢心のせいで重要拠点の街亭を失い、蜀軍を危機に陥れたと激しく怒る。趙雲はこれまでの功を考えて死罪を免じてこれからの功で罪を償わせてやって欲しいと嘆願。魏延も嘆願。ほかの武将も嘆願したが、目の前で傲慢さを見た王平は賞罰をはっきりするべきと意見を述べる。馬謖は涙ながらに
「私は戦死した2万の兵に顔向けができません。1万回死んでも償いきれる罪ではありません。軍法に則って私を死刑にし軍規を正してください」そういって頓首する。
弱った兵を蹴とばしていた傲慢さがなくなってる。これまで孔明の有能な助手として傍にいて、理論と実戦の隔たりを理解できず、自分を過大評価してしまった。もし、これまでに実戦で小さな失敗を起こしていたら、そこで本当の実力を思い知り、失敗から学び成長して、後に彼なりの貢献ができたかもしれないね。でもあまりにも代償が大きすぎて取り返しがつかなくなってしまった。
孔明は剣の形をした木の札を取り上げ涙し、床に投げつける。それが死刑を意味するようです。馬謖は感謝し来世で恩に報いますと言い、
孔明はうなずく。
泣いて馬謖を斬る・・孔明にとって馬謖は愛弟子であり、軍の中で誰にも見せない本心を打ち明けれた存在。
牛の刻(正午)刑場に向かう馬謖に魏延は酒をふるまう。魏延と馬謖はともに荊州出身だもんね、気心の知れた同胞だったようです。馬謖は受け取り飲んで笑顔で蜀軍の北伐の成功をあの世で祝いたいと言い、孔明のいる本幕に向かい拱手して「丞相、お暇を頂きます!」そして刑場でひざまずく。魏延は後ろを向いて、刑の号令をかける。228年、38歳でした。
平静を装う魏延も泣いていた。
蜀に戻った孔明は自らも降格を上奏し、右将軍になるが役職をそのまま遂行する。
一方司馬懿は街亭での勝利を魏皇帝曹叡に評価されながらも、西城で撤退したのは自分の保身のため、さらに帝位を狙う心ありと百官から上奏が来たと言われる(多分曹休、曹真あたりからでは)。驚き悶絶しながら司馬懿は無実を訴える。曹叡は司馬懿を信じると言いながら、糾弾の書状のこともあり西城で取り逃がした罪として軍権を取り上げ洛陽で蟄居を命じる。
魏を救ったのに軍に邸宅を取り囲まれ監視され軟禁状態になり、息子の司馬昭は怒りを抑えきれない。 皇帝を暗愚だと叫ぶ司馬昭を司馬懿は殴り黙らせる。
「耐えるのだ!また朝廷が我らを求める日が来る」
その日はすぐに来る。魏の曹休が陸遜率いる呉との戦いで偽投降の策にはまり石亭の戦いで大敗北となり、それがもとで病死。そして蜀が軍備増強しているという情報が入り魏は緊急事態になる。曹叡は司馬懿を御座所のすぐそばまで玉車に乗せるという破格の待遇で呼び寄せる。今後の対策を早急に決めなくてはいけない。司馬懿以外に対策を検討できる人材がいないんだね。
司馬懿は老けこんで杖を突き、宮廷の壮年の宦官に支えてもらいながら苦しそうに階段を上って参内。曹叡に的確な献策をする。曹叡は司馬懿を大都督にしたかったが、司馬懿は病気を理由に辞退。曹真が大都督になるのを勧めるが、曹叡も曹真では勝てないのがわかる。それならば司馬懿の代わりになる人材をと曹叡は強く求め、司馬懿は渋りつつも部下の郝昭(かくしょう)を推薦する。
司馬懿はわかっていた、司馬懿が大都督になっても曹真がその上の大将軍になる。手柄は曹真のものになり、失敗は司馬懿に背負わせられる。もちろん仮病であった(肺病で喀血していると言ってたけど、それは曹丕の病気を参考にしたのかな)。
蜀では、
順調に軍の増強がされ、農産物も豊作。李厳は予定量を超えた分は北伐の為の軍の兵糧へと蓄えてくれた。
孔明が「後 出師の表」をしたためているときに今や腹心となった姜維から趙雲の病死を知らされる。孔明は驚き筆を落とし「我が右腕を失った」と涙をあふれさせ、趙雲が最後まで北伐の意欲を持っていた聞き、崩れおち泣く。
趙雲は、三国志演義やドラマの中で際立った存在の武将。劉備は関羽、張飛に次ぐ四弟と呼び信頼し、曹操が「何故自軍には趙雲のような武将がいないのだ」と悔しがったという。思いやりをもっていて、長坂坡の戦では、一人で甘夫人と阿斗を探し出し死闘の末救ったエピソードは三国志のなかでもとても印象深く感動的でした。赤壁の戦の時、江東の地で東南の風を起こした孔明が命の危険を感じ劉備軍のいる江夏に逃げる時には、小舟を漕いで三日間川辺で待っていてくれた。劉備が孫小妹と結婚するため江東に旅立つ時も、趙雲が護衛について行って守り通し無事帰還できた。劉備が皇帝になって「呉を討つ」と表明した時は、「大儀が違う」と最初に異を唱え、孔明と二人して反対した。
勇猛なだけでなく冷静で堅実で、劉備軍で孔明が関羽や張飛との軋轢があったときも趙雲は孔明の味方でいて、孔明の意図をきちんと理解して確実に遂行してくれた武将。孔明よりも年上だけど、軍師に常に敬意を持ち、お互いに深い信頼を持っていた。孔明にとって心の支えのような存在で失う悲しみはどんなに深いものだっただろう。
史実でも背が高く美丈夫だったそうで、さらに民間伝承では白竜という名の白馬に乗っていたとされているそうです。映画「レッドクリフ」で趙雲は自分の馬を「バイロン(白竜)」と呼んでいましたね。このドラマでは名前はわからなかったけれどやはり白馬で、長坂坡では危機一髪で趙雲と阿斗の命を救ってました。私にとって白馬の剣士趙雲は西洋のアーサー王伝説の騎士ラーンスロットに匹敵、いやそれ以上の存在です。演じた聶遠(ニエ・ユエン)はまさに趙雲そのもの!この人の演じる姿がすっかり趙雲のイメージになりました。
229年。生年が不明なので年齢がわからないのですが、208年の赤壁の戦の時、40歳くらいだったそうなので還暦すぎだったと思います。
孔明は劉禅に「後 出師の表」を進呈。劉禅は「怒らないで欲しい」といいつつ、魏は攻めてきてないのに、何故こちらから戦争を仕掛けるのか、出兵しなければ魏、呉、蜀はいがみ合わなくて済むのでは、と孔明に問いかける(・・・これは私もそう思うんです)。劉備を看病しているとき、明かりをつけるか付けないかも自分で決められなかった劉禅が孔明の言うがままではなくてきちんと質問するなんて、成長したね!それとも李厳が聞いてごらんなさいと劉禅に言ってたのかな?
孔明はこんな質問をするなんて、という表情で「今は良くても20年後に魏は必ず蜀を滅ぼしに来ます。」と言い、「20年後は自分は生きてはいない、だからこそ今中原を平定し千秋の大業を果たしたい」と答える。
ところで、孔明が劉禅に「今おいくつですか?」と聞いたら劉禅は「17歳」と答えてたけど、長坂坡で趙雲に救われたときに赤ちゃんだったから二十歳を過ぎたくらいじゃないでしょうか。劉禅・・・(^^;)
魏では曹真が戦地に行きたがらず遊興にふけり、曹叡に「では司馬懿に代わってもらう」と言われあわてて赴任。曹真の息子曹爽も初参戦する。
229年、第2回北伐が始まる。
重要地点の砦である陳倉(ちんそう)は司馬懿の推薦した郝昭が蜀軍の攻撃から固く守り抜いていた。どう攻めても陥落しない為、孔明も姜維を使って偽投降の策を使い、曹真は美味しい話にまんまと騙され、罠にはまってこれまでというときに息子の曹爽が救う。蜀軍は魏延が奮闘し、魏の猛将を倒し、意気揚々と孔明に報告したが、孔明は曹真を討てなかったから残念だと一言で終わらせる。その時の魏延の戸惑った表情が、ちょっと気の毒でした。そして孔明は、せっかく勝ったのに、陳倉で日にちを使ってしまい兵糧が尽きてしまったため、撤退を命じる。魏延はどうして一気呵成に攻めないのかと抗議するが、孔明は兵糧がなくなると自滅すると答え撤退を敢行。孔明と魏延の考えの違いが徐々に目立ってきます。
蜀軍の撤退を知り、喜んだ曹真は追撃を命令。兵の数を増やすため、陳倉で守っていた兵の半分を無理やり曹爽率いる追撃軍に入れてしまう。それこそが孔明の罠で、追撃軍は魏延の軍に攻撃され敗退。兵が半減した陳倉には魏の甲冑姿で偽った蜀軍がまんまと城門をくぐり、姜維と張苞の軍が攻め落とし郝昭は自決。陥落してしまう。
蒼ざめた曹真は傷を負ってもまだ戦おうとする曹爽に向かって言う。
「私は生涯 総帥でずっと大都督の座にあったが誰よりも負け戦が多かった。」これまでは皇叔だから許されたが、陳倉が陥落し都が危なくなってしまい斬首は免れない。涙ぐむ曹真に副将軍の郭淮(かくわい)は、重病と偽り痛々しい傷を負っている曹爽を使者にして天子の同情を買い、司馬懿を大都督に推薦すれば生き残れるとアドバイス。その通り実行する。
改めて大都督になった司馬懿は、まず脱走兵が多い軍を引き締め、軍紀を厳しく整え直す。そして2日間の休みを与え酒や食で慰労し、また功績のあった将兵を明記させ褒賞を与え、功績のない者には厳罰を処した。
孔明は司馬懿が守りに徹することを見抜き、魏延に守りの甘い武都と陰平の城を攻撃させ援軍を呼び寄せる。司馬懿は罠だと察知したが、援軍を出さないと全軍の士気に影響がでてしまう。勝ち戦だと嘘をついて忠疑心篤い孫礼(そんれい)を援軍に出したが、討ち死にしてしまうのを予想して司馬懿が涙ぐむのを見た郭淮は孫礼のためのさらなる援軍を申し出る。おかげで孫礼も郭淮も命は助かる。
孔明は姿を現さない司馬懿をおびき出して討ち取ろうと、自分を囮にして武都城に向かう。おびき寄せと察知した司馬懿は、孔明を襲うよりむしろ孔明が去った後の兵糧を確保している軍営を襲うほうが打撃が大きいと踏み、老将軍の張郃(ちょうこう)が自ら志願して夜襲する。が、これこそが孔明の罠だった。激しい戦いは夜が明けても続く。
張郃は奮闘し敵をなぎ倒していく。山から戦いを見続けていた孔明も感嘆。
戦いを挑んだ張苞(張飛の息子)は張郃に重傷を負わされる。
が、張郃は矢をいくつも受けて討ち死にし、大敗する。
司馬懿は張郃と彼の2万の兵が固く統率され誰一人逃亡せず戦い抜いたことに感動し、自分の馬の皮を剥がして張郃の遺体をくるむよう命令、自らも遺体を担ぐ一人となり全軍を挙げて葬儀する。そしてなおも固く軍を守りに徹する。
必死で仮病をかこっていた曹真は、司馬懿の失態を知り元気になって天子に上奏、司馬懿を副都督に降格させ、自らが大都督に返り咲く。司馬懿と司馬昭は自分たちがいくら必死で貢献しても評価されず、失敗すると厳しい対応をされることに落胆し、同じ軍にいても曹真、曹爽に命を狙われることを案じて、司馬昭が父に雍涼に行くことを提案し、二人で陣を出ていこうとすると
「朝廷がどうあれ、我々には貴殿が大都督です。永遠に忠誠を!」郭淮以下将軍たちが拱手して留まることを願う。戦地では曹一族であるかないかではなく、有能な指揮者こそが善ですからね。この場面が後で大きな意味を成します。
将軍たちの想いを受け止め留まった司馬懿は、得意げに軍営に入る曹真を迎え入れる。
一方蜀軍では孔明が風邪を拗らせ、重傷を受けていた張苞の訃報を聞き落胆し戦う元気を失う。さらに雨季が近く兵の足を取られてしまうので、陥落させた全ての城を放棄して第二次北伐の撤退を決定。かなりの犠牲を払って陥落させた陳倉も放棄することに魏延は抗議するが軍が撤退するからには守り切れぬと言い反論を受け付けない。魏軍の追撃対策として王平の軍に陳倉道の入口に配備させ三日後に撤退を命じる。
張苞、お父さんの張飛のような無茶苦茶さがなくて好青年だったのに・・・(;_;)
魏の軍営では、孔明の病気により蜀軍が撤退していると情報が入る。撤退する際、攻め落とした城を焼いているが、陳倉の城だけは焼かず残しているという。曹爽は陳倉付近の伏兵を予想、追撃の前に兵の数の確認をする方法を献策し曹爽自ら攻撃。
曹爽昭伯(そうそうしょうはく)
その読みは的中。王平の軍は惨敗し、多くの犠牲を出して何とか漢中に戻る。
夜、陣の幕舎で
戦地は寒かろうと、静珠が縫って送ってきた綿入れを抱き頬にあてる司馬懿。司馬懿には心安らぐ存在になってるようです。
そして、暗愚な曹真とは違い息子曹爽には才知あることがわかり警戒する。
曹真は棚から牡丹餅のように蜀から城を奪い返し、得意満面で陳倉城に入場する。司馬懿は曹真の命令で、曹真と息子曹爽の活躍を美辞麗句でしたためた上奏文を提出。
焼却されなかった陳倉城は曹真が本陣を置き、その他の地域は各将軍を配置させる。司馬懿は陰平に赴任。
やがて雨季に入る。それも雨量が例年より多い。窪地にある陳倉城は浸水。次第に影響が出て武具が錆び始め、兵糧にカビが出始める。曹爽は、これが孔明の策略ではと気づき父に軍の移転を進言するが、曹真はせっかく曹叡から賞賛され褒賞も受けたばかりなのに体面が悪いと移動しない。
もちろん司馬懿も初めから陳倉に曹真を誘い込み討ち取る孔明の策略と気づいていた。そして静観する。
蜀の漢中では
230年、雨季も終りに近づき、孔明が魏延と王平に陳倉城攻撃を命令。第三次北伐が始まる。
一方陳倉城では
すっかり油断して、踊り子を侍らせている曹真(どこから調達したのだろう(^^;))。そこへ息子の曹爽が蜀軍がせまってきていることを報告。
驚き、呆けた顔をする曹真。
ここで、変だと思いました。曹一族の人間だからといって、いくら何でも大都督まで上り詰めた人がこんなにお馬鹿なわけないでしょう。年齢的に言っても曹操が生きていたころにはすでに軍人として仕えていたはずだし、曹操は能力主義で、才能ある人には温情を見せてもそうでない人には冷酷に対応する人。とっくに軍人としての資質を見破られ除外されていたはず。それで、ネットで曹真、そして曹休を調べてみたら・・・やはり本当は魏に堅実に貢献した将軍でした。
曹真子胆は、若いころ曹操に認められ、曹操の親衛隊の虎豹騎の隊長となってます。曹操が生きていた時に劉備と戦った漢中攻防戦も、曹丕が呉と戦った時も、軍は敗戦となったものの曹真は相手の将軍を倒すなど堅実に成果を上げていたそうです。そして史実の街亭の戦いの時は司馬懿ではなくて曹真が大都督だったそうです。孔明が第2次北伐で狙うのは陳倉城だと予想し郝昭を派遣したのも曹真。次の蜀の侵略を待たず逆にこちらから蜀に攻め入る案を上奏し、進軍するも長雨で断念。ドラマと同じでよく肥えた体格だったそうですが、そのことをからかった人物が、のちに曹丕を怒らせ厳罰を受けそうになった時は弁護してあげる優しさもあったそうです。。部下の面倒見が良くて褒賞が少ない部下には自分の財産を分けて与え、人望が篤く、曹真の部隊の団結力は強固だったそうです。寛容で謙虚な人柄だったそうで・・・ドラマとはまるで違う人物!
曹休文烈も若いころ曹操に認められ虎豹騎の一員として曹真と共に任務。漢中攻防戦では張飛を敗走させる実績を持つ。従軍前にしばらく呉に住んでいたこともあって呉方面の守りに従事し、曹丕の呉への攻撃も曹休は実績を上げています。石亭の戦いで偽投降の策にひっかかり呉軍に敗退。それがもとで病死したそうです。
魏は同時に呉と蜀を相手に戦っていて、曹休が呉、曹真が蜀に対応していたようです。
孔明の最大のライバル司馬懿の凄さを強調するために、曹真と曹休はドラマでは人柄も変わり損な役回りになってしまったようです。ドラマはドラマとして楽しめば良いのだろうけど、実在した人物だしご本人達の名誉にかかわるので、ここに記しておきます。
蜀の攻撃に曹真の軍は迎え撃とうとしても、矢が腐って折れ、剣が錆びてしまって使い物にならない。司馬懿や他の武将も援軍に来ない。やがて場内に蜀軍が入り込んで絶体絶命になる。みっともなく慌てふためく曹真に曹爽は蜀軍の兵士の鎧を着せて城を抜け出す。慌てて馬を駆ける曹真と護衛の曹爽と部下の武将。後ろから蜀軍が追いかけていく。さらにゆく手の山の斜面から蜀軍の伏兵が現れ曹真は驚き絶望のあまり落馬。そこで腰の骨が折れてしまう。捕まって一族に恥をかかせるよりはと息子に自分を斬るように命令するが、父想いの曹爽は斬ることができない。
そこへやっと援軍が到着する。だけどそれが司馬懿の軍だと知り、曹真は落胆する。司馬懿は曹真のそばに行き、蜀の兵士の鎧を着てる曹真に向かって皮肉たっぷりに
「賊兵かと思えば大都督でしたか。知っていればもっと急いだものを」そう言って首をぽんと叩くと、曹真は苦し気になる。落馬して首の骨も損傷していたようです。それに気づいた司馬懿はわざともう一度力を込めて叩くと首の骨が折れて血を吐き、司馬懿をちらりと見て少しにやりとして、精一杯の強がりを見せて絶命する。
陳倉城は蜀軍が奪い、しばらく攻撃は来ないので司馬懿は兵を休ませ慰労する。そして副将軍の郭淮に上奏文を書くことを命じる。内容は・・
「大都督曹真は、司馬懿の諫言も聞かず進軍し、敗北を喫し陳倉城などを放棄。そのうえ大都督曹真は陛下から賜った朝服を捨て、助かるため蜀軍の兵士の姿に独り逃げていた曹真を司馬懿が命がけでお助けになった。全軍は統率者を欠き士気が乱れている。」
司馬懿から言われた内容を郭淮は全将軍の連名で提出。将軍たちは表向きは大都督である曹真に従っていたけど、司馬懿の方に忠誠を誓ってますもんね。
勅書を読み上げる宦官。この人物は司馬懿が玉車でよろよろと参内した時に体を支えていた宦官。
司馬懿は大司馬、および車騎将軍に任命され、さらに平西大都督として全軍の統帥権を与えられる。
曹爽は父の棺を載せた馬車に付き添いひっそりと洛陽に戻る。
そしていよいよ孔明と司馬懿が相まみえる
231年 祁󠄀山の戦い
双方の大軍を従えて二人はまず言葉での応酬をする。内容は、王朗の時とそんなに変わらないのだけど、司馬懿のしゃべり方が曹操と似てくだけた言い方をして孔明の言葉も何気なくかわします。
司馬懿が手を挙げると軍は「混元一気の陣」を布く。次に孔明が軍扇をさっと振ると蜀軍も陣を布き始める・・・
蜀では孔明と魏延の関係が少しずつ悪化していました。魏延は猛将で経験も積んでいて武勇を誇りたいし、戦い方も知っているので献策をして蜀軍を勝利に導きたい。でも孔明はあまり評価しない。そのことにいら立ってました。孔明からは的が少しずれていて思慮が足りないように見えるのでしょう。
孔明は俺様な自我の強い武将があまり好きでなく、孔明の指示する意味を理解し素直に従う姜維や王平が好みのように見受けられました。
姜維伯約(きょういはくやく)第一次北伐の時に魏軍から投降
王平子均(おうへいしきん)漢中争奪戦の時、魏軍から投降。
孔明が信頼を置く武将は以前から所属している荊州や蜀の武将ではなく魏から投降した武将だというのが、何とも皮肉です。
特に戦いの場だから一瞬の猶予が敗北を引き込んでしまうから仕方ないのだろうか・・・。私には答えが見つからないのです。魏延は何か魅力を感じる武将で、だから孔明との微妙な関係が心に引っかかりました。もし、龐統が生きていたら少し違っていたかもしれません。
孔明はずば抜けて有能だけど、このドラマでは、関羽や張飛など戦場でたたき上げてプライドの高い武将とはそりが合わなかった。孔明の言う事は正しいのだろうけど、力を頼りに生きてきた武将たちには自分の培ってきた実力と経験を軽く扱われた気持ちになって反感を持ってしまう。龐統はそういう武将たちとも酒を飲んで共に語り合い気持ちに寄り添う親しみやすさがあって、孔明と武将たちとの摩擦も少なくできただろうし、魏延も納得できたと思うのです。そういう相手を思いやる気質を持っていたから龐統は劉備の気持ちを汲んで自ら犠牲になったのですが・・・。
三国志ドラマで人間関係の難しさを考えてしまった・・・(^^;)
第7部後半に続く
わ~、鑑賞が終了したのですね~。
長丁場のドラマ、お疲れさまでした。
「三国志」世界にどっぷりとひたれた事と思います。
私、この「スリキン」でも、旧ドラマの「三国志」でも、街亭から空城計までのエピソードが一番好きで、ここだけ何度も見ました。
趙雲が亡くなるところでは毎回私も泣いてしまいます。
ここから孔明の本当の孤独がはじまるんですよね・・。
今回の記事も夢中で読ませていただきました。
後編が超楽しみです!
とうとう第7部にはいりました!
もう周瑜も曹操も劉備もいなくなり、そして第7部前半では趙雲も物語から去ってしまいました。
趙雲はとびぬけた存在感の武将。ずっと一番好きな武将だったし、今も大好きな武将です。他の武将はみな女性を一段下に扱って、時に道具扱い。いざとなったら見捨ててしまうのですが、趙雲はきちんと女性へ礼儀をもち、そして命がけで助けようとしてくれた。もうそれだけでも感涙してしまいます。
さらに冷静で賢い人だったのでしょうね。抜群の武力を誇っていても思い上がらずに、そして部下を大切にしていました。ただ一度、劉備が「呉討伐」を口に出した時にそれでは大儀が違うと真っ向から反対したのは、趙雲らしい正義感と忠誠心から発していて、だからこそ説得力を感じました。
劉備軍が流浪していたころから苦労を共にし、孔明が心から信頼して大事を任せられる武将。孔明を心配して文字通り助け船を出してくれた武将。本当に心の支えのような存在でした。
孔明は、自分の弱音を受け止めて支えてくれた馬謖をまず失い、趙雲を失い、確かに孤独になりました。
街亭の戦いから空城の計では孔明の用意周到さに感心し、それでも切羽詰まった時に琴が大きな役目を果たし、私も痺れました。古琴は、ギターのような深みのある音色ですごくいいなと思いました。
そして空城の計は本当はもう一つ、漢中争奪戦の時、趙雲が城の門で立ちはだかる「子龍一身都是膽也」の話がこのドラマでは省かれたのが残念でなりません。想像すると趙雲のあまりのかっこよさに身震いしそうです。
やはり趙雲は大好きで、つい熱くなってしまいました。
これから孔明の悲しみを伴う活躍を注目して後半を書いてゆきたいと思います☆