この展覧会のタイトルを見て、これは行かねば、そしてレポートを書かねばと思いました。
展示会場に入るとき、作品リストのほかに窓研究所が作った「窓学の視点から見る窓展」という小冊子もあり、私も一冊手に取りました。
一般財団法人 窓研究所が主催する「窓学」の研究に基づき、東京国立近代美術館のキュレーターと共に窓に焦点を当てて作品を選んだ展覧会、と書かれてました。
「窓学」という研究分野があるのですねえ。
私にとって窓は・・・建物の内側と外側の境目。ドアの様にスムースに内側と外側を行き来はできないけれど、部屋の中に居ながら外の世界の様子を見ることが出来るし、外側から部屋の内部の様子を少し伺うことが出来る。窓を開けると外の光を取り入れ、空気の入れ替えができる。窓を閉めると部屋の温度を保ってくれて雨風が部屋の中に入る事を防いでくれる。
そして比喩として「心の窓が開く」という言い方をするし、身近な範囲から広い未知の世界へと情報を求め受け入れ、時に発信するシステムやその機器にも窓の名前が付けられてます。
写真、建築設計図、絵画、立体作品、映像作品などなどいろいろな表現で表された窓。部屋の外から見た窓、中から見た窓。窓そのものの形の面白さや比喩としての窓などなど、「窓」を意識して改めて作品を鑑賞する面白さを感じました。
撮影可能な作品と不可の作品があり、撮影できた作品を中心に載せたいと思います。
横溝静《Stranger No.5》1998年 個人蔵
この写真の撮影者が見知らぬ人に手紙で撮影の協力を頼み、承知してくれた人に日にちと時間指定で窓辺に立ってもらい撮影した作品。撮影者は窓の外からひっそり撮影しお互いに面識をもたないままでいる。まさにStranger。もし、私にこの手紙が来たら不気味に思って拒否するだろうな、何か犯罪に利用されるのではと思ってしまうじゃないですか・・・。だからなのか、承知して立っている人の写真は男の人ばかりでした。でも、作品を見てると、知らない人の日常が窓を通して垣間見れるのが面白いです。
窓は時に知らない人同士の接点になる。部屋の窓から外にいる人の様子を見たり、逆に外にいる人が窓を通して知らない人のプライバシーを見ることが出来ます。
郷津雅夫《〈Windows〉より》 1972~1990年 個人蔵
1971年ニューヨークに渡り絵画を学んでいる合間に窓の写真を撮り始めたそうです。舞台はローワー・イースト・のパワリー・ストリート周辺で移民が多く暮らしていたそうです。
写真左はワンコとのんびり外を見ているご老人の姿。窓に花が飾られ、慎ましくも穏やかな日常を感じました。
右の写真は通りを行進するパレードをベトナム戦争で戦死された息子さんの遺影にも見せてあげているご婦人の姿だそうです。亡くなっても自分にとって息子であり続けて、楽しいものをいっぱい見せてあげたい。もっともっと人生を楽しめたはずだから。そんな思いを感じました。
そのあと、展示は古代から現代にいたる遺跡や建築の窓の変遷が壁に説明され、そして近代から現代の建築家の窓のある設計図がずらりと並んでいました。
その次に現れたのは窓が描かれた絵画。絵画の画面は心の窓と数年前鑑賞したバルテュス展で書かれてました。だとすれば額縁はそのまま窓枠になりますね。
岸田劉生《麗子肖像(麗子五歳之像)》1918年 東京国立近代美術館
可愛い5歳の麗子ちゃん像、どこに窓が?と思いましたが。周りに描かれているアーチにはどうも横に柱も描かれているらしく窓を表していて、その奥に麗子ちゃんがたたずんでいるというだまし絵的な描き方をしているそうです。私はドイツルネッサンスの影響の強い作品だし、デューラーなど作品に描かれた人物像や聖人像の背景のアーチ型を真似てみたのかなあ、なんて思ってました。それにどちらかと言えば、聖人の立体像を置くときに作るアーチ型の壁のくぼみ(壁龕)の様に見えます。
アンリ・マティス《待つ》1921~22年 愛知県美術館
窓を通して海を眺める二人の女性。待ち人はきっと船に乗って海路へと旅立っていったのでしょうね。もうずっと会ってないのでしょうか、うつむいている女性の後ろ姿が寂しそうです。
時に窓は密室に行われている出来事を暴いてゆきます、窓を通して戦争の影を表した作品が並びます。
安井仲治《〈安井仲治ポートフォリオ〉より 流氓ユダヤ 窓》1941年 東京国立近代美術館
アメリカに亡命するために日本政府の渡航許可が必要なため、第二次戦争前に多くのユダヤ人がナチスの迫害から逃れるためにシベリア鉄道を横断し身一つで日本の神戸に渡ったそうです。当時多くの在日西洋人が帰国してその空き家になった洋館を彼らに一時の住居としてあてがわれたそうです。母国では恐ろしい迫害が起きていて、窓の扉を半分閉めて、用心深く下から外をうかがっている様子に、命がけで異国に渡ってきた彼らの心情を感じます。
林田嶺一《とある日用雑貨店のショーウインドケース(ハルピン黄蓋731部隊の幻影)》2002年 青森県立美術館
一見すると軽妙で可愛い作品かなと思ったのですが、設えた窓を通して見えるのは人形を使った残酷な様子です。かわいいうさぎのぬいぐるみは軍服を着て持っているフォークで小さな人形を指してます。机にはバラバラにされた人形。目隠しされた人形がフォークとスプーンの柱に括り付けられています。飛行機のエンジンだけを付けた人形が上を飛んでます。1933年生まれの林田氏が21世紀になって作った作品。とても重く感じます。
本当は一番強く印象に残った作品がこのコーナーにありました。津田青楓の「犠牲者」1933年作(東京国立近代美術館蔵) です。撮影不可だったので写真にしませんでしたが、インターネットでは画像が見れます→□。この作品は小林多喜二の獄中死の知らせを受けて描いた作品だそうです。縄に括り付けられつるされたまま拷問され死んでいった姿で、小林多喜二はこんな惨い殺され方をしたのかと改めて胸が痛み恐ろしく感じました。そのつるされた遺体の足元に小さな窓があり、その窓から建設中の国会議事堂が描かれてます。この理不尽な拷問が法治国家を目指す国で行われたのだ、と訴えているように感じました。絵を描いた年を見るとこの作品を描くのも残すのも大変な事だったのでは。この作品の出来事は今も世界のどこかで実際に起きている。
戦後の作品にも、戦争の影響を感じてしまいます。
奈良原一高《「王国」より「沈黙の園」》からの一葉 1958年 東京国立美術館
以前このブログにも奈良原一高氏の「王国」展のレポートを書いたことがありました。
こちらの写真は北海道のトラピスト修道院の修道僧の生活を撮った作品のうち窓の写っている作品を選んで展示していました。アーチ形の西洋風の窓のそばでフードをかぶり瞑想をしている様子。きっと日々の生活の中に瞑想は組み込まれているのだと思いますが、静かさの中に孤独を感じてしまいます。喧噪を離れ神を想う生活を選んだ人々。
奈良原一高《「王国」より「壁の中」》から一葉 1956~58年 東京国立美術館
こちらは和歌山県の女性刑務所の生活を撮った作品です。刑務所の中の様子の作品もありましたが、ここでは窓の外から撮った作品を載せます。窓にはがっしりとした鉄格子が付けられている。自分が望んで入った人はほとんどいないと思います。ここに至る人生はいかなる大変さがあったのだろう。
それから窓にちなんだいろいろな表現が展示されてました。
西京人(小沢剛 チェンシャオション ギムホンソック)《第3章ようこそ西京にー西京入国管理局》 2012年 作家蔵
日本、中国、韓国の三人の作家の作品。西京(シージン)という架空の国の入国管理局が設えてます。国境を通過するためには入口で管理係員に飛び切りの笑顔か、歌か、踊りを見せるのが条件。思わず私もどれをしようか、歌っちゃおうかとドキドキしましたが、係員の人にどうぞと言われて何もしなくて普通に入りました。ちょっと残念(^_^;)。入ると中国、韓国、日本の作家と家族が西京入国のためのパスポートを作ったり旅行鞄を持って目指したり、入国管理局で親子で踊ったりと楽しいビデオが上映されてました。考えてみれば、入国管理局は国と国同士の国境という壁の窓のような役割をしているのですよね。国境を通過する事がこんなに楽しい平和であるものだといいな。
その次もビデオ上映作品だったのですが、これがまた面白かったです。ユゼフ・ロバコフスキ「わたしの窓から」 1978-1999年 (プロファイル・ファウンデーション蔵)です。ポーランドの高層アパートに住んでいる作者がアパートの一室の窓からずっとビデオカメラでアパートの前にある石畳の広場を写し続け、撮影者が映った人や物事についてぼそぼそと説明します。その説明が時々いい加減で適当な事を言っている可能性があるそうですが、普通に映像を見ていると言葉のまんまに受け止めてしまいます。でもアパートの知り合いや家族などごくささやかな日常の様子なのでさしたる支障がありません。捉えようによってはずっと窓からビデオカメラを回してみてる人というのはちょっと不気味でもありますが、撮影した12年の間に広場の前でパレードがあったり、広場が駐車場になったり、やがて国そのものが社会主義国から資本主義国に変化して、ついに広場が壊されアパートの目の前に高級ホテルが建設される様子がビデオで写され続け、窓から見える風景を写したビデオカメラが歴史の証人になったように思えました。
タデウシュ・カントル 《教室ー閉ざされた作品》1983~85年《「死の教室」よりベンチに座る少年》1987年 タデウシュ・カントル芸術ドキュメンテーションセンター
カントルは演劇『死の教室』の作者で、ポーランドを代表する演劇人だそうです。その自作の演劇を元に作られたのが黒い小さな教室とその部屋の中に座る人形。人形を見るためには窓から覗き見なくてはなりません。人形は教室の中で机と椅子の席に座り、白板を見つめています。大概の人にある学校の記憶が呼び覚まされます。私たちは多分黒い小屋の外から窓という媒介を通して自分たちの過去を見ているのでしょう。でも、動かない人形はどこか不気味なものを感じました。
JODI《My%Desktop OSK10.4.7》2006年 作家蔵
窓と言ったら現在はやはりパーソナルコンピューターによるインターネット通信を連想します。この機器のディスプレー画面から世界中の情報が瞬時に入り、広がってゆきます。ごく普通に狭い範囲で生きている私にとってインターネットの普及は明らかに世界が広がりました。そのパソコン画面が壁いっぱいに映しだされ、勝手に動くさまが表現されてます。言う事を聞かないウィンドウズ(◎_◎;)
ローマン・シグネール《よろい戸》2012年 作家蔵
木の壁の向こうにある扇風機が作動して風を起こすと窓の扉が開きます。すると壁の向こうの扇風機は止まり、今度は手前の2台の扇風機が風を送り始めます。そのため木の扉は閉まりますがその時かなり大きな音でバタンと音を立てます。窓が閉まると2台の扇風機も止まります。それをずっと繰り返してました。窓の扉の開閉機能だけを特化して表現した作品。会期中、開館時間はずっとバタンバタン音を立て続けているのでしょう
ズビグニエフ・リプチンスキ《タンゴ》1980年 ズビグ・ビジョン
これは約8分間の映像作品で、はじめは誰もいない部屋の窓からボールが入ってきてそれを取りに来た少年が現れボールを持ってすぐに窓から出ていきます。が、またボールが部屋に入り取りに行くことを繰り返します。それからドアから赤ちゃんを連れたお母さん、泥棒も窓から部屋に入って棚の上の荷物を盗みすぐに出て行くのを反復し、それから棚に荷物を置きに来た人・・・と次々と人が現れてすぐに去って行ってはまた現れて反復します。一つの動作を人と人とがぶつからないように計算してそれぞれ別々に撮影して組み合わされてます。手前にあるベッドにも女の人が座ったり、赤ちゃんのおむつを替えたり、男女がラブシーンを見せたり、犬を乗せたり、おばあさんが横になってお医者さんに問診を受けたりします。やがて少しずつ人が減って、窓から飛び込んだボールを少年が取りに来なくなり、横たわっていたおばあさんがそのボールを持って去ってゆき誰もいなくなって終わります。すれすれで多くの人が動き回ってもぶつからない所が《タンゴ》というタイトルになったそうです。これ面白かったですよ。動画が見つかったので貼っておきます→☆
エルジェ《「タンタン アメリカへ」よりNo.19》1931/81年 東京国立近代美術館
漫画の中に窓が描かれてます。が、それ以上に感じたのは漫画のこま割自体がまるで窓枠のようではないですか。様々な視点を持つ沢山の窓から物語を覗いているのが漫画なんだと改めて気づきました。
山中信夫《ピンホール・ルーム1》1973年 東京国立近代美術館
部屋の窓をふさいで小さな穴をあけて部屋自体をピンホールカメラにして撮影した作品。部屋の壁一面にピンホールから通った画像が映るとこんなに大きな作品になるんですね。現像するのは普通サイズの紙なので紙を並べて画像をつなげて、その為画面にずれができてしまうのですが、それがまた楽しいです。ピンホールカメラはさかさまに写るので、作品に写る風景もさかさまです。
ゲルハルト・リヒター《8枚のガラス》2012年 ワコウ・ワークス・オブ・アート
このガラスは35%反射して65%透過するよう調節して製作したそうです。なのでガラスの正面に立って作品を写すと、結構はっきりと自分が写って焦りました。それでここでは横から写した写真を載せます。ガラスは一見透明だけど、反射もあってガラスの向こう側は全て見えるわけではない。これって人が物事を見る時につい先入観が邪魔してそのままを見てないのと似ている事象かもしれないと思いました。ましてや8枚のガラスの向こうは、霞かかったようではっきりとは見えなくなってました。
藤本壮介《窓に住む家/窓のない家》2019年
美術館の入り口そばに設置された大きな作品です。パッと見た感じは家の様に見えるけど、壁にも天井にもたくさん窓があって、まるで漫画のこま割のようです。窓にはガラスがはまってなくて外の風も日差しも雨も入ってきて、家の中にはオブジェがあり木も植わってます。これは家や部屋の機能を失った家なのかな?まず「部屋」という閉じた空間があって初めて空間を開ける窓の役割が生じるのかもしれない・・・と思いました。
窓にまつわる作品はたくさんあってかなり見ごたえがありました。ほかにも有名な作家の作品や面白い作品がいろいろありました。
窓は日々の生活の中に溶け込んでいて、私もいつも部屋の換気を気にしているし、開けた窓から鳥の鳴き声や道を歩くお子さんたちの元気な声に微笑ましく感じたり、騒音があると慌てて窓を閉めたりしてます。逆に部屋の中の音が外に出ないように閉めるときもあります。外の世界とプライベートな世界とのつながりを調節するところでもあると今回気づきました。そしてもちろんパソコンの機器でもありブログのタイトルでもあります。
普段は意識しないほど当たり前な存在の窓を改めて見つめることが出来た展覧会でした。
2月2日まで東京国立近代美術館にて開催されてます。