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特別展「最澄と天台宗のすべて」

2021-11-03 11:25:13 | 一期一絵

コロナ感染者数がだいぶ減ってきて、緊急事態宣言も終わり、私自身もワクチン接種完了し、今年やっと展覧会に向かうことが出来ました。上野は1年2か月ぶり。去年はメトロを利用したのでJR上野駅の外観が変わったのには気づきましたが、今回はJRを利用したので駅中もだいぶ変わったのを実感しました。

公園口改札から出て改修工事中の西洋美術館のそばを通り、黄色い実をあちこちで落としている樹が並ぶ小道を通り野口英世像に挨拶して、やっと東京国立博物館に到着。

特別展「最澄と天台宗のすべて」は「伝教大師1200年大遠忌記念」という副題が書かれています。伝教大師最澄は822年に入寂されたそうです。

いつもならトーハクの展覧会はゆっくりと足を休めながら3時間くらいかけて鑑賞するのですが、感染対策の為、グッズショップの買い物も含めて合計90分以内に見終わるよう入り口に書かれていて、休憩せず必死で説明を読み展示品を鑑賞して何とか時間内に見終わるよう頑張りました。幸い時間指定制な事もあり、人があまり多くなかったのでスムースに移動して鑑賞できたのはよかったです。でも、やはりもう少しじっくり仏さま方を見つめていたかったな・・・

 

平安時代初期の同時期に最澄と空海は唐に渡り(804年)、それぞれに教えを引き継いで日本に定着させた天台宗と真言宗。真言宗の展覧会は系統の会も含めて何度か行き見事な仏像、精緻な仏具を鑑賞し、難解で把握できないまでも教義世界の雰囲気にひたりました。そして今回、天台宗の展覧会は初めての鑑賞でした。

恥ずかしながらあまり仏教に詳しくないので、どちらも密教系でそんなに違いはないのではと思っていたのですが、今回天台宗をやはりおぼろげですが知ることが出来ました。

天台宗は「人々すべてを救う」という法華経の教えを最重要とし、最澄が唐で学んだ期間は一年間と短かったのですが、天台宗総本山の国清寺で教えを受け、他にも仏教を学べるところをめぐり当時学べた仏教の様々な要素も取り入れ日本で独自にアレンジし、「円(法華経の教え)」「禅(座禅)」「密(密教の教え)」「戒(戒律)」の四宗を融合した総合的な宗派だそうです。密教は不完全であったそうですが後に弟子の円仁と円珍が唐で学び完成させたそうです。

私はすべての人の幸せを第一の目的にしているという事に心惹かれました。法華経は正式には妙法蓮華経というそうです。英語ではLotus Flower Sutra もしくは Lotus Sutra と書きます。蓮の花のお経。美しい名前ですね。

一方、のちに千日回峰のような極限まで心身を追い詰める厳しい修行が生まれます。また寺を守るため僧兵が現れ、戦国時代には織田信長の軍とも戦ってます。一つの宗派の中に柔剛振り幅の大きさを感じました。

展覧会にはめったにお会いすることがが叶わない秘仏や、貴重な書と絵画の作品が多く展示され圧巻でした。仏像はオーソドックスなお姿をされています。もちろん心を込めて造られて長い年月信仰されたお姿は美しく気品があります。貴重な経験をさせていただきました。

 

国宝「聖徳太子及び天台高僧像」十幅より「最澄」平安時代11世紀 兵庫県 一条寺蔵

8世紀後半から9世紀前半に生きた人なので入寂されたのちに描かれた肖像画になります。最澄は色白で背の高い姿だったそうです。肖像画も色白で整った優しいお顔立ちです。最澄像は木彫の坐像も展示されてました。

最澄はこれまでの日本の仏教が人々の救済よりも学問追求と権力欲に行ってしまっている様子に失望し、また仏道修行した人だけが救われることに疑問を持ち、比叡山に入り、小さな草庵(一条止観院)で修行をして仏教の書物を学んでいくうちに誰でも信じることで救われるという天台宗の思想に出会ったそうです。そしてその時の天皇である桓武天皇は、政治に口出しし天皇の地位も揺るがすようになったこれまでの仏教宗派を排除するため、新しい宗派の天台宗の最澄を朝廷に呼び寄せ高い地位を与えたそうです。

草庵は延暦寺となり、その中でも草庵を作った最初の場所は根本中堂となったそうです。

 

国宝「天台法華宗年分縁起」冒頭部分 最澄書 平安時代9世紀 滋賀県 延暦寺蔵

最澄直筆の書。端正な字です。最初の文章はこう書かれています。「国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり。道心有る人を名付けて国宝となす。故に古人いわく、径寸十枚これ国宝にあらず。一隅を守り千里を照らす、これすなち国宝なり」

径寸とは大きな宝石のことだそうです。

「一隅を照らす」という言葉はこの文章から出た言葉だそうです。信仰心をもって一人ひとりが自分が光となって身近な人や物事を照らし、それが連なって千里を照らす。それこそが国の宝。素敵な言葉ですね

書は他に最澄の手紙 国宝「尺牘(せきとく)」や三筆の一人と称えられる嵯峨天皇の宸筆 国宝「光定戒牒(こうじょうかいちょう)」も展示されてました。

 

重要文化財 秘仏「薬師如来立像」平安時代11世紀 京都府 法界寺蔵

延暦寺の総本堂の根本中堂に安置される最澄作の秘仏本尊の薬師如来像に近い姿と考えられており、数多く造られた模刻像の一つだそうです。優しいお顔立ちをされてます。このお像は360度ぐるりとまわって鑑賞できました。後ろ側では衣服に精緻な切金細工で模様が描かれているのがわかりました。

 

 

重要文化財「僧形坐像 伝慈覚大師(円仁)」平安時代 永禄2年(1047) 岩手県 黒石寺蔵

最澄の弟子である円仁は円珍と共に天台密教を完成させたそうです。丸顔で目鼻立ちがはっきりしたお顔をされてます。

坐像は円珍も展示されてましたが、画像が見つからずここに載せられませんでした。智証大師円珍の像には円珍のお骨が入っているそうです。頭頂部が大きく印象的なお姿で少し伏せた鋭い目が生きているような迫力がありました。

 

重要文化財「不動明王坐像」平安時代 10世紀 滋賀県 伊崎寺蔵

この不動明王像は円仁の弟子の相応和尚(そうおうかしょう)が造られた言われているそうです。

相応和尚はあの過酷を極める荒行、千日回峰行を始めた僧侶だそうです。相応和尚も座像が展示されてましたがやはり画像が見つかりませんでした。相応和尚は骨太なお顔をされていました。文徳天皇の妃の病を治したそうで絶大な信頼を受けたそうです。その貢献もあって清和天皇の時代に最澄と円仁に伝教大師と慈覚大師の諡号を贈ったそうで、相応和尚も建立大師の諡号をおくられたそうです。

その和尚が造られた不動明王像は少し優しいお顔立ちをされています。相手を威圧するというよりは、謹厳実直でこうと決めたら頑として変えない意志の強さを感じました。丸みのある辮髪に柔らかさを感じました。

 

重要文化財「紺紙金銀交書法華経八巻のうち巻大七」の冒頭部分 平安時代11世紀 滋賀県 延暦寺蔵

紺地に金と銀で法華経が書かれた美しく豪華な巻物です。その巻頭にやはり金と銀で描かれた釈迦如来が次世代を継ぐ弥勒菩薩の頭に手を置いている絵があります。私にはいいこいいこと頭をなでているように見えて何だか和みました。

 

国宝「六道絵」のうち「人道不浄相幅」鎌倉時代13世紀 滋賀県 聖衆来迎寺蔵

平安時代後期の天台宗の僧侶、源信和尚の著書「往生要集」の世界を絵にした作品の一つ。六道とは、地獄道、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人道、天道の六つの世界のこと。人は極楽に往生できないかぎり、この六道を永遠に輪廻しなければならないといわれてるそうです。

源信の思想は法然や親鸞に影響を与えたそうで浄土宗の祖と言われているそうです。

藤原道長も源信に帰依したそうです。

桜咲く木のふもとで横たわる高級な衣装をかけられた女性(足が細くてきれいなのであまり地面を歩かなかった地位の人だと思われる)の遺体が、金目のものは奪われ、青い葉が茂りそして紅葉する時の経過と共に腐乱し、または獣に食べられ、枯草の中で骨になる様子が描かれ世の無常を表してます。

この「六道絵」が描かれたのは多くの戦乱があった鎌倉時代。野ざらしにされた高貴な女性の遺体は目にすることがあったのでしょう。目をそむけたくなる現実を描いてますがとても気になり見入ってしまいました。

 

「十二神将立像」のうち4駆 鎌倉時代13世紀 愛知県 瀧山寺蔵

十二神将は薬師如来をお守りするため敵を威嚇する憤怒の表情で表されます。展覧会には4駆の神将が展示されていましたが、デフォルメされた表情がアニメのお顔のようで親しみやすくかわいらしくてあまり怖さは感じませんでした。この画像に写る神将さまは甲冑も着てません。大らかでおっとりした神将様方でした。

 

国宝「釈迦如来椅像」飛鳥時代7世紀 東京都 深大寺蔵

飛鳥時代に作られた仏像なので最澄が生まれる前から存在しています。この仏様は「国宝 興福寺仏頭展」でお会いして二度目になります。当時は重要文化財でしたが、今は国宝になっています。

ゆったりと椅子に座ったお姿。体や脚に布が密着して体の起伏のラインを表す表現はインドのクプタ彫刻の影響があるそうです。

もう一度お会いできてうれしかったです。東京に飛鳥時代の仏様がいることにも驚きます。いつ、どのような経緯でこちらに来られたのだろう。

同じ深大寺からは秘仏であるとても大きな慈恵大師良源坐像も展示されてました。

秘仏「慈恵大師(良源)坐像」鎌倉時代13~14世紀

正月3日に入滅されたので、元三大師様ともいわれているそうです。天台宗中興の祖だそうです。僧侶の座像では日本最大だそうで、圧倒される迫力を感じました。50年に一度しかお会いできない坐像にお会いできたのは、凄い幸運でした。

 

 

上野寛永寺の仏様にも今回初めてお会いしました。

重要文化財「慈眼大師(天海)坐像 康音作 江戸時代 寛永17年(1640年) 栃木県 輪王寺蔵

こちらは存命中に造られた寿像だそうです。

徳川家康、秀忠、家光三代にわたって帰依され絶大な信頼をおかれた大僧正。側近として江戸の開発にも深くかかわったそうです。

江戸城の鬼門の位置にある上野に東の比叡山である東睿山寛永寺を開いたそうです。その敷地は今は上野公園となり、展覧会が開催された東京国立博物館も寛永寺の境内だったところに建設されてます。天台宗とご縁のある場所での開催だったのですね。

織田信長軍による焼き討ちで大半の伽藍を焼失した比叡山延暦寺の復興にも尽力されたそうです。

 

重要文化財 秘仏本尊 「薬師如来及び両脇侍立像」平安時代(薬師如来9~10世紀)(日光菩薩、月光菩薩11~12世紀)東京都 寛永寺蔵

その寛永寺のご本尊です。薬師如来は滋賀県の石津寺(せきしんじ)から、両脇侍菩薩は山形県立石寺(山寺)から運ばれたそうです。

芭蕉の句「閑さや岩にしみ入る蝉の声」と詠まれたあの山寺は天台宗のお寺だったのだと初めて知りました。私もずっと前にお参りに行ったことがあります。

そしてとても美しい日光菩薩と月光菩薩です。

まっすぐにすっくと立って肩もきっちり角ばっている薬師如来の実直さと、少しなで肩で少し体をしならせ、精緻な装飾を身に着け、左右対称に持った日輪と月輪を乗せた蓮の柄の柔らかい曲線も優美な両脇侍菩薩の組み合わせが見ていて気持ちよくて印象に残りました。薬師如来のご利益が日光菩薩、月光菩薩によって波のように広めてくれているように思えました。

 

 

比叡山延暦寺の根本中堂を再現した展示。ここは撮影OKでした。手前にある灯篭は延暦寺でかつて使っていたのだそうです。

根本中堂の灯篭には最澄が直接火を灯し、そのまま1200年灯し続けているそうです。でも戦国時代の比叡山焼き討ちにより伽藍は消失し、そこにあった灯篭の火も失ったそうです。では、なぜまだ火が灯されているかというと山形の立石寺に分灯していたのでその火をまた持ってきたのだそうです。立石寺が天台宗にとって重要なお寺なのだという事を知りました。

それにしても道が整備していない時代に、火を消さないように気をつけながら道なき道の長旅をして分灯しに行くことも比叡山にまた戻しに来ることも大変だっただろうと思います。

この展示の説明文に最澄の句が書かれていました

「明らけく後の仏の御世までも 光りつたへよ 法(のり)のともしび」 

 

天台宗の中にある仏教の様々な要素が後の僧侶によってさらに発展され、すべての人が救われる事を願う思想が法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、日蓮の日蓮宗となり、また禅と一隅を照らす思想が栄西の臨済宗、道元の相洞宗となった事を思うと、天台宗の教義の広大さと時代の価値観の変化に対応する柔軟さ、そして傑出した僧侶を輩出した育成の力を感じました。

またその時代の権力者に近い位置に天台宗の僧侶がいたこともこの展覧会で知りました。天台宗をまもり伝えていく中で宗教団体としての管理、運営の手腕を持った僧侶も代々育成されていたのだと思いました。

2年前103歳の伯母に会うために滋賀県に行き、迎えに来てくれた親戚の車の窓から田んぼの向こうになだらかな山が見え、「あれはなんの山ですか?」と聞いたら「あれは比叡山」と答えてました。あの青く見えた山に多くの伽藍が建ち、信仰と祈りが沁みとおっている。

 

 

特別展「最澄と天台宗のすべて」は東京国立博物館では11月21日まで開催されてます。

 九州国立博物館では2022年2月8日~3月21日

 京都国立博物館では2022年4月12日~5月22日に開催されます

東京国立博物館 伝教大師1200年大遠忌記念 特別展「最澄と天台宗のすべて」


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