昨年末、筆者は「自衛隊の指揮権をアメリカに委譲し続けた自民党」で日本の国防権が、自民党結党以来現自在に至るまで延々とアメリカに売り渡され続け、それが「日本の安全保障だ」と国民をだまし続けてきたことを報告した。併せて自民党が「日本の安全保障」と称して日本の国権を売り渡したことに対してアメリカのご褒美が自民党をして政権与党であることを許されてきたことも明らかにしてきた。
小日向白朗は『富士ジャーナル』1971年7月号で、日本政府はアメリカに「自衛隊の指揮権」(国防権)、「航空管制権」、「電波権」を売り渡していたことを告発していた。それから50有余年。いまだその本質は藪の中で、国民の目に晒されることはないばかりか、急激な軍拡や、日本周辺の有事が事あるごとに喧伝されることとなった。急激な軍拡が地域バランスを失うことは軍事の常識である。そのような常識を抜きにしてでも軍拡に走る必要があるのは、アメリカの要請なのだ。アメリカは平和憲法制定を容認したものの、朝鮮戦争により日本を同盟国として利用する必要に迫られ講和条約制定以降は国防権を簒奪するとともに憲法を改正しアメリカ軍とともに海外派兵を可能とする国に改造することを政権与党に求め続けた。この命題を実施するため設立した結社が「自由民主党」なのだ。
日本国民の国防意識が高いことを逆に利用して、核問題を理由にアメリカに国防権を譲渡したことを正当化するレトリックであることに気づかねばならない。これもまた日本国の国防はアメリカの支配下にあることの証明でもある。
ところで、安全保障と密接不可分の問題にあるのが航空機を中心とした戦略や戦術であり、これを考えるのは常識である。すなわち、「航空管制権」が国防と密接不可分なのである。これに付いても小日向白朗は、日本政府がアメリカに売り渡したとしている。今回は日本政府が売り渡した「航空管制権」についてみておくことにする。
まず、アジア歴史資料センターに『第3次吉田内閣閣議資料綴 昭和27年4月22日』のなかから確認する。そのなかに「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約に基く行政協定の実施に伴う航空法の特例に関する法律案(運輸省)」(Ref. A17112565900)という原案があった。この表題の中に「行政協定」とあることから、前回報告した「自衛隊の指揮権譲渡」に付随する法律であることは一目瞭然である。そして、これに基づき制定された法律が昭和27年7月15日から施行となった『日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定及び日本国における国際連合の軍隊の地位に関する協定の実施に伴う航空法の特例に関する法律』である。
法律案は次の通りであある。
『
日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約に基く行政協定の実施に伴う航空法の特例に関する法律案要領 運輸省二七,四、二一
- 日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定(以下単に「行政協定」という。)第二条の一規定により、合衆国軍隊が使用する飛行場及び航空保安設備に付いては、航空法(昭和二十七年法律)代三十八条第一項(設置の際の航空長官の許可)の規定は、適用しない。
- 行政協定第五条第一項に規定する、合衆国の管理の下に、公の目的で運行される航空機及び航空機に乗り組んでその運航に従事する者については、航空法第十一條(耐空証明)、第二十條第一項及び第二項(無線通信機器の型式及び装備檢査)、第二十八條第一項及び第二項(航空従事者の業務範囲)、第三十四條第二項(操縦教育証明)、第百二十六条第一項(外国航空機の運航の許可)、第百二十七條(外国航空棋の国内使用の許可)、第百二十八条(軍需品輸迭の禁止)並びに第百三十一条(外国が行った証明書等の承認)の規定は適用しない。
- 前項の航空機及びその航空機に乗りくんでその運航に従事する者については、航空法第六章(航空機の運航)の規定は、政令で定めるものを除き、適用しない。
』
となっている。この法律案ができた日付「二七,四、二一」は重要である。サンフランシスコ講和条約に署名したのが昭和26(1951)年9月8日である。同条約の効力発生は同条約第5号に定めにある通り翌年の昭和27(1952)年4月28日である。ところで上記に示した運輸省法律案では、航空法の中で「行政協定」に抵触する部分をすべて除外する法律である。航空法が昭和27年7月15日から施行となった同日に「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定及び日本国における国際連合の軍隊の地位に関する協定の実施に伴う航空法の特例に関する法律」が施行となっている。つまり航空法の制定される前からアメリカ軍による「航空管制」は除外されていて、国内法である航空法が制定されても、同時に除外されていたのだ。
これを整理すると、終戦直後即ち昭和20年11月18日のGHQと日本政府との覚書により日本は一切の航空を禁止されて、それまでの航空法が廃止となっていた[1]。その後、講和条約の発効をまえに、航空行政の基本となる航空法を整備することになって制定したものが「航空法」である。ところが同法が制定され施行すると同時にアメリカ軍に対してその主権を放棄しているのだ。ちなみに3項にある「第六章」とは航空交通管制圏における飛行などを含む運行の仕方を定めたものであることから、これは日本が航空機の運航をコントロールすることはできないことを意味している。
なぜこのようなことが起きたのか。日本はサンフランシスコ講和条約で主権を回復したのではなかったのか。
それを説明するのは、1950年6月25日の朝鮮戦争の勃発により、朝鮮国連軍が組織されたことから始める必要がある。朝鮮国連軍に付いては、外務省公式ページ『朝鮮国連軍と我が国の関係について』に次のようにある。
『……
朝鮮国連軍は,1950(昭和25)年6月25日の朝鮮戦争の勃発に伴い,同月27日の国連安保理決議第83号及び7月7日の同決議第84号に基づき,「武力攻撃を撃退し,かつ,この地域における国際の平和と安全を回復する」ことを目的として7月に創設された。また,同月,朝鮮国連軍司令部が東京に設立された。
……』
この時、朝鮮国連軍司令部は東京の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)におかれ、ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)が司令官に任命された。
その後、朝鮮戦争が膠着状態となった昭和26(1951)年9月になると、日本はサンフランシスコ市で講和条約を締結することになった。ところが、日本が連合国と講和条約を締結すると、アメリカは占領軍を主体とした国連軍が朝鮮半島で戦争を継続できない可能性が生まれることになった。講和条約発効後の占領軍の扱いは次のとおりである。
『 日本国との平和条約
昭和二六年九月八日サンフランシスコ市で署名
昭和二六年一一月一八日批准
昭和二六年一一月二八日批准書寄託
昭和二七年四月二八日効力発生
昭和二七年四月二八日公布(条約第五号)
……
第六条
- 連合国のすべての占領軍は,この条約の効力発生の後なるべくすみやかに、且つ、いかなる場合にもその後九十日以内に、日本国から撤退しなければならない。但し、この規定は、一又は二以上の連合国を一方とし、日本国を他方として双方の間に締結された若しくは締結される二国間若しくは多数国閻の協定に基く、叉はその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐とん又は駐留を妨げるものではない。
……』
すなわちサンフランシスコ講和が効力を発すると、その後90日以内に占領軍は日本から撤退することになっていた。その日は、昭和27(1952)年4月28日から90日、つまり昭和27(1952)年7月27日までに占領軍は日本から撤退を完了しなければならなかった。ちなみに休戦交渉が始まったのは昭和26(1951)年5月2日、アメリカの外交官とソ連の国連代表ヤコフ・マリクが接触し、その後アメリカ側はジョージ・F・ケナンを窓口として米ソ間で開始したとされているが、実際に休戦協定を締結したのは昭和28(1953)年7月27日なのである。
講話条約の条文通りに東京に本部を置く占領軍を撤収すると、占領軍を転用し朝鮮戦争の中核となっていた朝鮮国連軍に対する後方支援ができないことからアメリカは戦争を継続することが困難となってしまう。そこでアメリカは一計を案じ、講和条約締結の当日、吉田茂とアメリカの国務長官ディーン・アチソンとの間で占領軍が引き続き駐留することを認めるという交換公文が取り交わさせた。
『
吉田・アチソン交換公文(日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約の署名に際し吉田内閣総理大臣とアチソン国務長官との間に交換された公文)
合衆国国務長官から内閣総理大臣にあてた書簡
書簡をもつて啓上いたします。本日署名された平和条約の効力発生と同時に、日本国は、「国際連合がこの憲章に従ってとるいかなる行動についてもあらゆる援助」を国際連合に与えることを要求する国際連合憲章第二条に掲げる義務を引き受けることになります。
われわれの知るとおり、武力侵略が朝鮮に起りました。これに対して、国際連合及びその加盟国は、行動をとつています。千九百五十年七月七日の安全保障理事会決議に従って、合衆国の下に国際連合統一司令部が設置され、総会は、千九百五十一年二月一日の決議によつて、すべての国及び当局に対して、国際連合の行動にあらゆる援助を与えるよう、且つ、侵略者にいかなる援助を与えることも慎むように要請しました。連合国最高司令官の承認を得て、日本国は、施設及び役務を国際連合加盟国でその軍隊が国際連合の行動に参加しているものの用に供することによって、国際連合の行動に重要な援助を従来与えてきましたし、また、現に与えています。
将来は定まっておらず、不幸にして、国際連合の行動を支持するための日本国における施設及び役務の必要が継続し、又は再び生ずるかもしれませんので、本長官は、平和条約の効力発生の後に一又は二以上の国際連合加盟国の軍隊が極東における国際連合の行動に従事する場合には、当該一又は二以上の加盟国がこのような国際連合の行動に従事する軍隊を日本国内及びその附近において支持することを日本国が許し且つ容易にすること、また、日本の施設及び役務の使用に伴う費用が現在どおりに又は日本国と当該国際連合加盟国との間で別に合意されるとおりに負担されることを、貴国政府に代つて確認されれば幸であります。合衆国に関する限りは、合衆国と日本国との間の安全保障条約の実施細目を定める行政協定に従って合衆国に供与されるところをこえる施設及び役務の使用は、現在どおりに、合衆国の負担においてなされるものであります。
本長官は貴大臣に敬意を表します。
千九百五十一年九月八日
ディーン・アチソン
』
と、日本国における国際連合の軍隊つまり朝鮮国連軍の地位に関する協定が効力を有する間、引き続き効力を有する。つまり「日本国における国連連合の軍隊の地位に関する協定」は継続していて、駐留アメリカ軍はこれまで通り駐留を継続することに合意したのだ。これはディーン・アチソンが吉田茂に「日本もわかっているであろうが」と恫喝した確認文書なのである。その結果、羽田、横田、嘉手納、千歳などのアメリカ空軍基地は、航空管制の方法とも、そのまま残されることになった。つまり憲法制定では副署した人物が、サンフランシスコ講和条約と同時に日本の国権をアメリカに譲渡する交換公文に署名していのだ。
そして昭和27年7月15日から航空法が施行となったが、アメリカは行政協定を根拠にアメリカ空軍基地と航空管制方法は、継続しアメリカ軍が使用し、日本の民間空港はその一部を間借りする形で開始することになった。
その後であるが、昭和35(1960)年1月19日にワシントンで「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」いわゆる「日米安保」を締結している。その条約締結とともに「吉田・アチソン交換公文等に関する交換公文」とする付属文書も取り交わされている。
『
アメリカ合衆国国務長官
クリスチャン・A・ハーター
日本国総理大臣 岸信介閣下
書簡をもつて啓上いたします。本長官は、千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で署名されたアメリカ合衆国と日本国との間の安全保障条約、同日日本国内閣総理大臣吉田茂とアメリカ合衆国国務長官ディーン・アチソンとの間に行なわれた交換公文、千九百五十四年二月十九日に東京で署名された日本国における国際連合の軍隊の地位に関する協定及び本日署名されたアメリカ合衆国と日本国との間の相互協力及び安全保障条約に言及する光栄を有します。次のことが、本国政府の了解であります。
1 前記の交換公文は、日本国における国際連合の軍隊の地位に関する協定が効力を有する間、引き続き効力を有する。
2 前記の協定第五条2にいう「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約に基いてアメリカ合衆国の使用に供せられている施設及び区域」とは、相互協力及び安全保障条約に基づいてアメリカ合衆国が使用を許される施設及び区域を意味するものと了解される。
3 千九百五十年七月七日の安全保障理事会決議に従って設置された国際連合統一司令部の下にある合衆国軍隊による施設及び区域の使用並びに同軍隊の日本国における地位は、相互協力及び安全保障条約に従つて行なわれる取極により規律される。
本長官は、閣下が、前各号に述べられた本国政府の了解が貴国政府の了解でもあること及びこの了解が千九百六十年一月十九日にワシントンで署名された相互協力及び安全保障条約の効力の発生の日から実施されるものであることを貴国政府に代わって確認されれば幸いであります。
本長官は、以上を申し進めるに際し、ここに重ねて閣下に向かつて敬意を表します。
千九百六十年一月十九日
アメリカ合衆国国務長官
クリスチャン・A・ハーター
』
日米安保条約締結に併せて、旧安保条約三条に規定により行政協定で取り決めた「航空管制権」が新安保条約を締結後も有効であることを再確認したものである。その結果が、次の「航空保安」という文書となった。
『
航行保安
昭和27年(1952年)6月の日米合同委員会で、次のように合意されている。
1.電波航行補助施設及び航空保安施設の設置、運用及び維持の責任 電波航空保安施設の設置、運用及び維持の責任は、第一義的に合衆国軍隊の要求に基づく航空保安施設については、合衆国が負い、又日本国及びその領海の航空路のために存在する航空保安施設又は日本国の要求に適合するように第一義的に設置された発着地の航空保安施設については、日本国が負う。電波航空保安施設の運用及び維持の標準と手続とは、既に規定されている国際民間航空機関(ICAO)の標準及び手続による。
2.電波航空保安施設の飛行試験における責任及び手続 すべての電波航空保安施設の飛行試験は、日本国がその能力を有するということを両国政府が相互に同意する時期までは合衆国軍がこれを行う。日本人無線技術者は保安施設の飛行試験に参加するため合衆国空軍の航空機で旅行することが許可される。
3.遭難通信 日本政府は、海上において遭難中の船舶又は航空機から受けた遭難通信を米極東海軍司令部に通報することとなっており、実施現状としては、昭和28年(1953年)2月2日米軍により海上保安庁と米極東海軍司令部間にテレタイプ回線が設置され、米軍使用船、米国船等の米軍に利害関係ある遭難船舶、航空機のみについて通報を実施している。
4. 航空補助施設の新設、変更、廃止の通告 海上保安庁は、航路告示及び航行警報をワシントン及び極東海軍司令部に送付する。極東海軍司令部は、ハイドロバック(米無電告示=航行警報に当たる)及び米国航路告示を海上保安庁へ送付する。(注)航路告示は、航路標識の設置及び改廃に関する事項を含むものである。
』
これらの規定により、日本の航空管制は完全にアメリカ軍が掌握し、未使用となった部分を日本に返還する処置がとられながら現在に至っている。
つまり敗戦と同時に始まったアメリカ空軍基地の占拠と航空管制は、戦後、78年が経過した現在も継続していて、まるでそのまま敗戦の様相をとどめる「シイラカンス」といってよい存在なのだ。
ところで、「航空管制権」と「自衛隊の指揮権」を売り渡したことが、どのような意味を持つのかを端的に明らかにしている書物があるので紹介しておく。
それは松尾静磨『日本の航空』である。著者の松尾静磨の経歴であるが、戦前は逓信省航空局に入り航空行政を担当していた。戦後は昭和21(1946)年に逓信省が再設置された折に、航空燈台、ビーコン(無線標識)等アメリカ空軍航空保女施設の維持管理を行う電気通信省航空保安庁初代長官に就任した。その後、昭和26年8月に資本金一億円で日本政府の特殊会社日本航空株式会社の設立に尽力した。その後は、同社専務、副社長を経て、昭和36(1961)年二代目社長に就任している。
その松尾が同書「空では通ぜぬ日本語」[2]の中で次のような一文を載せている。
『……
このように日本の航空管制が未だにすべて米軍の手によって行われているため、基地、航空路のコントローラー(管制員)と、飛行中のパイロット間の連絡に際しても。使用言語は英語オンリーとなっている。日本人パイロットの技術水準は、戦後の空白により、国際的なレベルからかなり立ちおくれており、急速にそのおくれをとりもどそうと努力しているところなのでその上に英語を完全にマスターしなければならないことは、まさに二重の負担である。このような理由から、パイロットの養成にも多大の日時を要するので、日本の民間航空会社にとっては、非常なマイナスとなっている。
しかしこれは単に民間航空のみの問題にとどまらず。発足したての自衛空軍にとっても頭痛の種となっているのである。まして今年(筆者注:1954(昭和29))からは、MSA(筆者注:Mutual Security Act)によりT33ジェット練習機、F86ジェット戦闘機の貸与を受け、いよいよその実地訓練にのり出すようになったのだから、なおさらのことだと思われる。先日、防衛庁の某空軍幕僚と懇談した際、たまたま航空管制の問題に話が及ぶと、彼は「プロペラ機はまだしもだが、ジェット機になると。この問題は実に深刻ですよ。東京から仙台まで約十五分しかかからないので、離陸すると同時に向うの基地と無電連絡をとらなけれぱならないんですからね。緊急な場合などは、下手な英語ではとても間に合わぬ恐れがあるので、なんとかして欲しいと米軍に泣きついたところ、日米共同作戦をやるのだから、英語がマスターできないようなパイロットはパイロットになる資格がないと一喝されてしまいました」と語っていた。
……』
この一文から、昭和29年当時の日本とアメリカ軍の関係及びそれを定めた行政協定の秘密部分について付いて伺い知ることができる。第一に航空自衛隊は、日米で共同作戦を行うために存在するということである。そのためパイロットと管制官は英語で会話することを求めているのだ。つまり、日本政府は、自衛隊とアメリカ軍の指揮下で共同作戦を行うことを約束していたということになる。もう一つ重要なことは、電気通信省航空保安庁初代長官を務めた高級官僚である松尾静磨も昭和27(1952)年2月28日に締結した安全保障条約に基づく行政協定の詳細を知らなかったということである。どれだけ日本政府にとって重要な秘密であったのかを物語るものである。
最後に、今回の寄稿「航空管制権」を書き進めるうちに、ふと、思い至ったことがあるので書き留めておく。それは成田空港のことである。
1960年代、日本は、高度経済成長により年々増大する航空機による国際輸送の重要性が高まったためと、大型ジェット旅客機が増加したことから羽田の滑走路を拡充することで発着能力を向上させることが望まれていた。しかし、羽田空港の拡張は、アメリカ空軍管制区域(横田飛行場上空の「横田ラプコン(RAPCON、Radar approach control)」)などとの兼ね合いから、航空機の離着陸経路の設定が著しい制約を受けてしまうことになり、拡張を諦めた。その代わりとして政府は、昭和40(1965)年に印旛郡富里村・八街町に新国際空港を建設することを決定した。ところが政府が成田空港建設を一方的に進めたことから、建設に反対する住民と長い闘争を経験することになってしまった。その根本には、自民党がアメリカに航空管制権を売り渡したことから発生する横田空域の問題があったからだが、政府はこの事実をひた隠しにして建設をすすめたことから新空港建設が政治問題化して双方に深い傷を残すことになってしまった。(寄稿:近藤雄三)
P.S.
冒頭でも述べたように、昨年末からの自民党が異常な軍拡を強行する様子は、只ならぬ様相を呈している。これに付いては、筆者と小日向白朗学会事務局長がこれまで小日向白朗の遺品を中心とする資料を整理検討する中で獲得してきた成果を踏まえ緊急に報告することを約束する。
出所:東京都都市整備局
[1] 「047 河井彌八」『第9回国会 参議院 本会議 第9号 昭和25年12月8日』
[2] 松尾静磨『日本の航空』東洋書館(1956年5月4日)49頁。
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