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維新正観(蜷川新著)にみる薩長の頽廃~大野芳文庫から

2023-07-20 | 小日向白朗学会 情報
 大野芳氏が逝かれてから1年と2か月半が過ぎてしまった。古より時の流れは無常であり、人の心も移ろいやすいものである。などと言い訳をしつつ「整理」作業はなかなか進捗しないものの、残された「資料」という名の文字や音声を追っているつもりではある。果たして、幾分かでも大野氏が俯瞰していた世界を垣間見ることが叶うかどうかは疑わしいが、つい最近その中から「維新正観」というタイトルの書を手に取った。書といっても全体がコピーされているものであり、詰めて読まれていた様子が付箋の状態からもうかがわれた。
 「明治維新の正体見たり、枯れ尾花」。そこには見事に平易な文章で法律学者として維新の解説がなされていた。長年の閉鎖的な鎖国状態から我が国を開放し広く世界へと飛翔せしめるための最初の跳躍としての明治維新、などという世迷言はさっぱりと吹っ飛んでしまう内容である。主権概念も知らず、さらに「戦争」の何たるかをも知らずに展開される姑息で執拗な私怨、天皇を騙りながらその実は薩長を主とする藩利藩略、国のガバナンスに対する俯瞰した統治理念の全き欠如…等々、換言すれば、単なるテロリズム、覇道むき出しの権力闘争、人殺し集団の論理が一貫しているものであった。開国派といわれる井伊直弼、攘夷をもって国難としていた仲の良い家茂(注1)と孝明天皇(注2)などを次々に暗殺して、外堀を埋めていった。片や、265年にわたり安寧の世を主導してきた徳川政権を有能なる幕僚ともども塵芥のように放擲してしまった15代将軍慶喜の小心に後押しされたことも勢いを助長させたであったろう。維新、とはそういうものだった。その悪しき初志は、1868年の明治維新から1945年の敗戦を経てもなお息を秘めるがごとく延命し続け、今に至るまで一貫して生き続けているのではないだろうか。読後、こんな杞憂にとらわれてしまうのである。
 その著者の名は蜷川新。結構引用されたりして著名のようだが、私は浅学にして初めて知る名前であった。あの幕末の忠臣小栗上野介忠順公の義理の甥であり、法学者であるという。ウィキペディアによれば、「1873年(明治6年)1月14日~ 1959年(昭和34年)8月17日、86歳で死去。法学者、外交官、大学教授(国際法)。旗本小栗忠順の義理の甥に当る。1912年博士号を得てフランスに留学し、このときに田中義一と親交を結んだ。」などと記されている。
 その蜷川氏の小栗忠順に対する顕彰の念は極めて厚く、維新正観の中で外交、財政に於ける手腕を高く評価しているだけでなく、横須賀造船所・鉄工所創設等我が国産業革命の祖とも評す。もっとも、爾後の明治政府により幕末の徳川政権の実態はすべて隠蔽され、成果のみ薩長による維新の結果としたため表の歴史からは抹殺されたままとなっている。実際には、中堅幕臣らの強気ともいえる外交姿勢は相手国の高い評価を得ただけでなく、維新後の明治政府による阿諛追従に満ちた恥辱外交とは好対照をなすものであった。対ロシア外交で手腕を発揮した川路聖謨(としあきら)らを含め外交に関しては幕末幕臣はつとに有能人材に富んでいた。
 小栗といえば、41歳で上州権田の里(現・群馬県高崎市倉渕町権田)、烏川の河原で原保太郎によって惨殺された。原は板垣退助の指示で殺したというが(のちに蜷川新が原から直接聞きだしている)、その裏に岩倉具視がいた。小栗の首級は館林城で待つ岩倉具視の息子具定による首実検を経て当地の法輪寺に埋葬されたが、のちに盗掘されて権田の東善寺に眠ることとなったのである。小栗が最後のとき約1か月の時間を東善寺で過ごしていたが、筆者は、つい最近同寺を訪ね村上泰賢住職とお話しする機会を得た。村上住職はまるで小栗忠順が乗り移られたかのように、とうとうとその偉業を語られていた(・・・ように感じられた)。墓参も実現して合掌し、ほぼ2時間を同寺で過ごし、私も住職の言われる‘小栗病’に罹患したかのようであった。また、東善寺から車で6~7分、烏川河原の水沼地区に「偉人小栗上野介罪なくして此所に斬らる」と彫られた顕彰慰霊碑がある。書は蜷川新によるものである。(東善寺にて頂いた小栗上野介の史蹟を紹介するパンフレットの写真を添付する。)
 蜷川新は維新正観の中で明治政府について次のように言っている。「維新は万機公論に決すべしというのが、その本体であった。天皇は、その誓文を神に捧げて、その実現を、誓われたのであった。天皇権力万能の主義は、岩倉、伊藤らの明治政府人等が、維新の目的を無視して、プロシャ人、グナイストに教えられて、日本に作り上げた政体であった。即ちそれは、天皇の民主的の誓文を破棄し、独逸流の権力主義の国と変えたのである。それは、政府要人が、その権力維持を、永続せしめようとした一種の権謀であった。」・・・・155年という時間を経て、そろそろ薩長の権謀から解放されてしかるべきであろう。別に私が小栗ゆかりの上州人だから言っているわけではない。
  注1・・・蜷川新氏の父蜷川左衛門尉親賢は当時小姓組頭であり、将軍に扈従して長州征伐に従軍し、常に将軍に近侍していた。それゆえこの事情を熟知しており、それを新の母に伝え母から秘話として幼少時に新に話されていた事実という。
  注2・・・「岩倉はこの暗殺を行った人であるが、初めは失敗し、二度目に成功した」という。このことは由来世人はよく知っていたことである。岩倉は妹を宮中に入れ、女官となし、その女官に命じて天皇を暗殺せしめた。その女官は薩人に殺害せられたという。蜷川新はその話を漢学の師であった清田嘿氏から聞いたという。
(文責:吉田)

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