東京大空襲で焼け出された我が家は、少し離れた隣町の家に
引っ越しました。リヤカーに家財を乗せて、兎に角何処かに
と言う父の判断だったのでしょう。商売が成り立たないから
地方には行けなかったようです。焼け残った家も、連日空襲
でした。あるとき凄い爆弾が落ちて沢山の人が死んだ。と
父が聞いてきました。白い布を被れば爆弾から逃れられると
言いましたが、焼け出された我が家には白い布は手ぬぐいぐらいだ。
と母が言っていました。爆弾より私は艦載機が怖かったです。
姉のご主人は、衛生兵でした。終戦になって復員しましたが、すぐに
呼び戻されて、沢山のお金を貰い、ご両親に渡して秘密の任務に行きました。
着いたところが広島で、沢山の被災した人の治療をしたそうです。
多分放射能に汚染されたでしょう。でも姉と結婚して二人の子にも恵まれて
幸せな人でした。息子が無事復員して、すぐにまた重要な任務に行く。その時の
御両親の気持ちはどのようなものだったでしょう。
我が家は長兄は、ニューギニアで戦死。次兄は横須賀から帰ってきました。
義兄も、兄達も命をかけて国のために頑張りました。
戦争は辛い事でした。お国のために命をかけた若者が沢山いたことに
感謝します。
あるとき夕涼みで縁台の座っていた父達に、見かけぬ男が来て、戦争の話をして、
戦死した人を、犬死にと言ったそうです。父達は怒って後を追いかけましたが、
素早く消えたそうです。あいつはああやって戻ってきたんだな、こん畜生~
とみんなで悔しがったそうです。
戦災で亡くなった方、戦死した方々、原爆で一瞬にして亡くなった方々、
幸せだった土地が戦場になってなくなった方々。
遙か南溟の果てでまだお骨も戻ってこない兵士達の、ご冥福を祈ります。