ちょっと今日は長文で、申し訳ない。
たぶん、半分も読めないかもね。
では、スタートォー。
「道徳的自警団」という言葉があるそうだ。
まさに今の日本に蔓延するクレーマー達のことを指すらしい。
当の本人との関係はまるで無く、事件や犯罪でもない
「不倫」や「浮気」、「セクハラ」の話題が大好きで、
「他人の喧嘩」や「誹謗中傷」も大好きな人たちだ。
そして彼らは、このような低俗な話題を見つけると、
一度ならず繰り返し叫び続けるのだ。
「こんな人たちは絶対に許してはいけない。」
「無責任すぎる。」
「道徳心のかけらもない人でなし」
「当然、社会から制裁を受けるべき」
と、自分はまるで裁判官か聖人のようにシュプレヒコールを絶叫する。
その様子は集団でリンチして興奮しているようにも見える。
いったい、それが彼らと何の関係があるのか。
なぜ、他人の行状にそこまで目くじらを立てるのか。
いったい、このクレーマーたちは何に怒っているのだろう。
自分のことはどこかに置いて、他人のあら探しにばかり興味がわくらしい。
また、それに油を注ぐのが、
同じくあら探しが大好きなテレビを中心としたマスコミ。
そこでも怪しげなコメンテーター達が、
テレビ局の意に沿おうと忖度して、言いたい放題に無責任なことを言う。
ところが当の司会やコメンテーター達も番組が終われば、同じ人間だ。
若い女を見れば胸や尻を見るし、かわいい子を見れば声をかけたくなる。
こんなことは当たり前のことで、
この本能を持たない者がいたら、それはむしろ人間ではあるまい。
ところが、偽善者のコメンテーター達は、いかにも倫理の体現者のごとく、
俎上に上げられた被告人をよってたかって滅多切りにしてみせる。
茶番もいいところだ。
それによって、誹謗中傷を浴びた人たちがどれほど苦しむかなど、
毛ほども気にもかけないようだ。
まさに集団リンチだが、その自覚はないのだろう。
こんなものを喜んでみる視聴者がいるから、
そのニーズを満たしてあげる、
くらいのつもりで発言しているのだろう。
ところで、『パーキンソンの凡俗法則』という有名な研究がある。
下記に「」書きで紹介する内容は、出典先が不明であるが
何かを読んでいた際に、よい言葉だと思いメモ帳に書き取っておいたものだ。
出典元には申し訳ないが、まさに「不倫」の話題で盛り上がる方々を、
ある一面で的確に表現しているので、この機会に転載させていただく。
《パーキンソンの凡俗法則》
「組織は、些細な物事に対して、特に不釣合いなほど重点を置く。
『自転車置き場』『自転車置き場の色』ともいう。
例として、
原子炉の建設計画は余りにも複雑であるため、一般人には理解ができない。
このため一般人は、
話し合っている人々は理解しているのであろう、
と思い込み、口を挟まない。
強固な意見を持っている人が、情報が不十分であることを知られないように、
一般人を押さえ込むことすらある。
このため、審議は粛々と進む。
この一方で自転車置き場について話し合うときは、
材質といった些細な話題が議論の中心となり、
そもそも自転車置き場が必要なのか、といった本質的な議論は起こらない。
次に委員会においての議題が、
コーヒーの購入といった身近なものになった場合には、
その議論はさらに白熱し、時間を最も消費する。
関係者の誰もが自分のアイデアを加えることによって、
自分の存在を誇示したがるのである。」
どうでしょう。この『パーキンソンの凡俗法則』。
まさに3面記事の内容に対して潔癖性を持ち出し、
これぞ「正論」とばかり自論を述べる。
そして自分の正しさを証明しようとするあまり、
「3面記事で取り上げられた男女」をヒステリックに猛攻撃する。
男には「女たらし」、女には「淫売」呼ばわりする。
このことは、実は、彼らの知性がこの程度の話題にしか反応できないことを示している、
といえるのかもしれない。
複雑化する国際情勢や、仮想通貨問題、国内の少子高齢化問題
などといった話題を彼らに振ったところで、
何ら反応することができないのではないだろうか。
あるいは、反応してもせいぜい「ヘイトスピーチ反対」とか
「沖縄の米軍基地は撤去すべきだ」程度の感情的なものではないだろうか。
近年のこの「他人のあら捜し」的風潮は、
社会に「監視」という悪害をもたらし、
人々の生活をぎすぎすした息苦しいものにしている。
自分たちで騒いで、自分たちの首を絞めている。
平和といえば平和な話だが。。
たとえば、極端すぎるほどの「プライバシー尊重」や「嫌煙運動」、
一方的過ぎる「弱者保護活動」や「自然や動物保護活動」、
義務を伴わない「個人の権利意識」、「妄想的被害者意識」、「言葉狩り」等々。
世の中はクレーマーだらけである。
ネット社会の「負」の面といえる。
ネットは、少数意見を発表できる有難いツールではあるのだが、
同時に、社会に不満を抱くヒステリッククレーマーにも場を提供してしまった。
クレーマーという人々は、短気で、
しかも自分の身を振り返ってみることができない人達だ、と私は思っている。
だから、社会や周囲に巻き起こるトラブルを解決したければ、
他者や制度そのものを変えなきゃいけないと思っている。
本当は、「自分が成長しなきゃ何も変わらない」ってことがわからない。
自分に降りかかる問題の原因をすべて他者に求めようとする。
そして他者の考え方を変えさせようとする。
同じ理屈で社会に問題があると考える。
世の中が悪いから自分は報われないのだ、と。
でも、自分の周囲で起きるあらゆる問題は、すべて、自分自身が起こしている。
100%といってもよいかもしれない。
仏教用語に貪・瞋・痴(とん・じん・ち)という言葉がある。
「我欲のままむさぼること」・「怒りや憎しみ」・「無知でおろかなこと」のことである。
これが、人間が克服しなければいけない三つの煩悩だと仏教で教えている。
結局これがすべての苦しみの元になっている。
逆に言うと
「欲してもむさぼることなく、分け合うことを知っていて」、
「心に憎しみや怒りをかんじることがなく」、「先人の知恵をよく学び、自分のものとする」
ことで、よい人生を歩むことができる、ということになる。
ま、簡単に言えば「自分の身体から発する欲に振り回されるな」ということ。
肉体は生まれて80年で塵に返るもの。
「私」そのものではない。本当の「私」はこの肉体とは別にある。
「私」はこの肉体を活用させてもらっているだけである、
と考えるのである。
そしたら「うらみつらみ、怒り、悲しみ」に振り回されなくなるし、
自意識過剰なんてこともなくなる。
「病気」を不必要に心配することもなくなるし、
「死ぬ」ことも当たり前に受け止めることができるようになる。
物事をあるがままに見て、
そこに余計な感情でもって歪んだ評価を与えないようになる。
たとえば、車が渋滞に巻き込まれたとき「運が悪いな」
とか「前の車があのときサッサと追い越さないからこんなことになったんだ」
とか考えるのは、自分の思考がそういう理論を組み立てただけだ。
車が渋滞したら渋滞が解けるのを待つか、別のルートに変えればよいだけの話なのだが、
かってに自分でそのように思考しておいて、イライラする。
だったら自分の思考を変えればよい。
町を歩いていて、ある人と目が合った。
ただそれだけのことなのに「なんであの人は私をにらむんだろう。気に食わないわ」
とか「彼女、俺に気があるのかな」なんて勝手なことを考える。
全部自分で作った話でしかない。
ただそこに居た人と目が合っただけなのに。
いちいちがこんな感じで、人は勝手な人間関係を作っていく。
そして気にしたり、苦しんだり、期待に応えようとしたり、
他人によい人物と思われようとしたり、
よい評価を受けようとしたりする。
つまらぬことだ。
まずは自分の思考には癖があることを自覚すること。
そして、その癖のために
どれほど自分や他人が苦しんだり、損をしているか、を認めること。
そして事象は事象であり、そこに「色」をつけているのは自分であることを、
機会あるごとに自覚すること。
その上で「色」をつけることをやめる。
そのうち
実際にはない、仮想の苦しみから開放されることができます。
日本人の悪い特徴の一つに
「他人への不必要な干渉」
があるように思います。
上記の「道徳的自警団」の皆さんもその傾向がいささか強く出ているだけ、と言えるのかもしれません。
でもやはり「悪い癖」であるには違いありません。
日本をもっと明るく伸びやかな社会にするためには、
一人ひとりが自分磨きを楽しみ、かつ、
お互いがお互いの成長を促しあう関係を作っていくことだと思います。
そこに人間としての「本物の喜び」もあります。
ぜったいに「他人の足引っ張り」や「噂話を喜ぶ」なんてことがないようにしていきたいものです。
ま、理想的願望ではありますが・・