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徳之島の地名考(その2)「カナン」と「アマミ」

2019-04-27 17:44:30 | 日記

地名考その2です。

かなりローカルでマニアックな話題なので、

ほとんど意味がわからないかも・・・

 

今日は、もう開き直って徹底的に「徳之島の地名考」です。

ほんとはやらなくちゃいけないことがあるんだけど、

まるで中間・期末テスト前の中高生状態です

おいおい、お前の頭は大丈夫かい?

自制心というものがなくなっとるではないか。

(これ心の声です。)

無視します。

たぶん、昨日敬愛するH先生が亡くなられたことで、

少し動揺しているのかもしれません。

 

 

 

 

さて

だいぶ以前からのことなのですが、

「カナミ」、「カナマ」、「カンニ」は「彼見」が語源だと考えています。

と言っても誰にもわからないでしょうから

説明しますと、

これらは徳之島町の地名で、順番に

〇「金見」(灯台が建っていて、徳之島一の絶景ポイント)、

〇「金間」(金間崎といって、西郷隆盛が徳之島に島流しとなった時

   最初に上陸した村が山(さん)村ですが、その港の入り口にあたる場所)、

〇「神之嶺」(カミノミネと呼びます。島口あるいは古名がカンニで

  「カンニンウシシギャ伝承」が残されています。四方を見渡せる絶景の地)

となります。

(下は、金見の写真です。この先に奄美大島が見えます)

いずれも、大変見晴らしのよい場所です。

音も似ており、

「彼地」や「彼方」などと同じ語源の「カナ」に「見」が付いた言葉で間違いないと思います。

この地名は、不思議なことですが、

徳之島の東側にあたる徳之島町にのみに分布しています。

奄美、沖縄地方でよく知られている

「グスク」地名も徳之島町側に多く分布しています。

 

グスクとは概ね丘状の地形にあり、

村の防御施設や見張り所、狼煙台、

又はアジと呼ばれた村主の屋敷が置かれていたと考えられています。

 

 

中世日本では、盗賊、海賊のみならず

公家、大名ですら村を襲撃したり、「人さらい」をするのは当たり前でしたから、

各村々は、共同して自衛を図らねば生き残れませんでした。

盗賊たちは、時には「略奪」「放火」「虐殺」も行いました。

このため、多くの村に専用の「城(じょう)」があり、「見張り所」があり、

武装した賊の集団に襲われそうになると、

いっせいに家財を持って、老若男女が山城へと逃げ込み、防御を固めました。

そこには作場小屋のような仮住居が作られたといいます。

中には、避難が間に合わずに切り殺されたり、さらわれる人々もいました。

生け捕りされた人々は、「身代金」の要求に使われたり、

奴隷として安価に売買されました。

そのための市場もあちらこちらで普通に開かれていたようです。

規律の行き届いた今の日本からは、想像が付きません。

 

 

奄美の島々の場合、そのような武装集団は海上から現れました。

徳之島では、主に北東の方向から海賊は襲ってきたようです。

これは、グスクや「カナミ」地名が徳之島町側に多く見られることからわかります。

 

もっとも、「グスク」については港の数とも比例しているようで、

徳之島西部は断崖が発達していて近寄れず、

南部はサンゴ礁に阻まれて、

賊たちも大挙して襲うには近寄りがたかったのでしょう。

また、亀津村には意外なほどにグスクの数が少ないわけですが、

中世の頃から、数千の人口を抱えた大きな村であった可能性が高く、

いかに賊といえども、襲うには大きすぎたのだろうと思います。

1609年に琉球征伐に出向いた際に、亀津村の隣村秋徳で戦となったわけですが、

このときの薩摩藩の記録にも亀津村は「人過分に居り」と書かれていて、

既にたいへん大きな村だったようです。

琉球時代、薩摩時代を通じて

徳之島の支配役所が置かれたのは自然なことだったと思います。

たぶん遠い昔から、亀津村は徳之島の政治、経済などの中心地であったのでしょう。

 

このように考えると、

「グスク」が、決まって村の背後の高台にあり、

その多くが立てこもりやすい地形になっている理由がわかります。

また各村に2~4箇所のグスクがあることや、

狼煙台であったと思われるグスクが見られるのも当然でしょう。

なお、このようなグスクのいくつかは、

村の一番高い場所だったり、

泉があることが多いといった条件が揃っていたことから、

後に政治が安定してきた「ノロ(女性の宗教祭祀者)」の時代には、

拝み所へと変異していった可能性が高いと見ています。

 

 

この「村の城」を本土では、「ジョウ」と呼んだようです。

南西諸島一帯では、この城を「グスク、ウスク」と呼びます。

実は、未だに定義や語源がはっきりしていません。

後代、ノロの祭祀場になったケースも見られ、

また、文字通り支配者の住む城で、山城式の戦闘的構造であったり、

物見場であったり、村人の避難所であったりと

多用な使われ方をしたことがその原因です。

それらすべてを「グスク」と称しているのです。

 

私は、「グスク」を「スク」は「シキ、キ」と同義で

「城」の古名であろうと考えています。

実際、福岡の「水城(みずき)」や大分の「臼杵(うすき)」

といった地名は全国に数多くみられます。

 

なお、厳密には

「城」と書いて「シキ」と呼ぶ場合は、石をめぐらした城を指し、

「キ」は柵をめぐらした城を言うようです。

いずれにしても、「グスク」は緊急時の防御や避難を目的としたもので、

そこに常住するものではありません。

村中が一致団結して、身の安全を図るための大事な施設ですから、

「御」の敬称をつけて、「ウスク、グスク」と呼んだのでしょう。

 

 

実を言うと、

「スク」が「村」という意味であることだけは、はっきりしています。

朝鮮の「白村江(はくすきえ)」、

人名の「村主(すぐり)」、

といった音が残っていることからも証明できます。

古代の村が柵で囲まれることが多かったことから、

「城」を指す言葉へと変化したのでしょうか。

 

しかしながら「スク」は朝鮮や日本だけではなく、

ロシア語でも「ハバロフスク」とか「ノボシビルスク」のように

「村、町」の意味で使うようですから、

中央アジア、シベリア、東アジアにかけた

かなり広い範囲で使われていたようではありますが。。

 

なお、やはり広範囲で、

「キ」は、古くから「長官」あるいは「支配域」の意味としても使われており、

これは「城」から「城主」の意味へと、転化していった形なのかもしれません。

 

 

ところで、はじめの「カナン」地名にもどって、

これに個人的な新見解を加えます。

 島口に「アマ」「クマ」という言い方があり、

「アマ」は「彼方(あちら)」、「クマ」は「此方(こちら)」を意味します。

そこで連想されるのが、

未だに解明できていない「アマミ」地名です。

 「海見」(7世紀の文献に始めて登場した時は「海見嶋」と書かれていましたが、

714年には「奄美」と表記が変わりました)とあったり、

琉球国の始祖アマミクが光臨した地なので「アマミ」と呼ぶとか、

俗に雨が多いから「雨見」とか、

いろいろいわれています。

 

もっとも、アマミク説なら

「ミ」は通常「神」を指す(例えば「ワダツミ」=「海の神」)ので、

「天神」あるいは「雨神」と表記すべきとは思いますが。

あまりにも神がかり過ぎているようです。

地名としては、後世的で今ひとつの感があります。

むしろ、他の島名と同様に、

ずばり、「遠くを見る」あるいは「遠くから見える」意味の

「彼方見(あまみ)」と考えたほうがよいのではないでしょうか。

 

島名を決めるのは誰かと言いますと、

多くの場合、実は船乗り達なのだそうです。

海から見た島の印象を名前にするわけです。

例えば、徳之島は「トク」がもともとの名前です。

この「トク」は、「徳之島の地名考(その1)」

で紹介した「嶽」の意味で、

主峰井之川岳(645m)とアメキ嶽(533m)が

比較的、平らかな島に屹立している姿が

海上からは印象深かったのであろうと思います。

 

 「アマミ島」は「奄美大島」を指す言葉です。

沖縄島に次ぐとても大きな島で、

全体に4,5百mの高い山が連なっていて、

船乗りたちの重要な目印になったうえ、

深い入り江も多く、

この島沿いを通過する間は、遭難の危険から守られましたから、

その存在感と安心感は大きなものであったでしょう。

後代になると、

船乗りたちは「奄美嶋」を「大島」と呼ぶようになり、

「奄美」は「奄美諸島」を指す言葉に変化していきました。

 

 

ここまで話を進めておいて、こんなことを言うのもどうかと思いますが、

 「奄美」の語源を「彼方(あま)見(み)」とするには、

まだ説得力に欠けるようです。

本土でも「あなた」「こなた」と古くは言ったようですから

「彼」を「ア」と呼ぶことに問題はなく、

日本古語と方言の「アマ」「クマ」は一致します。

それでも漠然とした違和感が残るのも事実。

 

不思議なことに

徳之島にだけ、この「カナミ」地名が残っているのです。

もっとも、

島名は船乗りが決めるのであって、

地元の人間ではないですから、

大島に地名としての「カナミ」がなくても困るわけではないのですが。。

 

 

 

現時点では、

「遠くから見える島」と言う意味での「彼方見(あまみ)」を

当座、私の「奄美」地名考としておきます。

 「うんにゃ、そりゃ違う。私はこのように考える」

 といった何か他の案をお持ちの人は、

下のコメント欄で、ぜひお知らせくださいね。

                       


徳之島の地名考(その1)

2019-04-27 16:15:41 | 日記

なんだかなあ。

他の調べものをしていたら、

何故だか「徳之島の地名考」に走ってしまった。

ほんと、私の頭は「思いつき頭」

一貫性がなくて

あっちにいったり、こっちにいったり

トイレに行こうと思って、立ち上がったのに

気が付いたら洗い物をしている、

一事が万事、こんな調子。

これをぼけ老人と言わずして

何を言う、

って言う感じ。

気持ちまだ早いはずだ、

と自分を慰めつつ

「やばいかもしれない」

という不安を拭えない昨今であります。

 

ところで、今日の地名考は、

稲村公望先生の「続・黒潮文明論」に紹介されていた一こま

(思い出した。これをチラミしたから地名考が止まらなくなったのだ)

からスタートです。

続けざまもう一本行きます。

 

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徳之島の主峰となる山々には、「岳(ウデ、デー)」が使われている。

南から犬田布嶽(いんたぶだけ)、剥嶽(はげだけ)、ヨブサ嶽、井之川嶽(イノウデ)、母間嶽(ボマウデ)、アメキ嶽、剥嶽(はげだけ、上記とは別山)の7峰である。

美名田山(やま)等の他の山々の場合は、井之川岳、天城岳等と異なり、中世以降の新たにやってきた農耕民が付けた名前だろう。

(ごめんなさい。稲村先生。上記は、先生の文章を元に私があれこれと追加編集をしてしまい、元の姿をとどめなくなってしまいました。)

 

  登山家である古川純一『日本超古代地名解』(彩流社)は解説する。

  「沖縄本島の山は、岳が30で、山が4のみであるが、対馬では岳は7で、山が42となり、佐渡が島ではついに岳は0となり、山(やま)が41、山(さん)が6、峯が3になる。津軽半島ではまた岳が多くなる。

日本の中央部で後続の人種によって岳が消され山(やま)や山(さん)に変えられたのであり、岳が山より古いことを意味している。これは山と岳は日本に渡来した時期が異なっている証明である。

山の呼び方は、古い順に、峯(ね)、根(ね)、嶺(みね)、岳(だけ)、山(やま)、峯(みね)、山(さん)になる。古い峯(ね)、根は少ない。

先に『遠野物語』に関連して早池峰山のことを書いたが、ハヤチは疾風のことであるから、風の吹きすさぶ嶺(ね)の山(さん)という意味になる。「ね」は日光や草津、そして南アルプスの白根山の「ね」となって残っている。

細かい議論をすると、峯は尖った形状を指名しているが、岳はなだらかな傾斜地の連なり示しているのではないか。 

たとえば、錦江湾の入り口にある開聞岳の秀麗さが岳であり、高千穂の峯(みね)となると逆矛が立てられているかのように尖って屹立する山のことである。霧島山はアイヌ語で山のことをキリ、シリといい、シマとは石のことだから、火山岩の山を形容しているに違いない。

なるほど、日本国中に霧や桐の字を持つ山や峠がある。徳之島の松原集落では人間の後頭部の尖った部分を「みにしゅし」というが、「みに」は峯に繋がる。

一説に、岳は西アジアのウル語のダカンから来ているとあり、語源がベルシアにあるとも説く。」

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若干の疑問は残るものの、

人類の移動史、あるいはその集団ごとの文化史を考える上で、大変参考になる地名考である。

ただし、

上記「アイヌ語」は「古語」と言い換えなければなりません。

既に20年ほど前になりますが、

アイヌ人がオホーツクを渡って日本に来たのは、5世紀頃のことと判明しています。

この研究は、北海道大学が行い、DNA調査によって出した結論です。

なんと先住縄文人と交わった時期等まで推測できるようです。

つまり、純粋なアイヌ語は歌や伝承等に残るのみで、

今に残る言葉の多くは、

すでに在地日本で使われていた言葉であるということ。

無論、アイヌ特有の言語も残ったには違いありませんが、

アイヌ人が日本にやって来たとき、

在地の縄文人のほうが圧倒的に多いわけですから、

新参者のアイヌ人は、

在地住民の言葉を覚えないことには生活できなかったはずです。

後にアイヌ人は、夷人(えびす、毛深い人)として特殊扱いされたことで、

逆に独自の文化が残されることになり、

日本の古代語もそこに含まれる形で伝承された、と考えるべきでしょう。

 

日本語の多くがアイヌ語だと考える旧慣は、

本日ただいまより止めなければ、

言語学上、歴史学上の研究に大きな間違いを生じることになります。

 

 

なお、古川純一氏の本に

 「沖縄本島の山は、岳が30で、山が4のみであるが、対馬では岳は7で、山が42となり、佐渡が島ではついに岳は0となり、山(やま)が41、山(さん)が6、峯が3になる。津軽半島ではまた岳が多くなる。」

と紹介されています。

徳之島の場合はどうなのかというと

岳が7つ、山が12でした。

(参考地図は、明治13年作成「鹿児島縣下徳之島全圖」神戸大学付属図書館)

 

もちろんこれは主だった山だけで、

島内にはこのほかにもたくさんの小山があります。

ただし、それらはすべて「山(やま)」です。

 

 

ちなみにではありますが、古川氏の文中に

「徳之島の松原集落では人間の後頭部の尖った部分を「みにしゅし」という・・・」

ともありました。

そういえば、私も子供のころ、

絶壁頭を「サバ」

きれいな頭を「ミニ」

と言っていたけど、どうやらここから来ていたみたいですねエ。