犠牲者数千人、負傷者3万人以上と言われる
「天安門事件から30年-日本の教訓」
上島嘉郎さんのメルマガに
とても重要な話が出ていました。
私がまとめなおすよりも
上島さんの美しい文体のまま、紹介したほうがよいと思います。
長いですが、その一部を転載させていただきます。
日本外交を考える上で、
この情報を読んでおくことは必須だと思います。
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(前略)
当時の李鵬首相は事件の約3カ月後に
犠牲者を「319人」と発表しましたが、
極めて信憑性に乏しいもので、
実際の犠牲者は数千人から1万人規模
とみられています。
30年を経た今日でも事件をめぐる
基本的な事実は開示されていません。
中国当局は、天安門事件に繋がる
「1989」や「64」という数字を
ネット検閲の対象にしてきました。
ウィキペディアの中国語版は
2015年から閲覧できなくなっていましたが、
この5月17日、全言語ページが
ウィキメディア財団に何ら説明も通告も
ないまま中国当局によって遮断されました。 https://www.afpbb.com/articles/-/3225267
さらに、グーグルやフェイスブックを
はじめとする多くの海外サイトを
閲覧できなくしています。
中国当局の姿勢は、天安門事件について
「中国の巨大な発展の成果は、
政府が当時取った行動が
完全に正しかったことを表している」
(6月4日、中国外務省の 耿爽・副報道局長の記者会見発言)
というもので、全き自己正当化です。
さて、当時の日本はこうした
中国にどのように接したか。
リクルート事件で失脚した
竹下登から宇野宗佑、海部俊樹、宮澤喜一
と3代の内閣を振り返ると、
政治が機能喪失する急坂を転げ落ちる様を
見るようでした。
宇野首相は事実上
女性スキャンダルによって在任69日で倒れ、
後を継いだ海部首相は小沢一郎自民党幹事長に
「神輿は軽くてパーがいい」
と嘯(うそぶ)かれたと伝えられます。
天安門事件当日の首相は宇野氏でしたが、
その後、国際社会が中国に制裁を科したなかで、
それをいち早く緩めたのが海部首相です。
中国当局の人権と民主化弾圧を厳しく糾弾し、
西側諸国を中心に経済制裁による
対中包囲網が形成されたなか、
日本は真っ先に対中円借款を再開しました。
さらに平成3(1991)年8月、
海部氏は天安門事件後、
主要国の首脳として初めて訪中したのです。
〈海部訪中の実現を中国の外務当局者は「対日外交
の大きな勝利だ」と位置付けていたという。当時の日本
政府の思惑について、海部訪中に関わった日中関係者
は「隣国として、中国を孤立させてはいけないという思
いがあった」と説明した上で「中国を国際社会に巻き込
めば、少しずつ民主化に向かうのではないかという期待
もあった」と話した。
海部訪中の翌年には日本が中国側の要望を受け入れる
形で天皇訪中も実現。国際社会での中国の孤立解消に
日本が大きな役割を果たした形となった。〉
(令和元年6月5日付『産経新聞』〈【矢板明夫の中国点描】
北京に「鶴の恩返し」はない〉)
産経の記事にある天皇訪中は、
平成4(1992)年10月のことです。
海部内閣を引き継いだ宮澤内閣は
「日中友好のため」として
天皇、皇后両陛下の御訪中を決めました。
両陛下の御訪中には国内に
反対意見も多くあったのですが、
"親中派"が押し切った格好になりました。
2003年3月に引退した
中国の銭其琛元副首相が、
自身の回顧録『外交十年』で、
この天皇訪中について、
天安門事件によって西側から受けた
制裁を打破する戦略的な狙いがあった
ことを明らかにしています。
銭氏ははっきり、
「日本は中国に制裁を科した
西側の連合戦線の中で弱い部分であり、
おのずから中国が西側の制裁を
打ち破る最も適切な突破口になった」
と述べ、天皇訪中が実現すれば、
「西側各国が中国との高いレベルの
相互訪問を中止した状況を
打破できるのみならず、
(中略)
日本の民衆に日中善隣友好政策を
もっと支持させるようになる」
と記したのです。
中国側からすれば、日本側の
「日中友好」なぞとは関係なしに、
天皇訪中には「西側の制裁を打ち破る突破口」
という狙いがあり、銭氏は
「この時期の天皇訪中は
西側の対中制裁を打破する上で
積極的な効果があり、
その意義は明らかに中日両国関係の
範囲を超えていた」
と、訪中実現にこぎつけた
自身の成果を誇示しています。
銭氏の回顧録が物語るのは
無残な日本外交の敗北で、
「友好幻想」に囚われた摩擦回避、
先行譲歩は
中国に利用されるだけだということです。
付言すれば、平成9(1997)年5月9日、
自民党行政改革推進本部の総会で
当時の武藤嘉文総務庁長官が、
平成7年にオーストラリアの
キーティング首相から聞かされた
としてこんな話を明かしています。
中国の李鵬首相が オーストラリアを訪問した際、
キーティング首相に
「日本などという国はあと30年もすれば
潰れてなくなっている」
と語ったというのです。
天安門事件に対する国際社会の制裁を
「日中友好」のためいち早く解除し、
天皇訪中を実現して"親中外交"につとめた日本を、
中国の首脳部は感謝するどころか
こう見なしていたことを、
日本人は冷静に、はっきり記憶に とどめておくべきです。
(後略)
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小沢一郎は数千人の訪問団をつれて北京に行った際
「私は、人民解放軍の野戦軍司令官である」
と述べた人物です。
かつて民主党政権時代の「破壊のトロイカ」三人衆の一人として
日本をボロボロにしました。
しかも、その間なぜか収入は議員歳費しかないのに
かなりな蓄財を成し遂げました。
鄧小平のあとを継いだ
江沢民は、反日教育を支那において強力に推し進めた張本人ですが、
彼は、父親が日本政府の協力者であったし、
本人も日本語が話せたようです。
それゆえ、一層反日的態度を強調したわけです。
シナ人らしいといえば、まさにその典型。
平気で恩をあだで返します。
たしか、日本で入院して命を助けられたこともあったはずです。
日本は、自分の命の恩人でもあったのです。
福沢諭吉がショックを受けた「シナ人」の特徴を見事に体現されました。
「北京に『鶴の恩返し』はない」
このことを日本人は幾度も幾度も肝に銘じなければいけません。
「微笑み外交」
いったい、幾度裏切られればわかるのでしょう。
まあ、自戒の意味も込めて
「北京に『鶴の恩返し』はない」
中華人を見たら、すぐに頭に浮かぶようになるまで
繰り返しましょう。