密教、つまり真言密教のことですが
以前、鹿児島最福寺が出していた「最友」を、私よく読んでいました。
難解な密教の奥義を、わかりやすく説いてくれるので
大変勉強になりました。
「最友」で真言奥義を解説されていたのは
弘法大師空海以来の「百万枚護摩行者」である池口恵観大僧正で
徳之島にも来てくださったことがあります。
ラッキーなことに、直接お会いすることができました。
少しも偉そうな方ではないので、そのときは少し驚きました。
その少し前に別の宗派の大僧正と、ある懇親会で飲む機会があり、
少し話もさせていただきましたが、
その方は、どことなく威圧的で、かつ世俗的な印象があり、
「本当に坊さんかいな」
といささかがっかりしましたので
池口恵観大僧正はどうなのかな、と思っていましたが
お話を聞くと、飾らない、とても真面目な方のようでした。
今は、空海が入定される最後の日に彫刻したという「廿日大師」を本尊とする
高野山真言宗別格本山「清浄心院」という
お寺の住職となられましたので、「最友」も休刊(?)しているようです。
ところで、
この「最友」が休刊する少し前に
恵観先生の体感された
珍しい「悟り」の世界
について書かれた講演録が3,4回に分けて掲載されていました。
その内容は、私の感じていたものと、とても似ていて
「あ、間違ってはいなかったんだ」と大変心強く思いました。
もちろん、私などとは違って
恵観先生は、500年来の修験者の家系の者として、
一生を修行に明け暮れ、
しかも弘法大師空海以来、
1200年ぶりに「百万枚護摩行」を達成された
大行者ですから、
悟りに至った苦行の重み、体感された「悟り」の深さ
などなど全く及ぶものではありませんが、
講演で表現された宇宙の真理には、共感するものがありました。
下に、その「第2回」の講演録を紹介させていただきます。
(「第1回」分を見つけることができませんでした。残念。)
修験者の「悟り」です。
とても参考になると思います。
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平成29年10月12日東京高野山東京別院にて
池口恵観「第2回密教特別講演会 真言密教・祈りの秘鑰(ひやく)『眼に見えない世界を感じるために』」
密教では、生と死はひとつの全体として捉えられ、「この世」と「あの世」は同時に存在し、そこでは死は新たな生の始まりに過ぎず、無意識が時間と空間を超越しているのと同じく、あの世も時間と言う概念はない。
また、欲望も物質的条件も超越したエネルギーの波のようなその世界では、愛と知恵に満ち溢れ、感情のある現在・過去・未来の生命体の存在が微細な粒子となって集合し、巨大な一つの意識となって、雲のように連なっている。
そこでは、一つの小さな粒子が人間であり、本来、私たち一人ひとりの意識であり、それが集合しつながった状態は、水は氷や水蒸気となって循環するように、人間の魂や意識といったものも水と同じく循環している。
私たちの意識は大海の一滴であり、壮大な輪廻と言う循環を繰り返している。
その中で生きる私たちが、純粋で素直な思で深く物事を認識し、すべてが変容していくと言うことに気づけば、自分の中の柔らかく、ふわふわとした何か、その何物にも打ち砕かれることも、変化させられることもない、本質的な存在に気づくことができる。
(話は変わるが)アメリカを例に出せば、西洋医学だけに基づく医療が既に50%を切り、ハーバード大、コロンビア大など権威ある大学が「祈り」を研究の対象とし、その研究例は1200を超え、「精神神経免疫学」という新しい分野が開設され、古来より人間が続けてきた「祈り」が、最先端の研究分野になりつつある。
密教が重んじてきた「祈り」の効果や、その作用が、現在科学的に解明されようとしている。
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なんだか、真言密教の宣伝みたいになってしまいましたが
宗派は関係なく、
結局、真剣に行に打ち込んだものにだけ見える何かがあるということなんでしょう。
日常生活のみで、特に修行をしているわけでもない人たちも
似たような感覚は感じることができると思いますが
気を失うような、厳しい行の中で感じた「悟り」は
より深く、「実感」する感覚なんだろうと思います。
私流に解釈すれば、
〇 宇宙は一つの意識体で、我々はそれを個別に感じているゆえ、別物と思いがちだが、その意識は同一のもの
〇循環する意識が、たまたま人間と言う固体に宿っている状態、それが私
〇現在・過去・未来が同時に混在し、「気」として動いている。「祈り」はその「気」の動きと同調させる働きを持つ
〇逆に言うと、その「気」の動きから外れることで不協和音が起き、「苦しみ」は生まれる
ということでしょうか。
次回は、第3回講演録を紹介しますね。
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