沈んでた桐ケ台高校ベンチにいつのまにか活気が戻っていた。とも子に代打が出され、替わりに唐沢がマウンドに立ったからだ。とも子には歯が立たなかったが、このピッチャーなら撃てるかも、とゆー希望が浮かんできたんだろう。
が、最初のバッターの結果が、その希望をはかなく打ち砕いた。微妙に落ちる変化球を引っかけ、あえなく内野ゴロに倒れたのだ。しかし、今の唐沢の変化球は、あまり見たことがないものだった。カーブでもないし、フォークボールでもないし、スライダーでもないし…
次のバッターも同じ変化球を引っかけ、内野ゴロに倒れた。どうやら、カットボールを投げてるらしい。カットボールとは、ストレートとスライダーの中間の握りで、それなりに変化する変化球である。ストレートとほぼ同じ速度だが、打者の手元で微妙に変化するので、バッターはジャストミートしたつもりでも、スイートスポットをはずされ、凡打に終わってしまう。撃たして取るタイプのピッチャーには、うってつけの変化球である。唐沢は短期間でよくこの変化球を会得できたものである。正直なところ、オレは唐沢のクローザーとしての力量に懐疑的であったが、これなら安心して見ていられる。
とも子は完璧なピッチャーだが、唯一スタミナに不安があった。そこんところをクローザーの唐沢が補完してくれそうだ。なんか、まじで甲子園への道が見えてきたような気がしてきた。
※
ついに唐沢が最後のバッターを撃ち取った。そのゴロをオレが捕り、そのまま1塁ベースを踏んだ。その瞬間、みんなが飛び上がった。夢にまで見た1勝、それを難攻不落の桐ケ台高校から挙げたんだ。しかも、6対0の圧勝。オレは天にも昇る気分だった。みんなもたぶんそうだろう。
ホームベースを挟んで、桐ケ台高校ナインと試合終了のあいさつ。向こうのナインは、全員顔面蒼白、中には泣き出してるやつもいた。一方オレたちは、破顔になるのを必死にこらえていた。
あいさつが終わると、初めての校歌斉唱。ある程度勝ち進むと校歌のテープを流してくれるのだが、1回戦だとそれはなく、代わりにブラスバンドが演奏し、スタンドの応援団と一緒に校歌を合唱する。しかし、オレたちははなっから負けると思われてたので、ブラスバンドも応援団も1人も来てなかった。仕方がないから、ナインだけで大合唱だ。スタンドのあちらこちらから罵声が飛んで来たが、オレたちはあざけわらうように、気分よく歌ってやった。
※
校歌斉唱が終わると、ベンチ裏の通路で共同インタビューを受けた。オレと監督がお立ち台に上がった。記者の質問が矢継ぎ早に飛んで来た。しかし、オレの心はここにあらずだった。例の裁判の結果を一刻も早く知りたいのだ。いったいどのような判決が出たのだろうか?…
ちなみに、記者の質問の大半は、とも子に関するものだった。でも、オレはとも子のことはあまりしゃべりたくなかった。それはとも子の障害を気遣って… いや、本音を言うと、とも子はオレ1人のものでいて欲しいから、世間にはあまり露出したくないのだ。
きっと今日の試合のVTRが全国放送で流され、とも子は世間の注目の的になると思う。そうなったとき、オレととも子の関係は、いったいどうなってしまうんだろう?…
※
ようやくインタビューが終わると、オレたちは長く暗い通路を歩いた。そのどん詰まりの扉を開けると、そこには数台のタクシーが駐まっていた。我が学園の教師の姿もあった。どうやら、学園が用意してくれたものらしい。
野球部の活動に積極的な高校だと、我が野球部にはそんなものはなく、いつも路線バスか電車での移動だった。しかし、強豪桐ケ台高校に勝ったとなると、我が学園もそれ相応の扱いが必要になったと判断したんだろう。桐ケ台高校ファンのよからぬ仕打ちが怖かったので、これはありがたかった。
タクシーはオレたちナインを乗せると、喧噪やまぬ球場をあとにした。
※
タクシーの後部座席に乗ると、即座にオレの脳裏に「裁判」の文字が浮かんだ。無性に例の裁判の結果を知りたくなった。オレは助手席に座ってる先生から携帯電話を借り、ダイヤルしようとした、が…
「キャプテン、なんで澤田を替えたんですか?」
それは隣りに座った北村の発言だった。くそーっ、こんなときに… しつこいぞ、こいつ!!
「とも子…」
おっと、ここでは「とも子」はまずいな。
「澤田はあのとき、もう限界だったよ」
「なんでそんなこと言えるんですか? まだ1点も獲られてなかったんですよ!! ヒットも1本しか撃たれてなかったのに…」
「唐沢のことを考えて、替えたんだよ。
いいか、北村、リリーフってゆーのはな、ピンチのときに替えられるより、回の頭で替えられた方が、ずーっと投げやすいんだよ。だから、あのタイミングで替えたんだよ」
北村が黙った。でも、目は納得してなかった。もっと説明が必要なのか?
「北村、おまえ、今日の1勝で満足か?」
「え?」
「なあ、甲子園に行きたいと思わないか?」
「キャ、キャプテン、そんなこと考えてたんですか!?」
「いや、こいつは澤田の夢だ」
「え?…」
「澤田は甲子園に行って、優勝する気なんだよ」
北村は唖然としてしまった。ま、それがふつうだろうな。
「甲子園に出るとなると、もう1人クローザーとなるピッチャーがいる。だからあそこで唐沢を試したんだよ」
どうだ、納得したか?
「い、いつ、彼女とそんなこと、話したんですか?」
ちっ、かえってまずいこと言っちまったか… まさか、デート中に聞いたなんて言えないし…
追い打ちをかけるように、北村が質問してきた。
「キャプテンはいつも、彼女を下の名前で呼ぶんですよね…」
オレはフリーズしてしまった。まさか、とも子自身の要望だとは言えないし、取り繕ううそもなかなか浮かんでこなかった。
しばらく沈黙が続いた。と、ふいに裁判の結果を知りたくなった。オレは北村の視線をあえて無視し、携帯電話のダイヤルボタンを押し始めた。
※
携帯電話で聞いた判決は、あまりにも意外なものだった。ほぼ向こうの主張に沿ったものだったらしい。オレは愕然とし、そして憤然とした。たしかにあの朝、おじいちゃんは黄色の点滅信号を無視して、交差点に減速せずに進入した。でも、向こうは、一時停止義務のある赤の点滅信号を無視して、時速100キロ以上の猛スピードで進入してきたんだぞ!! どう考えたって、向こうがいけないだろ!?
桐ケ台高校に勝った余韻が、一気に吹き飛んでしまった…
オレが乗ったタクシーは、一足早く学園に着いた。本当なら他のタクシーの到着を待つべきなのだが、そんな心の余裕はなかった。ともかく、一刻も早く家に帰りたかった。オレは先生に事情を説明し、一目散に帰路についた。
※
家の中は完全に消沈してた。お袋は顔面蒼白でソファに座ってた。親父は真っ赤な顔で拳を握りしめていた。弁護士の先生も、苦虫をかみ潰したような渋い表情だった。先生も今日の判決に憤慨してるようだ。当然控訴である。
今度はオレも裁判に出て、証言することとなった。実は、オレはあの事故の当事者の1人なのに、一度も裁判で証言してなかった。年端が行ってないとゆー先生の配慮だが、こんな判決が出てしまうと、そんなことも言ってられなくなったらしい。
親父とお袋には退室してもらい、オレと先生だけで打ち合わせすることとなった。
※
ふとオレの脳裏に、向こうのクルマの助手席に乗っていた女の子の顔が浮かんできた。ずーっと裁判に出てた先生なら、あの子はどうなったのか、名前はなんてゆーのか、きっと知ってるはず。
「あ、あの~、向こうのクルマに乗ってた女の子、どうなったんですか?」
「え?… あ、あの妹さんの方ね。
いや~、それがどうなったのか、実は私にもわからないんだ」
「え?」
「なぜか知らんが、向こうの訴状に妹さんに係わる部分は1つもなかったんだ。そのせいか、裁判でもまったく触れられてないんだ」
オレは唖然としてしまった。今まで彼女も、当然訴えの対象になってると思っていた。
「な、なんで?…」
「さあ… もしかしたら、それが向こうの弱みかも? 今度調べておくよ」
「お、お願いします…
あの~、名前、なんてゆーんですか?」
「さ~て、なんと言ったかなあ…」
先生はファイルを取り出し、それをめくり始めた。
「え~と、え~と…」
先生はなおもファイルをめくった。その紙をめくる乾いた音が、部屋中に響いた。
と、ファイルをめくる音が止まった。
「あった」
名前が見つかったらしい。ついに彼女の名前がわかる。
「とも子… とも子だよ」
とも子? とも子と同じ名前?… ま、まさか、とも子はあいつの妹?…
いや、「とも子」なんて名前、この世には掃いて捨てるほどある。偶然の一致じゃないのか? だいたいあの娘のお兄さんの苗字は石川だろ? でも、とも子の苗字は澤田。ぜんぜん違うじゃんか。妹なら、同じ苗字じゃなくっちゃいけないだろ!?
で、でも、苗字を変えたってことは?… いや、そんなかんたんに苗字は変えられないと思う。とも子はやつとは絶対無関係だ!!
しかし、オレは「とも子」とゆー名前が気になってしまい、先生の事故に関する質問に生返事をくり返してしまった。なんか、無性にとも子に会いたくなった。会ってやつの妹じゃないことをたしかめたくなった。でも、時計は午後8時。まだ先生の質問は続きそうだ。今日はもう会えそうになかった。
※
しかし、考えてみたら、とも子はオレのことを隅から隅まで知ってるのに、オレはとも子のことをまったく知らなかった…
いったいとも子はどこで生まれ、どこで育ったのか? なんで声を失ったのか? どこで野球を覚えたのか? そして何より、どうしてオレ抱かれようとしたのか?… オレには知らないことだらけだった。
ただ1つたしかなことがある。オレはとも子が好きだし、とも子もオレが好きだ。今はとも子を信じることにしよう。
※
翌朝、いつものバス停。オレは体操着姿でとも子を待った。昨日は試合で100球以上投げたから、さすがに今朝はマラソンではなく、バスで登校してくるかも… しかし、とも子はいつものようにマラソンで現れた。とも子はオレの前に来ると、いつもの笑顔を見せてくれた。そして2人は、並んで走り出した。
とも子はとても目が大きい。だからかわいいのだ。あの事故のとき、向こうのクルマに乗ってた女の子は、そんなに目が大きくなかった。「とも子」って名前は、偶然の一致だと思う。
登校マラソンは途中でいつものように北村が加わった。いや、北村だけじゃない、センターの渡辺とレフトとの大空とセカンドの鈴木も加わった。学園に着くと、サードの中井とライトの唐沢もマラソン登校していた。さらに、ショートの箕島も控え組も、みんないつものようにマラソン登校して来た。桐ケ台高校に大勝したってゆーのに、みんな気を緩めてないようだ。
が、最初のバッターの結果が、その希望をはかなく打ち砕いた。微妙に落ちる変化球を引っかけ、あえなく内野ゴロに倒れたのだ。しかし、今の唐沢の変化球は、あまり見たことがないものだった。カーブでもないし、フォークボールでもないし、スライダーでもないし…
次のバッターも同じ変化球を引っかけ、内野ゴロに倒れた。どうやら、カットボールを投げてるらしい。カットボールとは、ストレートとスライダーの中間の握りで、それなりに変化する変化球である。ストレートとほぼ同じ速度だが、打者の手元で微妙に変化するので、バッターはジャストミートしたつもりでも、スイートスポットをはずされ、凡打に終わってしまう。撃たして取るタイプのピッチャーには、うってつけの変化球である。唐沢は短期間でよくこの変化球を会得できたものである。正直なところ、オレは唐沢のクローザーとしての力量に懐疑的であったが、これなら安心して見ていられる。
とも子は完璧なピッチャーだが、唯一スタミナに不安があった。そこんところをクローザーの唐沢が補完してくれそうだ。なんか、まじで甲子園への道が見えてきたような気がしてきた。
※
ついに唐沢が最後のバッターを撃ち取った。そのゴロをオレが捕り、そのまま1塁ベースを踏んだ。その瞬間、みんなが飛び上がった。夢にまで見た1勝、それを難攻不落の桐ケ台高校から挙げたんだ。しかも、6対0の圧勝。オレは天にも昇る気分だった。みんなもたぶんそうだろう。
ホームベースを挟んで、桐ケ台高校ナインと試合終了のあいさつ。向こうのナインは、全員顔面蒼白、中には泣き出してるやつもいた。一方オレたちは、破顔になるのを必死にこらえていた。
あいさつが終わると、初めての校歌斉唱。ある程度勝ち進むと校歌のテープを流してくれるのだが、1回戦だとそれはなく、代わりにブラスバンドが演奏し、スタンドの応援団と一緒に校歌を合唱する。しかし、オレたちははなっから負けると思われてたので、ブラスバンドも応援団も1人も来てなかった。仕方がないから、ナインだけで大合唱だ。スタンドのあちらこちらから罵声が飛んで来たが、オレたちはあざけわらうように、気分よく歌ってやった。
※
校歌斉唱が終わると、ベンチ裏の通路で共同インタビューを受けた。オレと監督がお立ち台に上がった。記者の質問が矢継ぎ早に飛んで来た。しかし、オレの心はここにあらずだった。例の裁判の結果を一刻も早く知りたいのだ。いったいどのような判決が出たのだろうか?…
ちなみに、記者の質問の大半は、とも子に関するものだった。でも、オレはとも子のことはあまりしゃべりたくなかった。それはとも子の障害を気遣って… いや、本音を言うと、とも子はオレ1人のものでいて欲しいから、世間にはあまり露出したくないのだ。
きっと今日の試合のVTRが全国放送で流され、とも子は世間の注目の的になると思う。そうなったとき、オレととも子の関係は、いったいどうなってしまうんだろう?…
※
ようやくインタビューが終わると、オレたちは長く暗い通路を歩いた。そのどん詰まりの扉を開けると、そこには数台のタクシーが駐まっていた。我が学園の教師の姿もあった。どうやら、学園が用意してくれたものらしい。
野球部の活動に積極的な高校だと、我が野球部にはそんなものはなく、いつも路線バスか電車での移動だった。しかし、強豪桐ケ台高校に勝ったとなると、我が学園もそれ相応の扱いが必要になったと判断したんだろう。桐ケ台高校ファンのよからぬ仕打ちが怖かったので、これはありがたかった。
タクシーはオレたちナインを乗せると、喧噪やまぬ球場をあとにした。
※
タクシーの後部座席に乗ると、即座にオレの脳裏に「裁判」の文字が浮かんだ。無性に例の裁判の結果を知りたくなった。オレは助手席に座ってる先生から携帯電話を借り、ダイヤルしようとした、が…
「キャプテン、なんで澤田を替えたんですか?」
それは隣りに座った北村の発言だった。くそーっ、こんなときに… しつこいぞ、こいつ!!
「とも子…」
おっと、ここでは「とも子」はまずいな。
「澤田はあのとき、もう限界だったよ」
「なんでそんなこと言えるんですか? まだ1点も獲られてなかったんですよ!! ヒットも1本しか撃たれてなかったのに…」
「唐沢のことを考えて、替えたんだよ。
いいか、北村、リリーフってゆーのはな、ピンチのときに替えられるより、回の頭で替えられた方が、ずーっと投げやすいんだよ。だから、あのタイミングで替えたんだよ」
北村が黙った。でも、目は納得してなかった。もっと説明が必要なのか?
「北村、おまえ、今日の1勝で満足か?」
「え?」
「なあ、甲子園に行きたいと思わないか?」
「キャ、キャプテン、そんなこと考えてたんですか!?」
「いや、こいつは澤田の夢だ」
「え?…」
「澤田は甲子園に行って、優勝する気なんだよ」
北村は唖然としてしまった。ま、それがふつうだろうな。
「甲子園に出るとなると、もう1人クローザーとなるピッチャーがいる。だからあそこで唐沢を試したんだよ」
どうだ、納得したか?
「い、いつ、彼女とそんなこと、話したんですか?」
ちっ、かえってまずいこと言っちまったか… まさか、デート中に聞いたなんて言えないし…
追い打ちをかけるように、北村が質問してきた。
「キャプテンはいつも、彼女を下の名前で呼ぶんですよね…」
オレはフリーズしてしまった。まさか、とも子自身の要望だとは言えないし、取り繕ううそもなかなか浮かんでこなかった。
しばらく沈黙が続いた。と、ふいに裁判の結果を知りたくなった。オレは北村の視線をあえて無視し、携帯電話のダイヤルボタンを押し始めた。
※
携帯電話で聞いた判決は、あまりにも意外なものだった。ほぼ向こうの主張に沿ったものだったらしい。オレは愕然とし、そして憤然とした。たしかにあの朝、おじいちゃんは黄色の点滅信号を無視して、交差点に減速せずに進入した。でも、向こうは、一時停止義務のある赤の点滅信号を無視して、時速100キロ以上の猛スピードで進入してきたんだぞ!! どう考えたって、向こうがいけないだろ!?
桐ケ台高校に勝った余韻が、一気に吹き飛んでしまった…
オレが乗ったタクシーは、一足早く学園に着いた。本当なら他のタクシーの到着を待つべきなのだが、そんな心の余裕はなかった。ともかく、一刻も早く家に帰りたかった。オレは先生に事情を説明し、一目散に帰路についた。
※
家の中は完全に消沈してた。お袋は顔面蒼白でソファに座ってた。親父は真っ赤な顔で拳を握りしめていた。弁護士の先生も、苦虫をかみ潰したような渋い表情だった。先生も今日の判決に憤慨してるようだ。当然控訴である。
今度はオレも裁判に出て、証言することとなった。実は、オレはあの事故の当事者の1人なのに、一度も裁判で証言してなかった。年端が行ってないとゆー先生の配慮だが、こんな判決が出てしまうと、そんなことも言ってられなくなったらしい。
親父とお袋には退室してもらい、オレと先生だけで打ち合わせすることとなった。
※
ふとオレの脳裏に、向こうのクルマの助手席に乗っていた女の子の顔が浮かんできた。ずーっと裁判に出てた先生なら、あの子はどうなったのか、名前はなんてゆーのか、きっと知ってるはず。
「あ、あの~、向こうのクルマに乗ってた女の子、どうなったんですか?」
「え?… あ、あの妹さんの方ね。
いや~、それがどうなったのか、実は私にもわからないんだ」
「え?」
「なぜか知らんが、向こうの訴状に妹さんに係わる部分は1つもなかったんだ。そのせいか、裁判でもまったく触れられてないんだ」
オレは唖然としてしまった。今まで彼女も、当然訴えの対象になってると思っていた。
「な、なんで?…」
「さあ… もしかしたら、それが向こうの弱みかも? 今度調べておくよ」
「お、お願いします…
あの~、名前、なんてゆーんですか?」
「さ~て、なんと言ったかなあ…」
先生はファイルを取り出し、それをめくり始めた。
「え~と、え~と…」
先生はなおもファイルをめくった。その紙をめくる乾いた音が、部屋中に響いた。
と、ファイルをめくる音が止まった。
「あった」
名前が見つかったらしい。ついに彼女の名前がわかる。
「とも子… とも子だよ」
とも子? とも子と同じ名前?… ま、まさか、とも子はあいつの妹?…
いや、「とも子」なんて名前、この世には掃いて捨てるほどある。偶然の一致じゃないのか? だいたいあの娘のお兄さんの苗字は石川だろ? でも、とも子の苗字は澤田。ぜんぜん違うじゃんか。妹なら、同じ苗字じゃなくっちゃいけないだろ!?
で、でも、苗字を変えたってことは?… いや、そんなかんたんに苗字は変えられないと思う。とも子はやつとは絶対無関係だ!!
しかし、オレは「とも子」とゆー名前が気になってしまい、先生の事故に関する質問に生返事をくり返してしまった。なんか、無性にとも子に会いたくなった。会ってやつの妹じゃないことをたしかめたくなった。でも、時計は午後8時。まだ先生の質問は続きそうだ。今日はもう会えそうになかった。
※
しかし、考えてみたら、とも子はオレのことを隅から隅まで知ってるのに、オレはとも子のことをまったく知らなかった…
いったいとも子はどこで生まれ、どこで育ったのか? なんで声を失ったのか? どこで野球を覚えたのか? そして何より、どうしてオレ抱かれようとしたのか?… オレには知らないことだらけだった。
ただ1つたしかなことがある。オレはとも子が好きだし、とも子もオレが好きだ。今はとも子を信じることにしよう。
※
翌朝、いつものバス停。オレは体操着姿でとも子を待った。昨日は試合で100球以上投げたから、さすがに今朝はマラソンではなく、バスで登校してくるかも… しかし、とも子はいつものようにマラソンで現れた。とも子はオレの前に来ると、いつもの笑顔を見せてくれた。そして2人は、並んで走り出した。
とも子はとても目が大きい。だからかわいいのだ。あの事故のとき、向こうのクルマに乗ってた女の子は、そんなに目が大きくなかった。「とも子」って名前は、偶然の一致だと思う。
登校マラソンは途中でいつものように北村が加わった。いや、北村だけじゃない、センターの渡辺とレフトとの大空とセカンドの鈴木も加わった。学園に着くと、サードの中井とライトの唐沢もマラソン登校していた。さらに、ショートの箕島も控え組も、みんないつものようにマラソン登校して来た。桐ケ台高校に大勝したってゆーのに、みんな気を緩めてないようだ。