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東武佐野線沿線CITY-GUIDE 〔カテゴリーからお入り下さい〕

こならの森 19号

2008-03-23 | 創刊~100号

     19号 1989.11.1発行

表紙 日光の紅葉と石くい

●目    次●
2p…看板娘
3-4p…ミニ特集…珈琲
5-6p…カラムコラム
5p…トピックス
6p…お店和昇庵
7-14p…【特集】塩坂峠を行く
15-18p…つれづれインタビュー
19-20p…協賛店名
21p…結婚…大竹和さん夫妻
22p…危険な
22p…美容と健康
23p…モーター
24p…アウトドアー
23p-24p…スターウオッチング
25-26p…情報
27p…絵本
28p…佐知倶楽部
29-30p…センチュリーラン その13
30p…コーヒー/中南米視察の旅
31p…お見合いデータ
32p…芝居三昧 その十八
32p…第7回 おそねとしこ
33p…手書き編集後記


【本文抜粋記事】

人物紹介

飯島秀雄さん
 郷土を愛し、近辺をモチーフにした作品を発表し続けている飯島秀雄さんの地元での写真展が田沼町の文化福祉センター特設ギャラリーで開かれた。
 作品は、自然への招待と題するものが四十五点。他に写真から俳句を詠むと題して、俳人協会会員。また「風」同人でもある菅谷東治さんに俳句をお願いした作品7点など思わず立ち尽くしてしまう力作ばかり。
 現在は、消えゆく渡り鳥最後の楽園。赤麻遊水池をモチーフにした作品作りをしているという。また、野上川の源流が最も好きな場所だといい、これからもその水の流れや、草花などをカメラに納めていくという事だ。「自然が相手なので大変です。その時を逃すと、来年まで待たなければならない事もあります。しかし、この地区には、身近に優れた自然が残っていますので題材に困る事はありません。」と飯島さんは話す。またこれからも、郷土の自然を撮り続けるという事だ。身近なところでは続・わが町さんぽの口絵写真赤見の弁天池が飯島さんの作品。



こならの森 18号

2008-03-23 | 創刊~100号

     18号 1989.10.1 発行

表紙「コスモスとアゲハ蝶」

●目    次●

2…看板娘
3-4p…カラムコラム
3-5p…トピックス
6-10p…秋を探しに
11-15p…インタビュー「島田春蔵さん」
17p…美容と健康
17p…危険な道路をぶっとばせ
18p…結婚しました
19-20p…協賛店名
21p…佐知倶楽部
22p…絵本の紹介
22p…海外旅行講座
23-24p…若き芸術家の世界
25-26p…インフォメーション
27p…モータースポーツ
27-28p…街角の肖像
28p…アウトドアー
29-30p…センチュリーラン
30p…コーヒータイム
31p…お見合いデータベース
32p…芝居三昧
32p…としこのエッセイ 第六回
33p…子育て編集日記

【本文抜粋記事】

インタビュー

島田テキスタイル代表取締役

島田春蔵さん

大正十五年生まれ。東京の商社で、原糸の営業を行った後、佐野に帰って独立。当初は、島田商事としてスタートしたが、昭和六十年に、現在の島田テキスタイルに変更。

 業界紙によれば丸編み先染め物は、東日本にライバルメーカーはいないという事だ。身近な所ではこの夏行われた1000人つなひきのTシャツを製作したという。


コンピューター付きの丸編み機を導入したと言う事ですが、その辺の経過からお話願いたいですが。

 ごく簡単に申しますと、繊維産業が斜陽化して来て、この産地でもだんだん衰退してきた。足利でもトリコットが戦後伸びて来た分けですが、NIESと言われる発展途上国の追い上げが激しくなった。今の繊維政策と言うのは、農業とは違って全部開放されてい何でも輸入されてくる分けです。そういう中で、選択したのがコンピューターの導入と言う事です。主にスポーツウエア、ゴルフとか、テニスのウエアを作る機械なんですね。生地を先に作るわけです。デザインは後から作るわけですね。その生地も先染めと言って先に糸を染めていろいろな配色を考えるわけです。これは高級化ですね。大企業には出来ない仕事なんです。

コストが合わないという事ですか。

そうですね、非常に手が掛かるわけです。大企業は量産型が出来ないわけですね。大量生産が出来ないんです。多品種、小ロット、先染めというのは特にね。幸いにして、日本のコンピューターがついた工作機械、そういう物は日本が一番優れているですね。自動車の中にコンピーューターが入っている。我々の工作機械にもコンピューターが入っている。
 しかし、機械を入れたからと言ってすぐ動きだすかと言うそうではなく、一、二年は苦労をします。ですが、それを過ぎたら、生産性は上がって来ます。斜陽産業と言っても、道はあったという事です。

佐野の現状はどうでしょうか。

 二、三社を残して停滞気味ですね。機械化に踏み切れないという状況でしょうか。
そうですね。しかし私の所でも機械を導入してから一、二年は良くなかったですが、それからはぐっと伸びてきました。
足利の織物組合に加入していると言う事ですが。
 足利ファッション組合というんですが、今年の四月に五組合が合併して出来たんです。我々の業界の組合と言うのは足利に集中してあるんですね。何と言っても繊維関係は足利が強いんですよ。ですから、今ではプラスチックに抜かれたと言う事ですが、まだまだ総売上が八百億位あるわけなんです。これは地域社会と言う事から離れますが、私の趣味が旅行で、それも、単独で行く旅行が好きなんです。だいたい行かない所は社会主義圏位なんです。特に、東南アジアのほとんどは行きました。特に、合弁会社を作って、売り込もう斜陽産業と言っても、道はあっ出しています。ですから、私も向こうの製品がどのくらい日本の製品に追いつて来たか、そういう調査をして、そこから入ってくる製品は出来るだけ避けよう、と言う事を考えているわけです。そして、私共の製品はとても作れないとわかりまして、いまではこちらから輸出をしているくらいです。

どれくらい追いついて来ているのでしょうか。

 十年くらいの開きがあるでしょうね。五年や十年の月日では、今の日本と同じ物は作れないのではないでしょうか。五年後には、もっと高度な製品を造っているでしょうから結局追いつけないという事ですね。
ただ躍進が目覚ましいということですが。
 いや、鈍くなって来ていますね。台湾では去年の前半に、一党独裁でやって来たのが、開放という事になり、それによってたくさんの政党が出来て、もちろん労働組合ができて賃上げ闘争が起こって来たわけです。小さな企業でさえ毎日ストをやっていると言うんですね。今年、また行ってみたら日本の賃金と変わらなくなっているんですね。それから、韓国はこれも賃金が上がりつつある。オリンピックを境に、どんどんあがってきている。最近の円安ウォン高。それから、国内の輸出状況が厳しくなって来ているんです。

中国などではどうでしょうか。

 私が十年前に行った時には、後十年もすると、日本に追い付いてしまうかなと思ったんですが、あの国は途中で足止りしてしまって全然だめなんですね。そこへ来てこの間だの天安門事件があったわけです。国が大きいから繊維品の原材料がたくさんあるんですけれど品質は良く無いんです。台湾とか韓国とかよりも怖くなくなたという事ですか。
 要するに、品質のおいあげでなて社会主義の国というのはそこ迄の研究心がないんですね。賃金も上がっていないんです。

 品質が上がらないと安いだけという事になってしまうわけですね。そして、今問題とされているのは、タイです。賃金が安くて安定した国だという事で日本でも盛んに進出して洪水のようですが、そろそろ頭打ちで、そうするとどこだろうという事になるわけですが、今度はインドネシアとかフィリピンは治安がちょっと、政情が安定していません。ASEANの中ではマレーシアも進出はしているけれど、まだまだなんですね。シンガポールはもう進出し過ぎています。
 日本で研修をさせて向こうに連れて行く分けですが、半年もしないうちに辞めて行ってしまう。よその、企業に引っ張られてしまうわけです。

タイシルクという言葉を聞きますが、シルクはどうでしょうしょうか。

 タイシルクというのは名ばかりでね、やはり中国が多く取れるんですよ。ただ、シルクは早く通産管轄にして欲しいです@ね。いま、シルクは農林管轄なんですね。ですから、農業政策の中に入っているわけです。統制経済の中に入っているわけですね。自由化になっていないわけです。あれは、農村で繭を作っているわけですから。自由化になれば安いシルクがどんどん入って来て日本のシルク製品の需要が増えるわけなんです。日本も品質はいいんですよ。
 今一番恐れるのは、EC諸国なんです。イタリア、フランスそのへんの国が日本にどれ位進出してくるか、もうNIESの国はそれほど恐れる事はないんです。イタリア、フランスあたりでは、自分のところで物を作らないでお隣のスペインとかポルトガルで作らせていますね。それが今度は日本の市場をなんとか合弁会社を作って、売り込もうと必死ですね。それが、いつどういうふうに入ってくるのか、果たして成功するのか、ちょっと東南アジアと違って遠いですから、その点がどうなのか。そこを見極めながらやっているという状況です。まだ、時間的にはあると思いますね。ミラノファッションというように、デザイン力、企画力みたいな物が怖さになってくるわけですね。
 そうです。歴史も古いんです。
卓越なデザイン力、企画力は郡を抜いていますね。ですから、その事については一番心配しています。ただ、それが入ってきても、日本の流通機構に乗っけられるかどうか、それから、値段が合うのか。NIESあたりから来た製品は、一時的に成功したんです。定番から下のクラスは、しかし今度は高級品クラスがEC諸国からどうのように入って来るのか、それが関心事ですね。ですから、今盛んに情報収集をしているんです。
 日本では今、高級品指向というのが、いわれていますね。どこまで続くか知れませんし、景気もどうなるか分からない時代で大変ですね。そうです。繊維市場というのは、オープンですから、農産物などは閉ていますね。それからこういう事も考えています。原材料の良い物、例えばウールなんかを向こうから輸入して、それを加工して日本国内で売る。それは、大企業ではできない事ですね。これからは、中小企業だって国際化の時代だと言う事なんです。この点で成功しているのが栃木の岩下食品です。漬け物の原料などは、当初台湾から輸入していました。現在は魅力がなくなったという事でタイで作らせています。ナス、キューリ、相当の利益をあげたんです。

他が縮小して行く中で、やはり道はあるという事ですか。

 そうですね、それも日本国内だけでなく、海外とかね。それには、やはり飛び回って情報を取らないと人から聞いていたんではだめですね。年に何度くらい海外へ行くわけですか。前は、良く行きました。年に十回位は行きました。一か月に一度というペースでしたね。だいたい東南アジアの国々には、知り合いが出来て向こうの人が夫婦で来たり、こっちから行ったりして交流していますね。

視察に来るわけですか。

 もちろん来ますね。そういう交流で、現地へ行けば生の声が聞こえます。そのうちに、ちょっとした取引が成立したりします。それで、何か一つ言葉を覚えようと思いまして、週に二回中国語を勉強しまして普段の会話くらいはなんとかなるようになりました。
 やはり英語ができれば一番良いし、東南アジアでは華僑がまとまって仕事しているんです。例えばタイに行くと、タイ人がやっているのではないんです。ですから中国語が出来れば、通用するんですね。シンガポールヘ行ってもやはり、華僑が全部やっていますね。帝人とか、東レという大企業はマーケッテイング部門を必ず持っていますから、海外情報収集をやっているんです。そういう所に年間何百万とお金を払っているんです。お金を出して情報を買っているわけなんです。

情報はタダではない。

 そうですね。それから、我々の業界というのは、地域社会だけ見ていたんでは飯が食えないんです。世界情勢にも目を向けていかないといけないんです。これれは、どの職種にも言える事だと思います。

 今日は、どうもありがとうございました。


こならの森 17号

2008-03-22 | 創刊~100号

     17号 1989.9.1発行

表紙「足利の花火」

●目    次●

看板娘…駒形…2
トピックス…3-6p
化粧品問題…7p
お店紹介…藪…8p
カラムコラム…7-8p
ネーミング文化論…9-14p
インタビュー…15-18p
協賛店マップ…19-20p
結婚しました…21p
美容と健康…22p
危険な道路をぶっとばせ 第7回…22p
佐知倶楽部/街角11回…23-24p
インホメーション…25-26p
サークル紹介 
コーヒー…3回…27p
ブックス10・絵本の紹介…28
センチュリーラン…29-30p
お見合いデータ…31p
としこのエッセイ/芝居三昧…32p
こなら通信・購読者名簿…33
子育て編集日記…「手書き」…33p



特集

道路に新しい名前をつけてみる

「ネーミング文化論」


●法則性はあるか…
 ネーミングというのは、全く大変な作業である。ひょんなきっかけで生まれた「こならの森」とは訳が違う。よくいわれるのは、ブレーンストーミングや消去法などという作業である。
 したしみやすく、分かりやすいということから、正造通り、新・東山道、安蘇の道(数年前に同名のタウン誌が発行されていたという)という風にばかりつけていくと「ダサイ」とか、「どこがファッショナブルなのよ」「街や、道路が新しくなっても、名前が古臭くっちゃネ」といわれかねないし、かといってファッションストリートSANOとか、SANO'S STREETとかにしてしまったら読めないという苦情が出るに決まっている。
 そこで、編集室からの提案は東西に通る道路は全部漢字とかなで表記し、南北に通る道路はカタカナか英文というい事にしたらどうだろう。こうすれは、一度聞いただけで、どこだか分からないにしても、方角だけは分かるわけだ。しかし、斜めに通る道路はどうしよう、ローマ字でと無理やり通せは、道路が曲がる。この場合、どちらを使ってもかまわないとするか、語尾にSS(スラント・ストリート)とでもいう語をつけ、米国ワシントDCみたいに、例えばすずかけ通りSSというふうにしてみよう。

●ストリートとアベニューについて
 それから、メインストリートとアベニューの違いについてはっきりさせておかなけれはいけないと思う。通り、というと何と言っても『駅前通り』というのが、その街の代表格だと思う。とすると、それに交わる通りのことを、一般にアベニューといっているようなので、旧50号線はアベニューということになってしまうのであろうか。これは別名『中央通り』とも言うのだから、ややこしい。早くも、壁にぶつかってしまう。しかし、中央というのだから、メインに決まっている勝手に判断して、旧50号線(中央通り)を、佐野のメインストリートと決めることにする。

●東西に…
 ここまで、来れは後は簡単だ。何やら、巷ではそういう動きがすでにあり、元三大師の通りを『万葉の道』としようと、いうのだそうだ。すると、その次の通り、仲町通りは、当然こならの森編集室があるのだから、『こならの道』と付けられよう。すると、これまた自然と中央通りも『みかもの道』と決まって来る。それから、大祝町通りは佐野市農協があることから、絹の道ならぬ『米の道』というのは、どうだろうか。また、付近を縦に通る道路は、『ハーベスト・ストリート』としよう。

●南北に…
 さて、今度は南北の道路だ。佐女高通りは、『ハイスクール・ストリート』。十字屋横の路地は、『ショッピング・アベニュー』。問題だった駅前通りは、『ステーション・ストリート』か、『ザ・ストリート』というのはどうだろうか。
 また、市役所から南に延びる道路は『シティホール・アベニュー』。商工会議所のある通りは『コマーシャル・アベニュー』。殿町通りは、東石美術館がある事から『ミュージアム・ロード』とつけてもいい。昭和通りは、鳳凰会館、ホテルサンルート佐野、角半等があることから、『ブライダル・ロード』または『バージン・ロード』とし、結婚式のある日は、教会までの道路一面にジュータンを敷くというのはどうだろう。
 などなど、ネーミングだけに終わりそうにない勢いだ。書き出したらきりがない…。
 しかし、横文字というのはうまくつけないと、いまいちパットしないものだという事が分かった。そう考えるとこならの森は『こならの森』本当にで良かった。
 TOWN情報誌・AN(アンサーズ・ネットワーク)などとしなくて本当に良かった。 

●終わりに………
 ところで、もう夏休みも終わりでありますが、各人空いているところへ自分の思う通りの名前を考えながら記入していくと、夏休みの宿題を思い出すのではないでしょうか。すると、ついでにここの道にはこういうホールを作って、電柱は地中に埋めて、などとイラストを書き込んでみたくなったりして、ついでに色えんぴつで色を塗り始めたりするともう完ぺきです。
   (編集 こならの森特別取材班)



こならの森 16号

2008-03-22 | 創刊~100号

     16号 1989.8.1発行

  ●目        次●

看板娘…………………………2
マン&ウーマン・トピックス3
【特集】夏・涼を求めて……7
スターウォッチング…………15
美容と健康・トラベルガイド17
としこのエッセイ……………18
協賛店マップ…………………19
結婚しました…………………21
佐知倶楽部(佐青協)のページ22
モーター・スポーツ…………23
アウトドアー   …………24
インホメーション……………25
ブックス10・絵本の紹介……28
センチュリーラン・コーヒー29
サークル紹介・街角の肖像…29
ぼくの好きなMONO………32
こなら通信・購読者名簿……33



【本文抜粋記事】


人物紹介 マン&ウーマン

 飯塚清一さん

 「提携という運動から貴重なことを学び取りました。無農薬の野菜、米が欲しい。ビニールハウスの野菜は、不自然だから等。学校の教科書にも農業のすばらしさは外され、変わって通信、運輸でコンピューターのことばかりです。家庭でも、しかりです。」
 さらに飯塚さんは十数年前に、有機農業を始めると言ったら、農業技術者に『有機農業の信者になるな』と言われて心外。また農薬中毒になったこともあって、生命優先の農業が始まった。堆肥つくりも失敗を重ねていく中で、やっとコツを覚えミミズやダンゴムシ、ハサミムシ等も住める健康な土になったという。そして、自家製の有機質肥料や酵母菌の培養技術も習得し、土づくり十年にして初めて農業の楽しさが分かったのだと話す。
 それは、飯塚さんの農業を理解してくれる消費者の皆さんと提携という新しいつながりができたからで、やがてアトピーの子供を持つ母親、保育園等と、すこしづつ輪がひろがった。
 また最近の農業問題について「今、国の内外で農業は足手まといのように扱われようとしています。経済界によるモグラたたきが始まっているのです。物、カネという物欲に心を奪わ自分さえよければ他人(ひと)のことなどどうでもいい。そんな風潮が感じられ憤慨しています。危険な輸入農産物にあなたは、安らぎを覚えますか。」とも語る。




こならの森 15号

2008-03-21 | 創刊~100号

     15号 1989.7.1発行

表紙 田沼=キスゲ 

●目    次●
2p…看板娘
3-6p…マン&ウーマン・トピックス 
7-10p…小林正作さん
11-14p…芭蕉の碑
8p…お店…藪
15p-16p…シリーズ・若き芸術家の世界
15-16p…カラムコラム
17p…美容と健康
17p…危険な道路をぶっとばせ
18p…夏というなの学校
18p…トラベルガイド…その4
19-20p…協賛店名
21p…結婚しました
22p…佐知倶楽部
23p…モータースポーツ
24p…アウトドアー
25-26p情報
27p…お見合いデータベース
28p…本10
28p…芝居三昧
29-30p…センチュリーラン
30p…コーヒー
31p…サークル紹介「中国語学習会」/
    街角の肖像
32p…インスタント・ラーメン
33p…子育て編集日記


【本文抜粋記事】

シリーズ・若き芸術家の新世界
須永 和彦さん

 「『作品』とは、見る側、受け取る側の問題である。たとえば、あなたがある絵をみて感動し、ふるえている。たとえそれがどんな天才と言われるような画家が描いた絵であろうと、それは額縁に納まったその絵がふるえているんじゃない、あなた自身がふるえているのだ。その瞬間、画家とあなたといわゆる『作品』とは、別々に切り離されているが、ある意味では一体になっている。むしろ、その絵に感動しているあなたの方が、その瞬間生き生きとしているはずだ。あなたにとって、『作品』との出逢いの意味は一回限り。あなたの内面の問題なのである。同じ絵を違う時と場所で見ても同じ感動は得られないだろう。つまり、わたしに言わせれば、出来上がって固定した『作品』なんて無いのである。」と、個展におけるパンフレットの中で語っているが、こんなところに、須永さんの芸術哲学があるような気がする。
 最初は、風景画や静物画を描いていたが、高校時代から抽象的な絵を描くようになる。
 大学生時代は、墨絵ばかり書いていた。しかし、一年生の夏休み頃から製作からは離れてしまい、文化人類学や詩学の研究にひかれてしまった。
 個人的に、影響を受けた人はいるし、芸術の話しをすると言うことはあったが、絵そのものは、全くの独学。
 これから描いていく、作風というものは、まったく白紙だという。
 今年の後半に、東京で新しい作品をまとめた個展を考えている。
 一日のうちで、実際に絵を描いている時間は平均三時間くらいだという。あまり多作するタイプではないということだ。
 作風については、「名付けられたらもう既製のものに成ってしまうでしょう。だから、名付けられなくてもいいと思います。思い上がりかもしれないけれど……」と話す。また、「絵と芸術というのはまた別のものだと思うんですね。つまり、習い事ではなくて、自分の個性を出すことです。それから、前衛的になっていくというのは恐かったです。裸の自分をさらけだす事がね。風景とか言うものであれば、どんなに下手でも絵として見てくれるわけですよね。それが抽象的なものを描くというと、まるっきりその人の個性を出さざるをえないんです」と語る。
 影響を受けたものというのは、技法より精神的なもので、アフリカ等の未開民族の芸術だという。芸術が呪術と結びついていて、単なる美術品や装飾品とかいうものでなくもっと生活に結び付いたものになっている。ラスコーの壁画なども、霊魂と呪術とが結び付いたものだし、そういった神秘性が絵に現れるという。そのためか、色彩や古代の壁画にあらわれる図形的な構成は須永さん独特のものといえる。また、家業が須永花火という花火を製作する会社の為「花火」をイメージする作品もあるということだ。
 「主義とか、概念というものにとらわれない作品をつくって行きたい」というのは、これからも変わらぬ姿勢のようだ。
 それから絵を描く他に、同人誌に詩を発表している。



こならの森 14号

2008-03-20 | 創刊~100号

     ●14号1989.6.1発行

表紙「葛生の花火=アップ」

■目        次■
看板娘・カラム・コラム……2
特集ザ・お見合い……………3
マン&ウーマン・トピックス11
つれづれインタビュー………13
ヒストリー・ウォッチング…17
結婚しました…………………21
佐青協のページ………………22
アウトドアー・スポーツ……23
インホメーション……………25
絵本紹介・BOOKS………27
美容と健康……………………28
センチュリーラン……………29
コーヒータイム………………30
サークル紹介・街角の肖像…31
エッセイ・おぞねとしこ……32
芝居三昧……33p編集日記
購読会員名簿


【本文抜粋記事】

モータースポーツ番外 23p

●編集長の体験記

そもそものはじまり
 創刊1周年号の取材中に、ポロッと、「私もバイク・レースに出た事があるんですよ。」と言ってしまた。それを、受けたゴミブチコンペテションの社長、五味淵さんは、それじゃバイク・レース理解と普及の為にも、ミニ・バイクレースに出場して、体験したらいいですよ、いい記事がかけますよ、と言われた。そう言われると、すぐのってしまうたちなので、参加する事にしてしまった。
 さーて、それからが大変。帰宅してからその事を、奥方に申すと、彼女は自分の大きなおなかを指さした。
 何を言おうとするのかすぐ分かった。「もしもの事があったら、この子はどうするの」そんな、滅相もない。「ただのレジャーですよ、レジャー」という五味淵さんの軽い言葉が頭を過ぎた。

逃げた、編集者
 やがて、約束の日曜日が迫ってくる。だが、運良く違った、運悪く締め切り日が迫った二十三日の日曜日だ。この日までにかたをつけて『日曜はレジャー』というつもりだったが、いつものことで編集がうまくいかない。そればかりか、取材の予定も入る(無理やりいれた?)ということで、断る理由ができたのだった。そう思うとうれしくなって早速その旨電話を入れた。
 だが、今にしてみれば、いわなけば良かったと後悔するのだが、怖じけづいたと思われては記者の恥と、「逃げるわけではありません。今度は、必ず……」
一難去ってまた一難
 その後は編集最後の修羅場に突入したので、すっかり忘れてしまっていた。連休も過ぎたある日、ゴミブチさんちの風間さんから電話が入ったのだった。 急だったので、心の準備も出来ないまま、すいこまれるようにOKしてしまった。

そして、当日
 忘れもしない、五月二十一日。この日は、梶原一豊さんの葬儀の日でもある。前回断っていなけれは、良かったと思ったがすでにエントリーもしているし、いかしかたない。
 朝から、落ち着かない天気だった。五年ぶりにバイクを運転する不安をよそに、練習走行へと出ていった。「アクセルを戻すのは二か所だけだよ」とこれまた、軽いアドバイス。何周か回るうちに、とにかく無事に終わってくれさえすれば……と弱気になっていった。
 狭いコーナーに何台ものバイクが同時に突っ込んでくる。ボヤボヤしていられない。ちょと違えはコースアウトだ。
 それにしても、著者の不安など関係なく、若い者たちの熱気で一杯だ。目を輝かせている。十代の青年も中年のおじさんも、応援するキャピキャピギャルも子供連れの親子の顔も見える。 しかし、暴走族に代表されるスネた若者の姿はそこにはない。 そんな、事を考えながらも、いよいよ本番スタートの時間。参加したレースというのは、一台のバイクを二人のライダーが交替で一時間走る耐久だ。
 スタートは、風間さんが運転その後、交替することになる。 しばらくして、合図をしながら風間さんが、ピットに入ってきた。交替だ。とにかく何も頭に入らなかった。ボーっと第一コーナーを抜けた後は、無心にハンドルにしがみついていた。
つづく



こならの森 13号

2008-03-20 | 創刊~100号
       ●13号 1989.2.1発行

■目        次■

カラム・コラム………2p
著者紹介………………3p_6p
トピックス………………7p
看板娘コンテスト……9-10p
■田中正造番外編…11p~14p
若き芸術家の世界…15p~16p
スターウオッング…………17p
ぐるめーる…………………18p
協賛店マップ…………19-20p
結婚しました。……………21p
美容と健康…………………22p
モータースポーツ………23p
危険な道路をぶっとばせ…23p
アウトドアー………24p
協賛店マップ…………25-26p
絵本紹介…………27p
ブックス10・海外旅行入門…27p
エッセイ・おぞねとしこ……28p
センチュリーラン………29-30p
コーヒータイム………………30p
サークル紹介・31p
街角の肖像昧…………31p+32p
僕の好きなMONO…32p
芝居三昧……32p
編集日記・購読会員名簿……33p

【本文抜粋記事】

■田中正造番外編 

●今回は、生家を中心に紹介したいと思う。

@生家墓地
田中正造1913年(大正2年)七十三才で死去。
カツ夫人1936年(昭和11年)八十八才で死去のあと合葬。

@浄蓮寺
 田中家の菩提寺。本堂は格調高い優れた建築だったというが最近に再建された。

@人丸神社
 学業成就、交通安全祈願は霊験あらたか。梅原猛夫妻も参拝したとある。
 正造が、江刺県(現在の岩手県)で獄中にあったとき、カツ夫人が夫の安泰を願掛けしたという。

@堀米地蔵堂
二十九才(明治2年)の時六角家騒動により、小中村を一家追放され手習塾を開く。
 正造は当時を振り返って「正に是人生無量の楽しみ、予がひっせいの生活中この時の如き興味多きは、あらざるべし」と述懐している。また、佐野町万座での講演会のあと木下尚江らが正造にねだって生家へ向かう途中、ここに立ち寄り榎の大木を見上げて「手習師匠の頃は、子供の手ほどであったのだが」とひとりごとをつぶやきながら懐かしんだそうである。現在はは菊川町公民館となっているが、地蔵堂と榎は当時の面影を残している。

@惣宗寺
田中正造自由民権運動の時代の本拠地。死後は本葬が行われた。 同寺には、石川啄木が当時盛岡中学三年在学中だったとき、正造の直訴の感動を三十一文字に託した、
「夕川に葦は枯れたり
血にまとう民の叫びの
など悲しきや」の碑がある。




こならの森 12号

2008-03-20 | 創刊~100号
     12号1989.2.1発行

表紙「ミに見える雲の写真」

●目          次●
看板娘・カラムコラム………1
トピックス…渡辺早苗さん…2
【特集】バイリン・ガールその2…6-9p
ヒストリー・トリップ………10-13p
インタビュー…藤波一博……14-16p
美容と健康・ストレッチング17p
サークル紹介・海外旅行入門18
ブックス・テン絵本の紹介…19
インホメーション……………20-21p
危険な道路をぶっとばせ……22p
モータースポーツ……………22
アウトドアー…………………23
僕の好きなMONO
…………スイング・トップ…24p
タイムスリップ………………25p
協賛店マップ…………………26-27p
結婚しました…………………28
街角の肖像・芝居三昧…11…29
センチュリーラン・コーヒー30-31p
こなら通信・購読者名簿……32


【本文抜粋記事】

●危険な道路をぶっとばぜ!  パート2

背後から狙われている

《ブッ飛ばしたい、ルールを守りたくない》これは自分勝手な人の心理である。しかしこう述べてから驚いたことは、なな、なんと、これは自分のことではないかということだ。まったく笑い草ではあるがこのことが正解だ《誰もルールを守らない危険な中を走っている》という現実のあかしではないだろうか。 だが、そのお陰で私は回りの車のやりたいことが判るのだという気がする。他人の自分勝手を読みとる。容易ではないが常にこれを把握するのだ。ブッ飛んでくる車やバイクは必ず背後に現れる。ルームミラーは欠かせない。本当頻繁に見ていたいものである。もしそうした車が現れたらできるだけはるか後方にいるうちに確認しておきたい。走りっぷりでその人の性格が読み取れる。アッという間に飛んできて接近するようであれば左に合図をすることもよい方法である。するとすごい勢いでグオッという音と共に私を追い越していなくなってしまうのだ。私はただ「さよなら頑張ってネ」と手を振るだけ。合図というものは素晴らしい。上手に使えば危険な車をシャボン玉を割るようにものの見事に消してくれるのだ。車の合図は基本はここにある。 車のトラブルは思いのほか後続車が関係しているものが多い。ブレーキにしても基本的には前でなく後ろが危ないのだ。ピタリ追従してくるたちの悪い後続車を腹を立てさせることなくフワッと止めさせるのである。さりげなくミラーに目をやり《柳に風》の如く。そして後続車が自分でうまいと満足すれば大成功。車間距離とはそのために多く必要なのである。特に前方が危険なときというのが落とし穴。前方の危険に目を奪われたときあなたは、背後から狙われているのかも知れない。  つづく


こならの森 11号

2008-03-19 | 創刊~100号

       11号1989年3月発行

●目          次●

看板娘・カラムコラム………1
トピックス……………………2
タイムスリップ〔橋その@〕4
【特集】バイリン・ガール…6
その1
ヒストリー・トリップ………10
マン&ウーマン・トピックス 10
若き芸術家の世界……………14
美容と健康・ストレッチング16
危険な道路をぶっとばせ……17
サークル紹介・海外旅行入門18
ブックス・テン絵本の紹介…19
インホメーション……………20
アウトドアースポーツ………22
僕の好きなMONO…………28
ぐるめーる・オープン情報…25
協賛店マップ…………………26
結婚しました…………………28
街角の肖像・芝居三昧………29
センチュリーラン・コーヒー30
こなら通信・購読者名簿……32


【本文抜粋記事】

●フリー・トーキング
「バイリン・ガー」ルについて

出席者
▲Nさん。英語、タイ語。二つ合わせても?バイリンガルとはいえない、とは本人の弁。
■Kさん。中国語。最近では、中国語の方が日本語よりうまいとうわさされている。
●Nさん。英語、タイ語。(タイ語は、習い始めて一年)
★司会・編集部。日本語もろくに書けないと言われている。


★まず始めに語学を始めたきっかけということから、順に語って頂きたいのですが。

■私はちょうど大学進学の時、先生にこれからは中国語をや ると良いよって言われたんですね。単純な性格ですから、すぐに乗ってしまったという 感じですね。

★普通は英語をやった方がいいですよっていいますよね。

■私は余り英語が得意じゃなくて、どうせ語学をやるんなら新しく始められるものと言うことで中国語を始めました。
▲漢文とか好きだったんですか。
■中国語は漢文とは離れて考えた方がいいですね。日本でやる漢文の授業とはまったく違いますね。学校の授業でも孔子の論語とかあると最初から中国語読みでやったりとか、先生によっていろいろですけれど。
 
▲日本で中国語を習おうと思っても教えてくれる人はいないんじゃないですか。

■そうですね、この辺ではないですけれど、けっこう(東京とかでは)留学生とかが多くて、彼らはお金持っていませんから、アルバイトという感じで教えてくれるんです。私は週に一回、一年くらい教わりました。

●元もと、中国大陸に興味があったんでしょうね。なかったら、先生が中国語って言ってもそ うは、思わないでしょう。
 
■そうですが、とにかく外国語がやってみたかったのと、(英語なんかよりもずっと)手頃だと思うんですよね(笑)。
 日本語を知っていれば誰にでも出来るような気がして… ……。
▲発音が難しそうな気がしますが。

■発音だけマスターすれば、後は、熟語でも日本語と同じで、例えば『中国人』という言葉が日本語では分かりますよね。でも、英語では、チャイニーズという全然別な言葉に直さなければいけないけれども、中国語はそれをそのまま、『中国人』と発音すれば、中国語になってしまうから楽なんです。だから、日本語で考えて後は組み立てだけ。

▲表示文字は同じですものね。
●でも、日本で使っていない漢字とか、逆もあるんでしょう。
■そうですね。また、日本から漢字が逆輸入した例もあるんです。皆さんは英語がかなり出来るんですか。
 
●簡単な日常会話だけですね。私は語学は自分と全く無縁だと思っていたんです。学生時代は社会福祉が専攻でしたので、あまり関心はなかったですね。ただ、卒業旅行に月並 みにハワイに行ったら、なん となく言葉が通じたんですね。その時に向こうで友達が出来て、それで手紙を書きたい、意志を伝えたい、話をしたいという気持ちから、どんどん膨れ上がっていったんです。いずれ向こうに住みたいとか、向こうで何かやってきたいとか、語学を勉強するというのは目的じゃなくて手段でしかなかったですね。

■でも言葉が通じた時というのはうれしいですよね。やっぱり勉強していて良かったなと。 
★西原さん姉妹は、最近タイ語を習っているということですが、どうですか。

●まだ習いたてで、バイ・リンガルというより1.2・リンガルという感じですね。

■タイ語の話す順序は英語みたいに動詞が先に来るんですか。
●発音は基本的に英語と同じかな。日本語よりは英語に近い。でもまた独特ですね。
  タイ文字というのは記号だから本当に難しいんです。

■中国語の場合は、主語の次に述語がきて、英語と同じですが英語ほど細かい規則がないので、適当に思いのままにしゃべっちゃえばいいんです。(漢 字で)書いてあるものを読むのは、誰でもできるんです。向こうの新聞などをみても何 なく意味が分かりますよね。  
▲日本語でも他の国の人が習うとなると、難しいんでしょうね。
●小さい頃に、なぜ日本語に漢字が入っているのかというのを、紙を節約するためだと思っていたのね(笑)。それで、先生に聞いたら意味を付けるためですよって教えてくれたのね。

■先生も困った子だなと思ったでしょうね。

▲私は、英語はしゃべりたいと思いながらも努力していないんです。学校で勉強していた時点ではただの文字だったんですよね。記号というか。それで、生活に密着していないというか、会話として密着し ていないから押し寄せてくるものが無くて、本の中に書いてあるものだけというイメージしかなかったんです。
 
★語学の取得の方法というのは皆さんはどうでしたか。
 
●英語については、ラジオ講座をしっかりやりました。一番いいと思います。毎日あるし自分の好きな時にできるし、安いし、私の場合それを毎日三種類くらいやっていました。
  私は毎日やらないと、一日一日忘れていくというのを感じるんです。単語でも昨日覚えたのを、今日忘れている。そいうことすごくあるでしょ、だから毎日毎日それを、やっていかないともったいないとういう気持ちがあって、頭からこぼれていくのがもったいないという感じでなんですね。そして、テープに取ったものを繰り返し繰り返し、通勤時間に聞きました。それくらいしないと、入ってこないん ですよ。この年になると(笑)。
■この年なんてね~。

▲でも子供だったらもっと違うでしょう。

■それはそうですね。でも子供も四、五才が言語能力が発達する時期というか印象づけという印刷機能があってその時に覚えさせるともう一生忘れないということですね。

●あとは、とにかく使うことですよ。

■聞いて分かるけれど、じゃべれないというのは使い慣れていないという事ですからね。とにかく体で覚えなくてはだめですよ。中国語も日本人は比較的聞くというのは弱いんです。聞くとすぐ漢字に変換してから意味を取る。けれど、他の外国人は漢字を知らないから音で全て判断できるのでかえっていいんです。日本人はなかなか覚えられないみたいですね。

●最近タイ語を勉強していて、英語と比べてみると英語って中学からやっているので一通りは知っている。だけど、変に知っているがために、それで話そうなんて思うと凄く萎縮するし、間違ったらどうしようなんて考えたりして、かえって話せない。

▲文法、文法で教わってきているから、単語のブツギリをやってはいけないんじゃないかと思ってしまう。

●恥ずかしいけれどなんでもいいから間違ってもいいから、口に出してしまえばなんとかなると感覚的に覚えるまでには、時間がかかりますね。なぜそう思ったかというと、タイ語を勉強して全く一から、全然知らない訳でしょう。そうするとなんでもいいから口に出せる事がうれしくて文法とかは関係なかったし、外国語を勉強するってそういうこ となのかなと思いました。  自分が間違っている事さえも分からないから(笑)、全然恥ずかしくないんです。

■中国語も文法が無いなんて言いましたけれど、確かに厳しい文法はないんです。助詞とかは無いし、だけど自分で適当に言っていることもありますね。
 言い回しは、中国人なりにも規則的なものがあるので自分の言ったことを、向こうの人は、向こうなりに言い換えてくれたりしてくれますね。でも、言い換えられてもあまり気になりませんものね。
 ところがテストでは一つ間違えるとゼロですものね。

●私の高校の時の先生が、おな かが一杯だというのを、ネイティブスピーカーに聞くと「アイムフル」って言うでしょう。でも、その先生は、『マイ ストマック イズ フル』っていったんですよ(笑)。高校 の現役の先生がですよ。それを、平気でみんなに教えていてたんですよ。
 
★語学のマスターのポイントというは、どうですか。
 
■やはり五感、体を使うということですか。
 
▲その言葉を話す友達を探すというのもいいんじゃないですか。
■自分の気持ちを通じさせたいというそういう事ですからね。
●覚えても、それを使って体に返すみたいなことですね。テキストの中では出来ても、実際の会話の中では、難しいですよね。でも一回使うとより良く身につくんですね。それで、間違って覚えていたとしたら、使った中で相手に直さ れますからね。

▲英語の場合で思うんですが、話す時にネイティブスピーカーだとぶつ切り英会話でも萎 縮して、しゃべれなくなるこ とがあるんですね。そういう私と同じ人がいるとしたら、アジア人の話す英語というの から入ったらすんなり行くような気がします。安心出来るというか、チェックされそうもないというか(笑)。

■国民的に感覚が似ていると同じような単語をつかいますでしょう。中国人と日本人、欧 人からみると似ていますよね。日本人は「疲れましたか」。と聞かれると「いえ、そんなことはありませんよ」って答えますよね。中国人もそうな んですよ。『レイダマ』というと『プレプレ』「疲れていませんよ」っていうんですよ。同じ事をアメリカの女性に聞い たら「もちろん!」という答えが返ってきたんです。これは、国民性だなと思いましたね。韓国人と中国人では同じ顔形をしていても、全然違いますね。かえって中国人の方が日本人に近いところがあります。広い国だから大陸的なおおらかさで、例えば第二次世界大戦とか、残留孤児とかも心が広いというところがあります よね。でも、韓国の人は許さないですよ。悪い事は悪いとはっきりしています。
 この後、話はさらに進んで、気がつくと中国で、猫や犬を食べてしまったという体験談やトイレの各国の事情という話になり、今まで以上に熱の入った激しいディスカッションになったのですが、紙面の都合でご紹介出来なくなりました。この続きは、近いうちに又ご紹介いたしますので、ご期待ください。 

■でもタイに行こうというきっかけは。

▲元もと奥地で仕事をしてみたかったんですね。行ってみたいという気があっても、体がどんな風に気候とかになじむか試してみたかったんです。そんな時にタイの奥地に行くという話があって、行ってみたんですね。そうしたら、やはりショックを受けましたね。想像していたものとは、温度とか、臭いとかが違っていたんです。もちろん、行く時には、覚悟を決めていきましたから思った程でもなかったんですが、かえってタイから戻って来て日本のスーパーに入った時の方が凄いショックだったんですよ。
 あまり奇麗にパッキングされていていろんな物が並んでいるでしょう。だから、逆カルチャーショックだったと思いましたね。
 タイの僻地教育振興会という所のボランティアグループについていったんです。そのグループ自体が僻地の子供達に文房具を送ったり、古着を送ったり、そういう事を手渡しでやっているんです。でも、結構危ない所を通るんです。それで、タイの陸軍が同行するんですね。子供達にハイとか言って手渡すんですが、そのそばでは陸軍が銃を構えて見張っているんですよ。
 そういう所へは女の子ひとりで、行きたいと思ってもいけないですよね。だから、いいチャンスだと思いました。そこで初めて、生活するレベルの所で外国人と接した訳です。でも、全然タイ語なんて分からないし、一緒のボランティアグループの人は英語が話せるんですが、私はそれさえも良く通じなかったですね。
●人と人がいて、何とかコミュニケーションを取りたい。けれど出来ないから、その手段として会話が生まれたという感じですね。だから最初は一生賢明だったと思います。



こならの森 10号

2008-03-18 | 創刊~100号

       10号1989年2月発行

●目          次

看板娘・カラムコラム………1
フォトメッセージ……………2
タイムスリップ〔橋〕………3
つれづれインタビュー………4
写真特集・成人式……………6
マン&ウーマン・トピックス 10
ヒストリー・トリップ………12
スターウオッチング…………16
街角の肖像・芝居三昧………17
サークル紹介・海外旅行入門18
ブックス・テン絵本の紹介…19
インホメーション……………20
アウトドアースポーツ………22
結婚しました…………………24
ぐるめーる・オープン情報…25
協賛店マップ…………………26
僕の好きなMONO…………28
美容と健康・ストレッチング29
センチュリーラン・コーヒー30
こなら通信・購読者名簿……32




本文抜粋記事

●カラム・コラム
 東京の某デパートがピカソとルノアールの絵をセットにした福袋を五億円で売り出したそうだ。実際の値は八億円で三億円はオマケだと言う。この値段は我々には関係のない金額だが、つまりは客寄せのイベントだから、本当にスゴイのは実は金額なのではない。売り方がモノスゴイのだ。当方は美術史に暗いからピカソとルノアールの組合わせがどうなのか、当の作品がどうなのか知らない。しかしこの二作を福袋にしてしまうという発想はモノスゴイ。古来売買する品にはその物に応じた売り方買い様というものがある。件のデパートはそんな事にトンチャクしない。
 近年欧米での日本人の名画買い漁りがヒンシュクを買っているが、この件も同様の反応を受けるだろう。しかしこのデパートの態度にはそんな趣味人の奇麗事を物ともしないスゴミとでもいうようなものがある。値の付くものは要するに商品であって、それ以外の意味は断じて認めまいとでも言いたげな、成り上がり者のスゴミとでも言うべきものだ。これは八億円のシナモノであって三億円はオマケである、どうだスゲエだろう、文句があるか、という所か。ほとんどアッパレである。
 欧米人の趣味だの伝統だのをケトバすようなこの態度には、我が商業国家ニッポンの精神が如実に表れているようだ。惜しむらくは全く無自覚に行われているらしい事で、本当の所、この無自覚という所が一番目覚ましくかつモノズゲエ所かも知れない。


こならの森 9号

2008-03-17 | 創刊~100号
       9号1989年1月発行

看板娘・カラム・コラム・・1
Like a 富士山・・・2
タイムスリップ・・・・・・3
特集・食文化について・・・4
若き芸術家の世界・・・・・10
ヒストリー・トリップ・・・14
トピックス・・・・・・・・16
僕の好きなMONO・・・・18
ブックス10・絵本の紹介・・19
インフォメーション・・・・20
アウトドアー・スポーツ・・22
結婚しました・・・・・・・24
美容と健康・・・・・・・・25
協賛店マップ・・・・・・・26
センチュリーランinハワイ・28
サークル紹介・芝居三昧・・30
街角の肖像・・・・・・・・31
こなら通信・会員名簿・・・32



【特集】
食文化について考える
 
農文協関東支部
係長 香川通男さん

 郷土の「食」という観点から、先頃『栃木の食事』という本を出版された農文協の関東支部係長香川道男さんにお話を伺った。

◆初めに栃木県の『食』という点で、特色や他と違っているところは、どういうところですか。
 わりと豊かな土地がらで、昔から飢きんもあまりなかった。ただ海がないということで、川魚など川の利用という点が大きかった。鬼怒川と渡良瀬川と那珂川とわりと大きな川がありますが、その流域によって食事の特色も出ています。それと山間と平場と、北と南を分ける里芋文化ですね。
 西那須を中心にして、開拓地がわりと多かった。そこに里芋などが植えられたわけですね。あとは葛生の山間などもそうですし、田沼なども戦後の開拓なんですね。米が出来ないものですから、里芋とかそば、仙波そはなどは有名ですよね。
 面白いのは栃木県の中でも足利は食生活の面で他と違っているということです。『しもつかれ』を取っても佐野や館林、邑楽郡あたりまでは作るみたいですが足利は作らないんです。体質に合わないというんです。

◆ある足利に住んでいる人は栃木県だとは思っていないと言っていました(笑)。極端な例でしょうけれど。
 
 そうですか、この「栃木の食事」なんかも売れていないみたいで(笑)。佐野とか、栃木と比べて農業人口が少ないせいもあると思いますし、紹介されているものなども、作られていなかったりしてなじみがないみたいですね。書店さんや、農家の人に話しを聞いてみてもそうらしです。

◆話は変わりますが、編集方針といったものをお聞かせ下さい。
 私共はもともと農林省の管轄の社団法人で、生産の問題をずっと取り上げてきた訳です。
 今、出版の柱というか分野としては『衣・食・農・思』という四つの分野を大きな柱にしてやっています。『思』は思想ということもあるんですが、教育という事を意味しているんですね。農村だとか農家でやってきた自然の問題などを取り上げていくなかで、今一番侵されているもの、矛盾が一番出ているものを追っていっているんです。農業も本来、安いとか高いじゃなくて、その土地で採れたものをどうやってその地域の人が食べるかということが基本にならなければいけないし、教育だって、教育産業じゃなくてやはり自分の子供を育てていくという事だと思うわけです。

◆宮沢賢治の世界みたいですね。
 そうですね。だから食べ物も商品化するものじゃなくて、今はもう全部工場化していますが、本来システム化されてはいけないものだと思うんですね。
 家庭の味だって、その家々で違っていたし、料理人の方がやる料理とはまた違ったものだった。それが今はもう外食産業だとかそういうものに、侵されている。だから四つの柱でやってきているなかでも特に『食』の問題というのは、健康の方にも衣料の方にもつながっていく重要なものなんです。
 それから教育問題のなかでも一番、食べ物というのは歴史だとか地域の事を考える上で大きな柱になるだろうし、自然教育という意味でですね。教育が抱えている問題をみていく場合でも食べ物というのが一つの入り口になっていくんじゃないかと思いますね。

◆学校給食といったことですか。
 そうですね、給食だけじゃなくて食べ物がどういうふうに出来ているのだろうか、最近の新聞に出ていましたがニワトリの足が四本だとかってのがありましたね。そういう自分達が食べているものがどういう過程で出来ているのか、もう離れてしまっていて、本だけの勉強になっているような気がします。
 また、体験学習というものが広がってきていますよね。文部省の体験学習というものだけじゃなくて地域の人と一体になって学ぶものという事でやっているんですが、そういうことがこれから大切になっていくと思いますね。

◆先ほど話しにでました、『栃木の食事』という本についてお話し願いたいんですが。

 大正から昭和初期にかけて、主婦だった方、現在は七十才から八十才くらいですが、その方達を取材し聞き書きという形で当時の食事というものを編集していったものなんですね。普通の本と作りかたが違う点は、ひとりの方が全部書くというのではなくて、編集委員が三年掛かりで掘り起こし、実際に再現しながらやっていくということですね。百名くらいの当時主婦だった方に話を伺いました。
 ただ、記憶がしっかりした方でも、けっこう忘れてしまっている事が多いんですね。行事のことなどとか。だから一回聞いたことを整理して、分からない所を再調査する。という事で何回も訪問するんですね。
 上河内町を担当されていた高橋さんがこう言っていました。この本に出てくる花塚さんと言う方は湯津上村の村長さんの家のおばあちゃんなんですが、この場合もやはり最初は仲良くならないと、普通の調査みたいなことではなかなか出てこないみたいで、何回か通って、やっと話す気になってもらったという形みたいです。
 次世代に残す本という事で、そういう性格のものにしていきたいですね。また、こういう本が読まれて活用され、それこそ学校とか一般の婦人のグループとか、農協の婦人部などの料理コンクールとかがありますよね、そういうようなところで現代的にアレンジして地域地域でそういうものを復活させてくれればと思っています。学校などでも給食などに取り入れたりとか、まあそういう動きはありますよね。給食に郷土料理の日というのがありますけれどもね。

◆それは、その土地の忘れられた物を出すということですか。
 やはり地域によってやり方が違うみたいですね。決まった物、例えば有名な『しもつかれ』を出すとか、そういうことを高崎などではわりと良くやっています。PTAでアンケートを取ったり、郷土料理とはどういうものかというところから始めて、給食を通してお母さん方に考えてもらおうという活動ですね。本来はそういうものだと思うんです。 ところが今は親と分離して、親が面倒くさいから学校給食にするみたいなことになっていますが、親自体も子供が給食で何を食べているのかに関心を持って、家庭の食事にも反映していく、そういうものになっていかないといけない。給食は三回のうちの一回ですから、後の二回は家庭なわけですからそこがしっかりしないと、昼だけ一応栄養的によいもの取っても良くならないと思うんですね。

◆栃木の食事料理ブックみたいなものが出来るといいかもしれませんね。

 そうですね例えば、ばあちゃんとね、「このドジョウの卵とじというのどう作るの」とか、当時はどうだったとか家族でその話が出たり、はたまたじいちゃんの自慢話がでてきたりとかすれば家族をつなぐようなものになるんです。
 今のパック入り食品では、みんな味が同じですから、そこから話はなにも広がらないですよ。 農業問題でも、生産者と消費者の対立関係みたいなことになっていますけれども、本当はそうじゃなくって、やぱり農家も安全ないい物を届けたいと思っているし、消費者もそこは一緒なはずなんです。それが安いとか高いとかという事だけになってきている。

◆これからは『食』というものがどういうふうに変化していくとお考えですか。

 今の流れとしても、反省というものがなされてきていると思います。ただ今の食品は手っ取り早いものが多いですから、これをすぐ止めるというような事は難しい。ただ郷土料理そのものへの欲求が強くなってきていますから、これからは伸びていくと思います。一方で外食産業の方も郷土色とか、おふくろの味だとかで作ってきますからね。 同じものは出来てくると思うんすね、郷土料理のパックとかね。それとはべつに、料理人の方が各県の食事を買って勉強します。やっぱり郷土料理も飽きられてきていますから、なんか新しいものを作っていかなければならないし、原点というか庶民の味というかそういった意味で専門家がこの栃木の食事を注目している。料理の良い所と言うのは、農業もそうですけれども、工場の労働というものは決まった物が生産されてくるけれども農業というのは分からないですよね。毎年どうなるか分からないし、自分が手をかけたらかけただけ実ってくる。料理だって出来ないという人はいないけれど下手な人と上手な人とは違うし、また次回作れば違うし、今度はこうやって工夫してみようかとか、そこがやっぱり楽しみだと思うんです。

◆最近は、グルメブームという事ですけれども、味噌とか醤油あるいは豆腐といったものでは、昔ながらの手法で添加物を一切使わいないといったものがうけていますね。

 ある程度、年輩になると、自然に体がそういうものを受け付けないようになるんです。インスタント食品みたいなものの類ですね。だけど子供達や若い人達はそういうものにずっと汚染されて来ているから、本当の味というのが分からなくなってきている。

◆みそ汁のだしにしても、『〇〇だし』とか言って、簡単に取れるものだからちゃんとしただしを取らなくなって来ている。
 やはり、小さい頃に食べた物というのは基本ですね。ところが今の子供は「これが本物の味だ」と言っても分からないですよね。保育所などでも、食べ物の事を見つめていこうということが出てきていますね。やはり、小さい時の味覚というものを大事にしたいですから。
 それから今、子供のアトピーを取りあげていて、単行本も出しました。群馬大の松村先生という方に書いてもらったんですが、これが農文協の六十三年度のベストワンなんですね。年間百点くらい出版するんですが、第一位がそれで、『食品添加物とつきあう法』というのが第二位、『国産小麦でパンを焼く』が第三位なんです。
 埼玉で行われた農産品フェステバルで、本の即売会があったんですが二十代から三十代の女性の方は殆どといっていいほど手に取って読んでいました。数字上は分かるんですけれども、実際に反応を見てみるとすごいものだなと、思いました。そういうことで悩んでいる方や、回りにそういった問題をもっている方とかそれぞれですが、潜在的アトピー性皮膚炎の子供は、統計で乳幼児の今四割くらいだということですね。それだけ問題になっているということですね。
 あらゆることを使って教育家はそういうことを訴えていかなければいけないと思いますよ。次の国産小麦なども農家を守ることだし、パンにしたって自分の所で焼けるし、日本の小麦がまずいということじゃないんですね。そういうことで、活動してきたものですから、今年の小麦の生産も百万トンを二十年ぶりに突破したんです。

◆国内産小麦が注目されたといことですね。

 やはり、やる人も少しづつ出てきていますし、農文協も増収の技術を雑誌などで訴えていこうと思っています。国内で作れるんだということと、やっぱりそれを喜んでくれる消費者もいるんだと言うことを訴えていくということです。

◆グルメブームの火付け役と言われる『美味しんぼ』というコミックが売れていますし、最近ではTVで放映されています。グルメブームの中で『食』というものが注目を集めていると思いますが。

 わりと、マンガなんかからしても食べ物の問題というのが一番関心が強い。だけどどこから、どういうふうにしていくかということが分からなかった。そこへ、アトピー性皮膚炎の問題がでてきて身近な問題として若い人が関心を示すようになったということですね。しかも、三十年代からですからね、アトピーというのが出てきたのは。

◆花粉症もそうですね。戦前はなかったし、なんか戦後になって高度経済成長期をむかえておかしくなってきてしまった。

 輸入農産物の問題もあるだろうし、食品添加物の問題も大きいだろうし。そういう意味で、栃木の食事は、大正から昭和初期の食事ということなんですね。この時期は昭和の二十年代とも、高度経済成長の三十年代とも違う。自然の中で、地域もそんなに物が流れているという時代じゃないですから、地域で取れた物を使っていたわけです。
そこに原点を見ようということは大事な事だと考えますね。

◆グルメブームも行き着くところは昔ながらの味ということが言えますね。
 今日は、どうもありがとうございました。


こならの森 8号

2008-03-16 | 創刊~100号
     1988年 12月発行

C O N T E N T S
1p  看板娘/目 次 
2-11p [特集]年末年始情報
12p  タウン・スナップ/人物紹介
14p つれづれインタビュー
16p 僕の好きなMONO18p としこのポエム 美容と健康
20P 結婚しました
22p タウンウオッチング 
24p きままにアウトドアー
26p 「センチュリー・ラン」
28p 情報コーナー

本文抜粋記事

「街角の肖像」 その3

 イカした車は、殺風景な街角の風景の中にも庭石のようにしっくりとおさまってしまうものである。『イカす』というのは、私の価値感だが、ちかごろやけに目立ってきた『みこし』っ面のラジエーター。あれはいただけない。車自体の存在を誇示するあまり、周囲の景観を損ねかねない。車はやはり車であって、脇役に徹してこそ、イカすのである。

23p
サークル紹介     
「安蘇史談会」
 毎月、第一木曜日(城北地区コミュニティセンター)と第三水曜日(植野地区コミュニティセンター)を会場に、安佐の歴史愛好家が集まる。現在、会員は三十代から六十代まで二十名ほど。このタイプの会としては、異例な、『史談』という百五十項にもおよぶ会報を年に一回発行している。また、年に一度功名な講師陣を招いて歴史講座を開催するなど、幅広い活動は各方面で高い評価を得ているようだ。 毎月の例会では、盛んな意見交換がなされ、情報交換の場となり充実した時を過ごすとか。そのためか皆例会日が来るのを楽しみにしている。ほかにも日帰りの見学会などを行い会員の親睦、交流もかかせない。郷土を愛する人は、どなたでもぜひ参加して欲しいとのことだ。入会希望の方は@24・3232(大高)か@23・0581(京谷)まで



こならの森 7号

2008-03-15 | 創刊~100号
     1988年 11月発行

C O N T E N T S
1p  看板娘/目 次 
2-5p [特集]それぞれの秋………
8p  タウン・スナップ/人物紹介
12p つれづれインタビュー
14p モータースポーツ
16p タイムスリップ
20P 結婚しました 
22p タウンウオッチング
24p 僕の好きなMONO
26p 「センチュリー・ラン」
28p 情報コーナー


本文抜粋記事

つれづれインタビュー
「シルクロードをゆく」米田 司さん


◆シルクロード以外にもたくさん旅行されたそうですが、初めてに海外へ行かれたのはいつ頃ですか?
◎最初が二十八才の時で、三か月間でした。二十三年前ですか立教大学のコーカサス遠征があったんですね山登りの。僕は旅行も好きでしたが、山岳部でしたしからなにより山が一番好きなんですね。
◆どれくらいの日数だったんですか。
◎三か月くらいで人数は八人くらいでした。それで、その時に、テルブースという山があったんです。黒海とカスピ海にはさまれた山脈の中なんです。それで山登りが終わって帰りに天津山脈に寄ったんですね。天津山脈にアルマータとかフルンデとかがあるんですが、それを旅行したのが一番最初なんですよ。
◆二回目の時は。
◎その翌年に二十五日間くらいでしたが、今度はエルミタージュとかレニグラードを回ったんです。ソビエトを半周くらいしました。もうレニグラードは、最高に奇麗な街ですよね。
 それで、帰ってくると一週間して、アメリカへ行ったんですよ。その時はおもしろかったですよ、社会主義の国から、すぐに自由主義の国へいったわけですから。いろいろ見方が変わって良かったです。
◆パスポートとか、ビザ等や共産圏に入る事の制約というのはどうでしたか。
◎最近は緩くなったけれど、その頃は(今でもそうなんですけれど)日ソ・ツーリスト・ビューローというのがあって、ようするにソビエトの代理店で、そこへ申し込むわけですよ、自分のスケジュールを言うわけですね。
 中国も同じで、それを本国に送って向こうから許可が下りるんですね。そうすると行って良いことになるんですよ。
 その後、個人でも行けるようになったので、息子達とかひとりで行くようになりました。  三年前くらい前にダイリという街へ行ったんですよ。マルコポーロ東方見聞録を読んで、そこに出てくるダイリという街へ行って見たいと思ったんです。 そのあとレイコウという街へ行きたかったんです。楊子江のほとりにキンシャコウという街があるんですよ、そしてそこへ行くとギョクリュウセツザンという六千メートルの山があるんですよ。僕はその山が見たいわけですよ、そこで交渉するんですが、そこまでビザをとっていなかったのでいくら言っても駄目だったですね。
 最初、シャンハイからコウシュウへ行って、コンメイへ行ったですね。それで、ガイドと運転手を雇って三人で行ったわけですね。約六百キロあるんですよ。途中、途中休みながら行くと、そこで青年商店というのがあるんですね。いっぱいあるんです。それで青年商店というのは何かと思って入って行くと、なんて事はない普通の商店なんですよ。ガイドに聞いたんですね。そうしたら、待業青年がやっている商店だっていうんですね。
 聞いたことありますか。
待業というのは仕事を待つということで、ようするに仕事がないやつだというんですね。おやじさんから金貰ってそれを持ち寄って、ペキンとかシャンハイから物を仕入れてそれを売っているんだというんですね。「これじゃ、資本主義とまったく同じじゃないか」というと、そうじゃないというんですね。そういう連中は職がないから待っているわけですけれど、食わなけりゃならないからやっているわけなんですよ。
 「就職はどうするんだ」と言うと・・・たとえば、堀米町から何人、若松町から何人というぐわいで割り振りが来て、試験やるんですね。それで、受かれば採用される。
 「いつも試験に落ちる奴はどうするんだ」というと、ドブ掃除とか、セメントの袋折りとかそういうのにしかならないというんですね。
 「そんな馬鹿な話ないんじゃないか」と言ったら「努力していないからしょうがない」というんですね。
このあいだの映画、敦煌じゃないけれど昔から試験制度が発達していますからね。そういうふうになっているんです。
 そこにいた彼は、夜になると独学のすすめなんて本を読んでいるわなんですよ。そして、日本の案内文を書いているんですね。それを約して書くわけなんですけれど、間違ってたら直してくれなんて私の所へくるわけなんですね。ものすごい、勉強家でね。
 あとで、待業青年の話をシャンハイで聞いたら五十万とも百万ともいうんですね。それも、シャンハイ地区だけなのかはっきり聞かなかったですけれど。あまり、良い顔で教えてくれなかったですね。
◆一番印象に残る街とかは?
◎やっぱり自分で一番初めに入ってた国が一番好きですよ。たいがいそういう風に言うんじゃないんですか。ソビエトなんか堅い国だと思うじゃないですか、それが、まったく明るいんですよね。音楽とか、そういった文化がね。あと、キムチなんかもありますね。向こうのキムチは甘かったですがね。それから《うどん》。中国が発祥地でしょう。けっこういろんなものがあるんですね。
 コーカサスなんかもどこでも同じでしょう都会を見る分には、例えば、ペキンだってシャンハイだって・・・。都会見たんじゃおもしろくないですよ。田舎ですよねやっぱり。特に、パキスタンとか、インドの北とかへ行くとそこの人は、彼らなりに生きていて、また僕たちの文明とかいうのを拒否しているようにみえますよ。ただ、そこに万年筆が入った、ライターが入った、車が入ったというよう話であってやっていることは(昔と)同じでしょう。見かたが個人個人で差がありますけれども・・・。
資本主義の社会だとどうしても儲かると思えば、道路を作って入れるとかしますね。
◆後の事など考えずに、とにかく通せば便利というぐわいですね。
◎ええ、そういう意味でかなりインドなどは変わって来ていますよね。これからも、中国などは、シルクロードへたくさん人が行くようになると変わるんじゃないかと思いますよ。一番心配しているのは敦煌です。あまりに人が入るんで、壁画などがそうとう傷むんじゃないんですかね。だから、話によるとこれからはレプリカを作ってそれを見せるようですね。作家の井上靖が一番奇麗だと言った菩薩など、見せないんですね。だから僕らはガイドにチップはずんで、中は暗いですから懐中電灯で(みんな明るくして見るんじゃないです)見たんです。みんなそれで見るんです。それも、朝が一番がいいっていうんですよ。扉が締まっているでしょう、そうして日が差しますね、それで見る壁画とか、仏像が一番いいんだっていうんです。僕らは朝早く行ったんですが、分からなかったですね。
 とにかく敦煌は圧巻です。
◆シルクロード中では最高ですか?
◎ええ、すごいですよ。本で読んだり写真で見たり、テレビで放映したりしましたが、行ってみたらさすがと思いました。あとは、たいしたことないですよ。 佐野でも、ユネスコ主催でシルクロード展をやるそうですが期待します。うまくいけばいいですね。 
 次回につづく


こならの森 6号

2008-03-14 | 創刊~100号
     6号 1988年 10月発行

C O N T E N T S
1p  看板娘/目 次 
2-5p [特集]国際交流してますか
8p  タウン・スナップ/人物紹介
12p 韓国語・英語・日本語 教室
16p 結婚しました
16p つれづれインタビュー
18p きままにアウトドアー
20P タウンウオッチング 
22p 玄人語り「小森好子さん」
24p きままにアウトドアー
26p  僕の好きなMONO
28p 情報コーナー

本文抜粋記事

■特集 国際交流してますか

真の国際人として

 現代は正に国際化社会であると言われているが、国際人と言うと外交官を思い浮かべる昔と違って、しばしば外国へ出掛ける人のことまでを言うそうである。おまけにそれが今やファッションと化している。どうも外国旅行をすれば国際的になれると信じこまされているようだ。手取り足取りのお任せ旅行では、三六〇度のパノラマスクリーンの中にいるようで、これでは英語を話す必要性も国際交流をするチャンスもない。
 佐野市でも在住する外国人が百人以上にもなるという。もう今や一部の人がやっていればよいという段階ではなく、日常的な感覚と態度で付き合えるようになる必要があると思う。
 海外旅行は本人に取って大きな収穫となる重大事件だが、国際理解という観点からみるとほんの一部分にしかすぎない。自己の考えで外国人と交流して行くことではないだろうか。自分自身の問題として。

ホームスティのすすめ
 国際化とか、国際理解などとむずかしく考えてしまうのが一番いけない。難しくなるばかりだから、もっと身近に国際交流を考えてみるとホームスティをして直に肌で触れ合うという事が一番。それも、海外へ出て行く時間も余裕も無いという向きには反対に受け入れを・・・。とは言っても最初は大変そうに見えるので殆どの人が断念するようだ。しかし、そうも言っていられない時世。一億総国際人の今では、当たり前に成りつつある現象だろう。特に、国際交流とか、国際化をなどと口にする人はぜひともチャレンジを。 外国青年招へい事業とか海外派遣友の会とかいう団体があり一年のうち、とにかく何かやらなければいけないと日頃思っているのでそういう人達となかよくなるのも一手。 年に一度は県や国あるいはその他の団体からホームスティの受け入れのお誘いがあり、何かやりたいと言っている言葉とは裏腹に断るのに賢明な人達ばかりだからきっとチャンスがあるはず。だが今年の佐野市のように、県全体で二十五名なのに、四名も名乗りを上げるなどと言う時には無理かもしれない。
 うちは家が狭いからとか、言葉が通じなくてという人でも、(たいがいそういって断るのだが)大丈夫。こんな人の例もあるのだ。2LDKのアパートにホームスティできた夫婦と自分達夫婦の計四人で二週間も生活したとのこと。それも、両夫婦の部屋はふすま一枚だけというありさま。プライバシーもへったくれもない。さすがにこの時ばかりは、疲れ果てたらしい。(お陰で「こならの森」創刊が一カ月延びてしまった。)

食事
 「米国人というけど、まさかお米は食べないでしょう。」とか、「お刺身は駄目なのよね。」とかあれやこれやと悩むのがこれ。しかし、ここは日本だと居直ったほうが得。言葉にしても、だれか分かる人を探して来なくてはなどと、《過保護》にするのが一番いけない。日本に来るなら日本語を勉強するのが当たり前、下手な英語で通じなかったら後はもう知らない。おまえが悪いと思うぐらいでないと、長期戦には絶えられない。
 近所の人の中には、カルチャーとか、国際理解にはまず英語とか言って(何も分かっていない)英会話を習っていて、話すチャンスに飢えている人が一人や二人はいるはず、そいうひとにまず目を付けて置こう。
 話がそれたが、まずお米のごはんを中心に据えよう。一人だけ違った料理を作るなどというのでは面倒だし、第一なにしに来たのか全く分からなくなってしまう。それでも駄目だと言うのなら、コンビニエンスがある。 そして、団らんの時間は、やはり日本茶を出すのが正式なやり方と思う。

風呂
 短い間なら問題が無いが(入らなければいいのだから)長期間になると、ややこしい。ちゃんと説明しておかないと大変なことになってしまう。欧米人は一度浴槽に入ると水を抜いてしまう習慣だから、次に入ろうと服を脱いで飛び込むとけがをするどころが、空焚き。なんて事に成りかねない。そこまで行かなくてもポリ浴槽をダメにした例もある。

宗教
 信仰を持っているひとなら問題はないが、多くの日本人はこの宿命に泣く。
 宗教を聞かれて、仏教とまで答えたはいいが、そのあとそれなのに何故神社へいくのか?と聞かれて、唖然としたと言うことを良く聞く。先方からすれば、信じるものがないと言うことは人間と見なさないという人もいるくらいですから。日本人の宗教感についてしっかりと説明出来るようにしておきたいもの。



こならの森 5号

2008-03-13 | 創刊~100号
     5号 1988年 9月発行

C O N T E N T S
1p  看板娘/目 次 
2-5p [特集]かくして夏が終わり
8p  タウン・スナップ/人物紹介
12p 韓国語・英語・日本語 教室
13p 結婚しました
16p つれづれインタビュー
18p としこのポエム 美容と健康
20P タウンウオッチング 
22p 僕の好きなMONO
24p きままにアウトドアー
26p 「センチュリー・ラン」
28p 情報コーナー


本文抜粋記事


■僕の好きなMONO

 「ジッポー」

 第二次大戦後ジープとジッポーをG・I達が持ち込んだといわれる。現在はライターといえば百円ライターつまり使い捨てライターの時代であり、日産二千万個とも五千万個ともいわれ近頃はやりのDRYな使い方がされている様だ。それに対しこのジッポーライターは半世紀以上もの間、デザイン、機能を変えることなく世界中で愛好されている。百円ライターはタバコ屋さんで売っていて喫煙具というイメージであるが、このジッポーは生産される四〇パーセントは企業マークやメッセージに利用されているというたとえば、クラブ、サークル、結婚記念、事業記念、有名人等はロゴやメッセージを入れ名刺がわりに作るという、実用性はもとより耐久性に優れている為に年月と共に価値が高まる様である。このライターを買うと必ずケースの中に保証書が入っていて永久保証を明記して有り何回、修理しても無料である。このシステムはデザインや機能を半世紀も変えなかった様に現在も守り続けている実にトラデショナルなのだ。売りっぱなしほったらかしの日本企業とは違うところだ。(例えば清涼飲料自転車等、吉沢輪業の自転車は違うが。)洋服でいえば、Jプレスやブルックスの様に、一つの洋服を買って本人が着て、子供が着て、孫が着るJプレスは国内ライセンスでオンワードが作っているから、だめだろうしブルックスの354は大同毛織ニューヨーカーだから無理だろうがブルックスのウオンメークはブレザーでも十万円前後するけど今でも大丈夫だろう・・・・。
 洋服の話はともかく、ブルックスに通づるものが有る。創立当時の修理の為に所有者は1セントたりも費す事があってはならないという社の誓いは守り続けられいる。ある人は二十年間ジッポーを愛用していてこの間三度、修理してもらい、四度目の修理の修理の時に1ドルを同封してジッポー社に送った。修理を依頼されたジッポー社は、ゴールド・ジッポーと1ドルを送り返したという。永久保証というシステムがジッポーという名を広め、第二次大戦時G・I達のおかげでアメリカから世界中に広がった、その後も朝鮮戦争やベトナム戦争で大いに使用された、そして多くのエピソードがある様だ。三十数年前のジッポーにオイルを入たらジュパーと赤い炎がついたとか、魚の腹から出てきたジッポーが一発で着火したとか、ベトナム戦争で胸ポケットに入れていたジッポーでベトコンの弾丸を食い止めたとか、ヘルメットの中でスープを暖めたとか、実にこのライターには話題が多い。これは故障が少なくいつでもどこでも確実に火のつくライターだからだろう。このライターの誕生は一九三二年アメリカの大恐慌の事、オーストリア製のライターから始まる。タバコを吸おうと友人のライターにづいた。そのライターは火をつける事にカバーをはずす使いにくい代物だった。友人は動けばいいと答えた。このことからこのライターは生まれた。まずケースを持ちやすい長方形に変えちょうつがいでカバーを付け、芯の部分を風よけで囲んだ。これからウインドライターと言われる様になる。近頃ジッポーに似た物が多く出ているがこれらは差し詰めコピーライターとでも言うのだろうか。
  
 僕はタバコは吸わないが、スポーツトレインの赤・白・黒のデコイをデザイン化しロゴの下に山を配したライターが気にいっている。スポーツトレインといってもピンとこない人もいるかと思うが一三年、四年前のアウトドアーブームの時の原点の店といってもいいと思う。当時の、マンパやディーパックなんかほとんどこの店から広まった様なもので、間口はあのボートハウスと同じで、一間位しかない小さな店で青山墓地のところにある店なんだけれども・・・。楽しい小物がいっぱい有って、今でも覚えているけれども、店の軒先にほうきの先の部分みたい物が一本あったので聞くと、その物体はその日の湿気によって天気が分かるそうなのだ。なんでもアメリカインデイアンの一部が利用していたそうだ。でも自分にはどうしても普通の枝切れにしか見えなかった。その店であの頃めずらしかったバードコール等を買ったものだ。この店のオーナーは後に、黒沢映画の「影武者」に出た人と言えば分かる人も多いかもしれない。その店のライターが数個は有る様だ。百円ライターがタバコならジッポーはアウトドアー、ジッポーのオイルの臭いが嫌いでオイルに好みのコロンを入れて使うなんて人がいる様だがやはり、このライターはIT WORKSがいいと思う。