KONASUKEの部屋

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「かぐや姫の物語」観てきたよ・感想編

2013年12月01日 | 映画
いきなりだけど、終盤で、月から迎えが来るシーン。
妙なる雅楽の調べを奏でつつ、雲に乗った月世界の住人たちと、仏様っぽい父王(?)がやってくる。
何となく、「阿弥陀(あみだ)の浄土」(※)みたいだな、と思っていた。
そこには春夏秋冬もなく、迷いもないのだそうだ。
映画のかぐや姫も、地上での記憶を失って、悲しみもなくなるはずだが、果たしてそれって、幸せだろうか?
(別に宗教を批判しているわけではないです。)
季節の移ろいや感情の起伏がないというのは、死んでいるのとどう違うのだろう?
思わず、考え込んでしまった。

確かに、時に人間は醜い。
劇中の求婚者達は、噂だけでかぐや姫に夢中になり、ペテン的な手法を使うことも厭わない。
翁も、父ゆえに、娘を思うゆえに、愚かしい。

人間が生きることは、苦しみに満ちている。
高校の倫理でかじった仏教。
生老病死、愛別離苦。
僕自身、幼い頃、若い頃、キリスト教に救いを求めた。

でも、劇中歌の「わらべ唄」にもある通り、季節がめぐり、天地が生命を育み、その中で、人は生まれ、育って、死んでゆく。
それ自体が尊いし、美しい。
愛しくて哀しい。

当たり前のことなんだけど、食うことに汲々としていると、つい忘れがちになって。
生きるために食ってるのか、食うために生きてるのか、わからなくなる。
感情が涸れそうになる。
だから時々、泣ける映画とか、ドラマとか、観たくなるのかもね。
心を呼びかえすために。


蛇足
かぐや姫が疾走するシーン。
月がどこまでもついてくるように思えたけど、あれって、伏線だったのね。


※以下、水木しげる著
「続 妖怪画談」中、
「Ⅰ あの世めぐり」の章、
「阿弥陀(あみだ)の浄土」より抜粋

 そこに行くと、からだはたちまちのうちに紫磨金(しまごん)色となり、首飾りや宝冠を身にまとった姿となる。
-中略-
 春夏秋冬もなく、寒くも暑くもなく、音楽が常に奏でられ、香のにおいが充満している中で、人はこの阿弥陀如来の法を聞く。
 雲は空中での乗り物となり、この上で法に耳を傾ける者もいれば、座禅三昧の者もいる。
 平穏無事、といった世界である。ありがたやありがたや。


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