雑感293
2年前の「図書」岩波を読んだ。
1ページの巻頭言(?)は、横尾忠則が書いていた。
冒頭の4行には次のように書かれている。
セザンヌは自然を円筒、円錐、球で表現すべきだと主張したが、わが北斎の「富嶽三十六景」の絵を嘗るように画面の隅々まで眺めて貰いたい。
やがて画面の至るところから、◯△⬜︎の形が「私はここよ」と声を揃えて自己主張をし始めてくるのに気づく。
雑感294
あるブログから
私自身、書などは出来ませんが以前から気になっていた
この丸・三角・四角の書について
この書を書いた人物
仙厓(1750-1837)
江戸時代、日本最古の禅寺である博多 聖福寺の代123世住職
禅画は「かい画無法」
全く定まった形のない自由奔放なもので
ヘタウマとも言える極限のデフォルメ
仙厓 一流の機知も含まれていると言えます
仙厓住職はこの図柄を見ているであろうか
万物の根源として三つの形を捉へ
それらが重なり合って連なっているようすは
宇宙の全体、又は森羅万象を意味しているのでしょうか
○ 円相
宇宙に存在する全てのもの宇宙そのもの(絶対的な真理)
△ 禅の坐相
足を組んで座禅するとき仏と一体となった姿
□ とらわれた心
社会の常識という四角の中に囲まれて生きている
色(形あるもの)は空に異ならず
形ある物の世界 三角と四角から成り立つ
四角は半分にすると三角になり
三角のままおり続けられる
禅画としては珍しくないそうだが
仙厓住職の心の余裕に感激してしまう
雑感295
これもあるブログから
では、禅でいうところの『まるさんかくしかく』の意味は…
◯ → 円相。欠けることのない絶対的な真理や境地。
◯は宇宙に存在する全てのもの、宇宙そのものを表している。
◯はどこまでも欠けることのない、絶対的な真理を意味する。
一方、◯は状況に応じて変幻自在にその姿を変え、心のうちを表す。
丸い形にとらわれてはいけない、◯にとらわれた心では
◯を描くことはできないし、真理も見失ってしまう。
△ → 仏と一体となった姿
足を組んで座禅をする時、どっしりと腰をすえて、
頭は天をつきあげる。これを坐相という。
禅の坐相は△。
☐ → とらわれた心
☐に囲まれているのはとらわれた姿。
人は社会の常識と言う四角の中に囲まれて生きている。
そこで悩み、生きにくい世の中だと嘆いている。
しかし、ここから一歩、四角の外に踏み出せば禅の世界に入る事ができる。この四角のどこでもよい。
禅の世界にここから入れという門はない。
だからとにかく踏み出す。するとそこが禅の入口になる。
https://marusankakusikaku.com/2014/01/blog-post_3437/
雑感296
三角△は、富士山
丸◯は、人物の頭部にのっかっている丸い笠や水車や桶、時には構図を決定する巨大な◯の曲線の一辺として空間を支配する。
そして四角⬜︎は、鳥居や屋根や壁や板などの建材物であったりする。
(横尾忠則)
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