新・私に続きを記させて(くろまっくのブログ)

ハイキングに里山再生、れんちゃんとお父さんの日々。

江戸城の見えない日本橋──安政江戸地震後の江戸を歩く

2023年03月23日 | 源氏物語・浮世絵・古典・伝統芸能
丹波の農作業の帰りに、書店で見かけた『北斎 富嶽三十六景』(岩波文庫)を買い求めた。身体を動かすと、脳みそも刺激を欲するようだ。

『富嶽三十六景』を画集で観るのは、9年前に仕事で取り上げて以来で、久しぶりである。

『ゴッホの手紙』からの引用だけで本文を構成した、このいささか趣向の変わった思い出深い仕事は、『アナと雪の女王』を観た記憶に結びついている。オーナーの命令どおりに従った仕事が予想通り不如意に終わり、秘書氏に「直帰するでえ」と宣告し、日のあるうちに部下氏を相手に飲んでいたシャーベット状の氷結酒に、まどマギ仲間のフォロワーさんにこの映画を薦められていたことを思い出した。梅田で映画を観た帰りに、紀伊國屋で『ゴッホの手紙』を買い求め、居酒屋で読み耽ったものだ。手持ちの付箋はすぐ足りなくなり、財布の中のレシートを千切って栞がわりにした。

パラパラめくっていると、この絵のところでページを繰る手が停まった。


北斎『富嶽三十六景 江戸日本橋』


日本橋から一石橋を眺める構図で、日本橋、江戸城、富士山の三名所を一つの画面の中に収めている。江戸城の天守は、1657年(明暦3年)の明暦の大火で焼失しているので、左に見えるのが富士見櫓、右が桜田巽櫓であろう。

この絵には西洋画の透明図法が用いられている。日本橋川の両岸の蔵が次第に小さくなっていき、その消失点の先に江戸城と富士山がある。しかしこの透明図法は、科学的なものではない。建物の角度からいっても、消失点は一点に収斂していないのもこの絵の特徴である。富士山、二つの櫓、この絵には見せ場が3箇所ある。もちろん、実景なら、富士山も櫓もこんな比率では見えないはずである。イラストマップなどで、ランドマークの位置や大きさを実際と変えることがあるけれど(あべのハルカスと通天閣を実際の比率どおりに描いたら、かえってわかりにくくなるだろう)、北斎も同じことをやっている。

画面中央にあるネギ坊主に似た擬宝珠(ぎぼし)は、ここが江戸日本橋だというシンボル的な役割を果たしている。擬宝珠は、元は朝廷ゆかりの建造物のみに許された格式の高いものらしい。江戸市中の橋でも擬宝珠のあるのは日本橋、京橋、新橋のみであった。京橋や新橋からも江戸城は見えたはずだが、特に新橋は、富士山と江戸城を同時に望むことは難しかったはずである。

この絵にはもう一つ特徴がある。岩波文庫から解説を引用してみよう。

「しかしこの作品の鍵として、さらに注目しなければならないのは、日本橋の扱いである。それまで日本橋が描かれる際は、橋の上の雑踏、あるいは魚市場周辺のにぎわいを主題として描くことが暗黙の了解であった。しかし北斎は日本橋の雑踏を極限まで画面の下に押しやり、その存在を読者の想像力にゆだねているのである。日本橋と言えば、人々の雑踏を描くことが常識という中、あえてその定番を逸脱しようとしているのである」

日本橋を描く時は、橋の上の雑踏、そして橋の北詰にあった魚市場の喧騒を描くのが通例であったというのは、下記ページを見てもわかる。



広重の描いた『日本橋江戸ばし』(日本橋ヨリ江戸橋ヲ望ム)は、先輩にしてライバルだった北斎の『江戸日本橋』のリスペクトというほかない。『富嶽三十六景』のページを繰る手が止まったのも、そのことに思い至ったからである。

広重は北斎の「定番の逸脱」をさらに推し進め、日本橋の喧騒は、盥の中のカツオでほのめかされるのみである。



広重『名所江戸百景 日本橋江戸ばし』

日本橋が日本を代表する橋なら、江戸橋は江戸を代表する橋である。この江戸橋の河岸で諸国の荷がやり取りされた。

江戸橋も江戸名所に間違いないし、擬宝珠とカツオだけで日本橋を表現する手腕も、只ものではない。広重が北斎と同じアングルで江戸城と富士山を一枚の絵に収めていたのなら、この絵はさらに傑作になっていただろう。

しかしそれはできなかった。広重は、江戸橋の方角に構図を構えることで、江戸城を画面から外さねばならなかった。当然、富士山も見えなくなる。これは安政地震直後だったことが影響している。

江戸幕府は検閲で、幕府や徳川氏の事績に関することは発禁にした。本来なら幕府施設である江戸城もその対象である。ただ、化政文化の余熱があり、天保の改革が始まる以前の『富嶽三十六景』の時代は、まだ検閲も緩やかだったようである。

1855年(安政2年)の安政江戸地震では、幕府は震災報道を厳に取り締まった。

安政地震の記録の集大成である、仮名垣魯文『安政見聞記』は、地震の翌年、安政3年3月に刊行されベストセラーになった。しかし5月には発禁の憂き目に遭う、板元名前人は所払い、作者・画工の一筆庵英寿、摺師・彫師らは画料・稿料・手間賃を取り上げられ、科料5貫文ずつというかなり厳しい処分を受けた。ただし匿名だった魯文は処分を免れた。

広重の晩年の大作であり遺作となった『名所江戸百景』も、同じく安政3年2月に板行が始まった。しかし、安政2年10月2日に発生した安政江戸地震からまだ4か月で、復興の最中の江戸っ子には、名所巡りなど物見遊山を楽しむゆとりはなかったはずである。

1995年の阪神淡路大震災や、2011年の東日本大震災から4か月しか経っていない神戸や福島の観光ガイドが出される不自然さを想像してみてほしい。SNSが発達した現代なら炎上騒ぎになっていたかもしれない。


原信田実『謎解き 広重「江戸百」』によれば、本作は、幕府の検閲をすり抜けるために、名所絵の体裁を取りながら、「この名所は震災でも残った」「被害のあったこの名所も復興した」という、安政地震後の復興状況(世直り)を伝える時事錦絵だったのだという。

そういう見方をすると、このシリーズはさらにおもしろい。


そして、安政地震後の江戸と日本の状況と、3・11以降の現在の日本の状況は、奇妙なほど、重なり合うことがある。

広重は穏やかな人だったが、『江戸百』は、ところどころ、幕府(おかみ)に忖度するどころか洒落で混ぜっ返す諧謔や反骨の精神が垣間見える。これはすでに書いたことだったり、これから書くことだったりするのでブログでは割愛させてもらうが、『名所江戸百景』と同時期に描かれた『六十余州名所図会 大隅 さくらしま』を見てみよう。



桜島といえば、あの噴煙ではないのだろうか? 広重は実際に桜島を見たことはなかったろうが、参照した過去の名所絵には、必ず山頂にたなびく噴煙が描かれていたはずである。しかも、広重は桜島をその名のとおり、桜の名所にしてしまった。桜島だからといって、桜の名所なんて聞いたことはない。

安政地震後は幕府の検閲も厳しく、地震を連想させる桜島の噴煙も、板元により自主規制の対象になってしまったのではないかと私は想像する。広重はこの自主規制を受け入れるかわりに、広重は幕府をあざ笑うように桜島を桜の名所に仕立て上げたのではないか。震災のリアルを伝えることを禁じる幕府への皮肉と諧謔を、私はそこに読み取った。


しかし、当時の幕府の検閲制度を知らずに『名所江戸百景』を見たら、当時の江戸や日本には、幕府すなわち政府など一切存在しないように見えるのではないだろうか。遠景にお台場を配した「高輪牛まち」に、黒船来航によるアクチュアルな危機意識が見て取れるが、同時代人の江戸っ子には伝わっても、現代のわれわれは注意深く見ないと見過ごしてしまう。

政府や政治の不在。それは今も昔も変わらないのかもしれない。

社員食堂のお昼のテレビのワイドショーは、今日も昨日も、おととい21日に終わったWBCの特集だった。この調子では、テレビはこの2週間以上、ずっとWBCの話ばかりだったのではないか(常連さんはご存知のとおりわが家にはテレビはない)。大谷の投球は素晴らしいと思ったが、毎日四六中繰り返すほどのニュース価値があるだろうか。

統一地方選を前に、統一協会問題、原発再稼働問題、放送法の解釈の不当な変更、改憲問題、マイナンバーカードの強制、少子化問題、物価上昇、賃上げと格差の是正、女性支援団体への差別主義者の襲撃、大阪ではカジノ問題、いま社会で議論しなければならないことは山ほどある。森友・加計学園問題だって終わっていない。

野球が面白いことは否定しない。しかし面白いからって、野球の話ばかりに明け暮れるのは、安全柵も何もない崖道を歩きスマホをしながら進むようなものだ。これほど危険なことはない。

野口武彦氏の『安政江戸地震』は、今日の政治の原風景を、見事に予言してくれている。

「お江戸にはカタストロフは似合わない。
江戸の終焉は、壮大な破局ではなく一場のアナストロフ(躁状態的破滅)のうちに到来した。舞台では社会各層の感情波動がすべてばらばら、めいめい勝手に進行していた。喧騒はひどかったはずである。しかし、ほとんど異様なまでに静穏に感じられるのは、もっと重苦しい超低周波の地鳴りがほかを圧倒していたからである。
……このアナストロフの地平には、幕府が地震後十二年にわたって百三十万人口のうちに培養したラディカルな能天気、支配層への期待感ゼロ状態、とことん徹底的な政治無関心が広がっていた。幕府は自分で、いかなる政治勢力にもまるで役に立たない膨大な人口集団を作り出していた。それが幕末『都市』問題のハイライトであった。そして間違いなくここには、液状化した地盤の奈落に国家権力が自重で沈降してゆく日本政治の原風景がある」

「支配層への期待感ゼロ状態」
「とことん徹底的な政治無関心」
「液状化」

これこそ、われわれがいま目の前に見ている、ポスト1・17、そしてポスト3・11の惨憺たる風景ではないのか。

2004年刊行の文庫版あとがきにはこうある。すでに20年近く前の記述なのだが、3・11以降の状況に警鐘を鳴らしている。

「最近目についた印象的な数字がある。ランダムに並べると、二〇〇三年現在で、「ニート」(Not in Education, Employment, or Training)と呼ばれる若年無業者は五十二万、フリーター人口は四百十七万。全国のホームレスは二万五二九六人。国民年金未納者は加入者の四十五パーセントを占める一千万人。この他にも任意の数値はいくらでも列挙することができる。もちろん直接には地震災害とは関係ない。しかしいったん事が起こった場合、それらはすべて総和され、すさまじい負荷重量になって社会にのしかかるであろう。有効な手を打てない政府当局者の無為無策が、突然ドラスティックに露呈するのである」

平成の間に、阪神淡路大震災、東北地方太平洋沖大震災の二度にわたり、この国は致命的で壊滅的な打撃を受けた。実のところ、その時の打撃からいまも回復していないのが実態であろう。

若くして亡くなった、いわゆるエンジェル投資家の瀧本哲史氏が、いまの日本は政府も正規軍も崩壊している、君たちはゲリラとして生きるしかないと若者たちに呼びかけていた(『僕は君たちに武器を配りたい』)。

「ゲリラ」はあくまで比喩だ。しかし鉄鎖以外に失うものを何ももたない民衆が生き残る道は、本物のゲリラ・パルチザン闘争しか残されていないというしかない。

これ以上は革命の課題、政治の課題である。

いまは真夏の援農に備え、低山ハイキングで体力づくりである。若い仲間たちと心ゆくまで、摩耶山の初夏、そして丹波の夏を楽しみたい。未来のことは、若者たちと一緒に汗を流しながら考えよう。




最新の画像もっと見る