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2度の火災を霊験で無事に逃れたとの伝えが残る地蔵尊像
(宇治市木幡・能化院)
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身の丈一・三メートル余り。
鉄製と木製の二重扉の奥に安置されたその木像は、
地蔵という呼び名からは思いもつかない大きい座像です。
地蔵尊像のある 不焼山「能化院」 は
JR木幡駅の南西約百メートルの住宅街の一角に。
京都市内にある曹洞宗・宗仙寺
(下京区高倉通五条下ル)の末寺となっている。
1956年の尊像修理の時に
像の下から発見されたという古文書によれば、
能化院は802年の建立。
時の征夷大将軍坂上田村麻呂が、
蝦夷征討で守護神とした多門天の霊示を受け、
桓武天皇の許しを得て建てたとされ、
寺名も 「多門山観音院本願寺」 と称した。
約二百年後。多門天は、
今度は関白藤原道長のもとに現れた。
道長が一族供養の寺を建てようと、
木幡を訪れ観音院本願寺に泊まった。
すると、
多門天が夢の中で「地蔵菩薩(ぼさつ)は西方を守る菩薩。
人々を教え導き、救う。
ここにその像を安置しなさい」と告げたという。
尊像を造ったとされるのは、
源氏物語の「横川(よかわ)の僧都」のモデルといわれる
恵心僧都。
938年、僧都が42歳の時に彫ったと記した古い掛け札が同寺にある。 その後、この地蔵尊像は不思議な力を発揮し、
二度も災厄を逃れる。
1159年、平清盛と源義朝の勢力争いに端を発した
平治の乱で、
義朝らの兵が木幡に攻め入り同寺を焼き払う。
だが、
尊像は火中から飛び出し近くの山に難を逃れた。
この話は地元だけでなく京の都にまで広まり、
不焼地蔵、
「やけずの地蔵」
「やけん地蔵」と呼ばれるように。
さらに、
これを伝え聞いた二条天皇が
「不焼山能化院地蔵寺」の号を同寺に与え、
今日の名の由来となった。
奇跡はもう一度起きた。
1221年、
後鳥羽上皇が鎌倉幕府から政権奪回を狙った「承久の乱」で
上皇が宇治の合戦に敗れ、
北条氏率いる軍に寺を焼かれた。
尊像は火中にあって、無事に残ったという。
本堂に長くあった地蔵尊像は、
現在は収蔵堂に安置されている。
常駐していない住職に替わって像を守る兄弟夫婦がいる。
その一人の居関さんは
「この近辺で大火が起きたことはない。
地蔵さんのおかげと皆さんに言っていただいています」。
霊験はいまなお健在だ。
ご近所の古老も
ココ100年ほどこの木幡近辺で「大火」も「火事」も
あったことがないと・言ってましたよ・・
有難いことです。
火事は命も財産も一瞬の内に奪ってしまいますからねぇ・・
ご用心・ご用心!!
場所はコチラ・・↓ ↓ ↓
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