何かとお騒がせな東京スカイツリーですが・・
全くお騒がせでないお昼寝中の「ダメ虎」を 観ていて・・・
オカルト好きが見つけた記事は??
若干オーパーツとは思うかもしれないが、予言かもしれない!とテレビでも話題になった話です。
2008年にも、「未来の墨田」という絵を小学生たちが書いたときに、
「スカイツリーを予言か」と騒がれた絵があった。
この絵が描かれたのは1979年。
実は、さらにそれより古い時代にスカイツリーと思しき絵が描かれたものがあった、
というのだ。
テレビメディアへの初出は2011年2月。
それは、歌川国芳の「東都三ツ股の図」です。
1831年(天保2年)頃の浮世絵とされるこの作品。
左側のひときわ高い塔がそれである。
2本の塔のうち、左側は「火の見櫓」とされている。
それよりはるかに高くそびえるこの塔は…
これについて、ほぼ的確な指摘をされているブログがあったので、ごく一部を参照させていただきました。
詳細はリンク先で確認していただければ、
きたろう散歩番外編”歌川国芳の浮世絵VS東京スカイツリー
2月22日の朝、日テレを見ていたら新聞記事の紹介コーナーで
「歌川国芳の浮世絵で現在の東京スカイツリーの方向を描いた風景画があるが、
丁度現在の東京スカイツリーの位置に高い塔が描かれているものがある」という記事を紹介していました。
これは、興味ある話だと思いましたが、何新聞の記事かは聞き逃したので、
紹介していた絵が何であるかネットで調べた所、
歌川国芳の「東都 三ツ股の図」という絵であることが分かりました。
この「東都3ツ股之図」には画面左手に二つの塔が並んで立っていて、
一つは火の見櫓ですが、
その右横に火の見櫓の倍の高さもある櫓状の塔が描かれていました。
記事紹介の番組では、井戸堀の為の櫓という説もあると紹介されていました。
この辺りの景色は、広重も描いており名所江戸百景シリーズの中にも
「みつまたわかれの淵」という題のものがあります。
この時点では、これ以上の情報はありませんでした。
その記事を探したところ「東京新聞」の記事であることがわかりました。
<新聞記事より抜粋>
江戸時代の浮世絵師が「東京スカイツリ一を予知していた・・・か 如何かは分からないが
驚くことに、来春開業の電波塔にそっくりの”謎の塔”が 隅田川を描いた風景画に残されていた。
作者は、大胆な構図や奇抜な発想で人気の浮世絵師歌川国芳(一七九七~一八六一年)。
百八十年前の空の下にそそリ立つ尖塔のミステリーを追った。
(東都新聞の川崎支局・酒井博章さんと中山洋子さんによると・・)
「数年前に作品を入手していたときは気にとめなかつたんです。
でも今年一月、久しぶりに桐箱から取り出してみると「東京スカイツリー」にしか見えない塔が描かれていた。
びっくりですよ」そう話すのは 浮世絵の中にスカイツリーを”発見”した収集家で
川崎市で私設美術館「川崎・砂子の里資料館」を営む斎藤文夫氏(82)らだ。
国芳の没後百五十年になる三月に企画展を予定していて、その準備中にピンときてしまったという。
注目の作品は、一八三一(天保二年)ごろに描かれた「東都三ツ股の図」。
隅田川の中州から深川方面を眺望する構図で手前の中州では船底を焼く様子が描かれ、
右手に永代橋、その奥には無数の千石船が係留された佃島が見える。
対岸の左手で小名木川とみられる支流には橋がかかる。
その橋のたもとにそびえる二塔のうち、
低い方は火の見櫓だが、
右側のさらに高い塔が「スカイツリー」にそっくりなのだ。
斎藤氏は「国芳は、スカイツリーの登場を予言してたんでしようかと面白がるが、
本当は何なのか。
隅田川の三ツ股は現在は埋め立てられて同じ場所を撮影することは不可能ですが、
この絵と似たような景色が撮影出来る場所を探しました。
そこは、意外にも永代橋・西詰上流側のミニ公園のようになっている場所だったという。
国芳の描いた塔に関し、
この辺りの地下水は塩分を含んでいるので井戸掘りのための櫓では無いとする説もありますが、
オレはやはり井戸掘りのための櫓説を支持したいとおもいます。
浅い井戸では、塩分が混じるので深い井戸を掘ろうとするが故に、
このような高い櫓が必要だったのだと思います。
「もっと知りたい歌川国芳」(東京美術刊)の著作がある
国芳収集家で洋画家の悳(いさお)俊彦氏(75)
「東都名所シリーズは国芳が向島に住んでいた三十代ごろ、近くを散歩しながらスケッチした作品群。
空想の産物ではなくホントに見えたものを書いているはず」と話した。
浮世絵研究で著名な慶應大の内藤正人准教授(美術史)も
「お金を出して買う浮世絵に江戸っ子が納得できないものは描かれない」と説明する。
では、何かが見えたのか。
隅田川の「三ツ股」と呼ばれたのは、「日本橋中洲」の地名が残る
隅田川西岸の東京都中央区あたり。浮世絵のコピーを手に周辺を歩いてみた人によると・・。
永代橋の両岸は遊歩道として整備されていた両岸ともビルか林立し、その間にスカイツリーが見える。
川の蛇行のせいで日本橋側にあるように見えたり、ビル陰に隠れたりする。
散歩中の近くの男性(70)にスカイツリーが描かれている浮世絵かあるんですよ」と話し掛けた。
「まさか」と笑い飛ばされたが、コピーを見せると「本当だ。小思議」と感心しきりだった。
その勢いで、東京向島にある事業主体の「東武タワースカイツリー」にも訪ねた。
「ツリー計画は百八十年前からあったのか」と聞いてみると、広報宣伝担当の高橋正至さん(26)は笑いながら
「実際に動きだしたのは二〇〇五年二月です。
」だが、浮世絵の塔の先端部分がデジタル放送のためのアンテナ用鉄塔にそっくりと感嘆。
「見事に再現ざれてますね」と驚いていたという。
さらに、脇の火の見櫓も一緒に建造中の商業ビルにみえるといい風景的には浮世絵と同じようになるのかな」とも。
高橋さんは「昔の人からの遺伝子を 受け継いで、この地に建てているみたいですね」と感動していた。
「この辺りで高い塔と言うと、回向院の相撲櫓でしようか」とは、江東区深川江戸資料館の久染建夫氏。
寺社の修復のための「勧進相撲」が回向院で毎年聞かれ、
国芳と同じ時代に活躍した歌川広重も名所江戸百景で回向院の相撲櫓を題材にしている。
「江戸の人々は相撲櫓が組まれるのを眺めて「そろそろ場所が始まるんだな」と季節を感じて いた。
でも、相撲櫓は五~六メートルで、約九メートルあった火の見櫓よりは低い。
この絵だと高さは逆になりますね」と首をひねる。
一方、前出の悳(いさお)氏は「井戸掘りの櫓ではないか」と推測する。
実は井戸掘りの櫓説を挙げる人は多い。
江戸東京博物館(東京都墨田区」の我妻直美氏も「個人的な想像ですが」と前置きして、
葛飾北斎の作品に残る井戸掘りの櫓と、この作品の「櫓」の組み方が似ていること指摘する。
北斎の富嶽三十六景の「東都浅草本願寺」にも
凧と同じくらい高く天にそびえる井戸掘りの櫓が描かれているという。
ただ 「埋め立て地の深川で真水が出るんだろうか」と懐疑的な見方の研究者もいる。
謎は尽きないが、
とりあえずは「世界一」に迫る電波塔を見上げて、
江戸の昔に思いをはせるのも良いかもね。
たいていの人は 国芳の絵を見て度肝を抜かれた。
大胆な発想、構図、色づかい、と到底大昔の作品とは思えない。
現代のアニメや劇画の源流を見る人も多いそうだから、欧米で人気沸騰もそのせいだろう。
そこでSFファンは妄想を楽しむ。
「希想の絵師」は現代の技法を知っていたのでは もちろんあの塔も・・・ね
歌川国芳は、活躍した江戸後期より、むしろ現代にファンを増やしている異色の浮世絵師だ。
役者絵で知られた師匠の初代豊国や兄弟子の人気に押されて下積み時代も長かった。
三十歳ごろに水滸伝ブームに乗り、豪傑を描いた武者絵が大ヒット。
作品を下絵に全身に刺青を彫る人々が続出した。
江戸・日本橋生まれだが、三十~四十代ごろに向島に住んでいて、
ゆかりの三囲神社には没後に門人や友人らが建てた墓碑も残る。
数少ない風景画は、この向島時代に描いたとみられる。
ちゃきちゃきの江戸っ子で、
ぜいたくを禁じる天保の改革などに反発。
政府を風刺した作品で発禁処分もしばしば受けた。
禁令が多かっただけに、本当の意味を隠した判じ絵も多い。
むしろそんな仕掛けを楽しみ、
自画像さえも思わせぶりな後ろ姿が多いのだという。
ちなみに、好事家がひそかに楽しんでいる国芳ミステリーの一つに
「番傘に描かれた没年」がある東都名所シリーズの東都御厩(おんまや)川岸之図で
貸し番傘に描かれた「千八百六十一番」が 西暦で数えた国芳の没年に一致するという
謎解きにゆかりの深い絵師だったようです。
偶然の一致なのか、歌川国芳は自分の死期を予言した、