オヤジのひとり言

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京は宵・宵・宵・宵山

2012年07月13日 | オヤジのひとり言

コン・コン・チキチン・コンチキチン

いよいよ今日が宵・宵・宵・宵山

京の町なかは祭り一色です。

今日が稚児さんの「社参の儀」

四条通りや烏丸通りは大渋滞です。

ココでもう一度おさらいしときますね・

 

園祭(ぎおんまつり)は、八坂神社(祇園社)の祭礼で、

明治までは「祇園御霊会(御霊会)」と呼ばれた。

貞観年間(9世紀)より続く京の夏の風物詩で、

7月1日から1か月間にわたって行われる長い長い祭ですが、

なかでも「宵山」(7月14日16日)、

「山鉾巡行」(7月17日)、

神輿渡御」(7月17日)などがハイライトです。

宵山、宵々山、宵々々山には

旧家や老舗にて伝来の屏風などの宝物の披露も行われるため、

屏風祭の異名があります。

また、

山鉾巡行ではさまざまな美術工芸品で装飾された

重要有形民俗文化財の山鉾が公道を巡るため、

動く美術館とも例えられています。

京都三大祭り(上賀茂神社下鴨神社葵祭平安神宮時代祭)、

さらに大阪の天神祭、東京の山王祭(あるいは神田祭)と並んで

日本三大祭りの1つです。

また、岐阜県高山市高山祭埼玉県秩父市秩父夜祭と並んで

日本三大曳山祭の1つに、

高山祭、滋賀県長浜市長浜曳山祭と並んで

日本三大山車祭の1つにも数えられるなど、日本を代表するお祭りです。

 

その歴史は

疫病の流行により当時の朝廷は863年貞観5年)、

神泉苑で初の御霊会(ごりょうえ)を行った。

しかし、その後も疫病の流行が続いたために牛頭天王を祀り、

御霊会を行って無病息災を祈念した。

869年(貞観11年)、全国の国の数を表す66本の矛を卜部日良麿が立て、

その矛に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓い、

神輿3基を送り薬師如来の化身・牛頭天王を祀り御霊会を執り行ったのが

その起源であるといわれています。

 

祇園祭が生まれた直接の背景は、

平安京がもともとが内陸の湿地であったために高温多湿の地域であったこと、

建都による人口の集中、上下水道の不備などにより、

瘧(わらわやみ=マラリア)、

裳瘡(天然痘)、

咳病(インフルエンザ)、

赤痢、

麻疹などが大流行したこと。

その原因が、先に大水害により頓挫した

長岡京遷都工事中に起きた藤原種継暗殺事件で

無実を訴えながら亡くなった

早良親王ら6人の怨霊の仕業との

陰陽師らによる権威ある卜占があったこと、

などだとされている。

さらに、1世紀後の970年安和3年)からは毎年行うようになったとされる。

これらの祭式は神仏混淆の儀式として成り立っていた。

中世の一時期、

八坂神社は北野天満宮と共に比叡山の支配下に置かれた時期があり。

この時期、八坂神社は日吉神社の末社とされ、

日吉神社の山王祭が行われない時に祇園祭が中止になったり延期になる原因に。

さらに室町時代に至り、

四条室町を中心とする(旧)下京地区に

商工業者(町衆)の自治組織両側町が成立すると、

町ごとに風情を凝らした山鉾を作って巡行させるようになった。

その後、応仁の乱での30年の中断や

第二次世界大戦などでの中断はあるものの、

現在でも続いており、

1000年を超える歴史がある。

なお、名称は明治維新による

神仏分離令の影響で「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)」より

「祇園祭」と仏教色が排除されたものとなりました。

室町時代以来、

祇園祭のクライマックスは山鉾巡行だったが、

今ではいわば「巡行の前夜祭」の宵山に

毎年50万人以上の人が集まり盛り上がりを見せているため、

祇園祭といえば宵山だと思っている若者も多い。

 

ことやざの時機を逃して用を成さないことを

「後の祭り」というのは、

これは祇園祭の大一番である

山鉾巡行・神幸祭神輿渡御が終わり、

この後の祇園祭がたいしてメインとなるものがないことから

この諺が言われるようになったとされているが。

 

また別の説では、

祇園祭は1966年昭和41年)まで「前祭」(7月17日)と

後祭」(7月24日)の2回に分けて山鉾巡行を行っていた経緯があり、

「前祭」では豪華絢爛な鉾が多数巡行するのに対し、

「後祭」では山鉾の数が少なく、小規模であることから、

この諺が言われるようになったという説もあります。

まっ・凄い人出で足元も悪いのでお気をつけて・

お祭りを楽しんでください。

 

 


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