黄落のどんづまりにて昼の酒
昼に飲む酒は何故か贅沢な気持ちになる。世間が活動しているときにゆっくりと時間を使い酔うということは、そのあとは特別気を張る厄介事がない、ということ(という時に飲みたい!)。
ではいつがいいだろう。まず桜どき。夏の海辺も最高だ。雪景色を見ながら、なんていうのも堪らない。そして晩秋。黄落の季節。外苑前の銀杏並木のカフェなどで堂々と飲むのもいいだろう。ところが作者は「黄落のどんづまり」で飲んだ。黄金色に染まる黄落の季節。晴れ晴れとしたイメージとは対照的な「どんづまり」という言葉。一気に「昼の酒」に説得力がでてきた。
どこかの場所のどんづまりではなく「黄落のどんづまり」としたことで、得もいわれぬ詩情が出た。
先日、久しぶりの句会に出席しました。
私は仕事のため途中退席したので
名誉主宰の講評は聞くことができませんでしたが
後日送っていただいた資料で
すこしだけ句会の様子をうかがい知ることができました。
「事柄を言わない」
「物語にしない」
つまり
何が、何して、何とやらを書くことが俳句ではない
ということなのですね。
母がどうした、とか
友が遠方より来た、とか
吾子に何をしてあげた、とか
ご近所から何かをいただいた、とか
そういうことは日記に記しておけばいい。
読む側としても
「よかったですね。だから何?」
という感想しかありません。
「私も同じような経験があります」
これは詩の鑑賞とは違います。
世間話の域をでない。
俳句をどう捉えているかの違いはありますから
そういう句を
全否定はしてはいけない。
ただ私の求めているものとは違う、
そして私の師が伝えようとしていることとも違うと
改めて思いました。
さぁ、これからは
少しずつ句会が戻ってきます。
句会の報告の記事も書けると思います。
楽しみです♬
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