Lilac-Garden

写真で綴る日々の記録 & クラギ練習帳

ニューシニア?

2012年12月21日 | 駄菓子屋世代のストーリー

「ニューシニア」って言葉があるんだって。
なんでも50歳代くらいからのネットやパソコンを駆使する初の世代ってことらしい。
・・・私?たぶんそうなんでしょうかね。

なんでも、この世代はそれぞれに価値観が大きく違うらしく・・・
ここを標的にしたマーケティングがなんとか。。とネットにはある。
ページを開くこともなくさらっと解読して、知った気分になる。
インスタントな知識を使い回す最初の世代とか??
あはは、それは私だけでしたか。すみません。

結局、私たちの世代が一番「自由」だったのかもしれないね。
その頃は「自由になろう!」「自由になりたい!」って言葉があふれてて
好きなことを!自分のために!一生懸命に楽しむ!
それが「みんなの自由につながるんだ」って信じてた。

みんなで「自由」を目指したはずなのにね。
どこから違ってきたのかな??
いいえ!本当は今でもとっても自由なんじゃない?
思う存分、自分の言葉で話してみたらいいよ。
辛いなら「辛いよ」って言おうよ。
それを聞いた人は・・・
知らん顔や攻撃をするんじゃなくて、同調するべきなんだ。
ネットじゃなくて・・・自分の身の回りで。そう思う。

ニューシニアという言葉を聞いて、、50代の諸々の感情が駆け巡ったのであった。
夕日にも似て、落ちかけた太陽だけど、、まだまだ力はあるよ。
私も、自分の言葉をしゃべらなくちゃって思った。


あのね、駄菓子屋世代のストーリーって話を
時々書いてたんだ。
ではまた!

第5回「時代が変わるとき」

2007年06月12日 | 駄菓子屋世代のストーリー



第2回でお話した小さな町の話を覚えているだろうか。ちょうどその頃にできた環七道路と地下鉄駅の誕生で、町は人の流れを変えてしまう。バス停が一つきりの、幼い日々を過ごしたあの小さな界隈は、ずっと、私の知らない遥か昔から賑わい、笑い合って生きてきたのだろう。その最後の一瞬に私は加わっていたのだと感じる。蝋燭の火が消えるようにして掻き消えた、懐かしくて小さな優しい町に私はそんな記憶を持っている。

地下鉄駅が出来ると、周辺は大きく変貌する。それまで足を運ぶ事もなかったその場所は、始終道路工事の騒音がやかましい。建物建設でいつもほこりが舞っていたし、そこへつながる道路は揃ってアスファルト工事を始めた。道を掘り返しては黒いコールタールを流し込み、乾く間の保護のために、まるで継ぎはぎのように大きな鉄板が敷かれていった。

一方、環七ではひっきりなしに車が行き交い、大きな交差点ではクラクションが悲鳴のように鳴り叫んだ。なんだか騒々しくて馴染めない思いがしたのだが、それでも生活の拠点となり、目新しいものが立ち並ぶと、とうとうその違和感も忘れてしまったのだろう。

慌てたように並んだ商店は、小さな通りを「○○銀座商店街」と名づけられた。八百屋、魚屋、肉屋、本屋に金物屋に文房具屋。洒落た雑貨屋や洋服屋もある。新しい本屋の店先で立ち読みすれば、眼鏡おじさんのハタキが飛んでくるのがおもしろかったし、雑貨屋に並んだカップや置物、大きな文房具屋さんの品揃えの楽しさに時を忘れる。新しい町はちょっとすましていた。だが、誰にとっても魅力的だったと思う。

夕方になると、地下鉄の駅階段はたくさんの人を吐き出した。「○○銀座」はお勤め帰りのパパさんたちが足早に家路を急ぐ風景へと変わり、靴音がせわしなくコツコツ響いて一日が終わった。そして、それぞれの家庭でそれぞれの小さな明かりが灯る。

そう、それでもまだ街は規則正しく呼吸をしていた。懐かしい「昔」のお話である。






明日13日はお休みします。

駄菓子屋世代のストーリー…4

2007年04月19日 | 駄菓子屋世代のストーリー

私が生まれ育ったのは東京杉並。山の手と言われる所。お金持ちのお嬢さんなら、そりゃあかっこいいけど、ごく普通の公団住宅。私が19の時、両親は埼玉に家を建てて引っ越したが、ここに29年間、私はずっといた。ちょっと変?まあ事実だから仕方ない。

両親と過ごしたその時代、6畳の角にはテレビがあり、テレビの前にはお決まりの一家の団欒“こたつ”。テレビの向かいに私と弟が座り、父が右、母は左。テレビの代わりにビデオカメラでも備え付ければ「寺内貫太郎一家」の出来上がりだね。

モノクロテレビの普及は1959年頃というから私の記憶にはないが、お向いのお宅でテレビを見ている写真が数枚ある。それからたった5~6年の1964年、東京オリンピックの年にはカラーテレビが普及したそうだから、時代も情報も急速に進歩を始める頃、私は生まれた事になる。



さあ、そんなテレビを囲んで楽しい「夕餉のお話」といきたいが…駄菓子屋世代、別にそんなに楽しい話ばかりが詰まっているわけじゃない。行儀作法の躾なのか、はたまた親父のストレス解消なのか、やれ「正座をしろ」「肱をついて食べるな」「箸の持ち方が違う」「こぼすな!食べ物を祖末にするな!テレビに夢中になるなー・・・!」最後には「テレビ消すぞ!」右隣からまったく父がうるさい。時には平手打ちだって飛んでくる。まるで細身の「寺貫」だよ。

この父、釣りと料理が好きな左利き。酒を片手にご機嫌でよく台所に立った。魚を捌く左包丁は、どうも私には妙ちきりんに見えて仕方ない。ちょっとやってみろったって頭が混乱するばかりだ。ザルや小鍋をやたらと使い、小分けに丁寧に作られた料理はおいしいが・・・酒も回ればそろそろご機嫌も傾いてくるらしい。「洗い物が大変なのよねえ」とこっそり逃げる母。そろそろお説教が始まるぞ、さっさと逃げなければな…と私は思うのだった。

想い出は、長い人生の中のほんの一瞬の記憶かもしれないなと思う。小さな平和の中にちょっとだけまぎれてる。
そんな料理好きの酒乱ワンマン親父の味は「天ぷら」。サクっと揚がった天ぷらは最高だ。小麦粉の衣種を、油の中にパッパッパッと威勢よく飛び散らせてサクサク衣を作るのだが、私はその技をとうとう盗めなかったし、父も逝ってしまったのでもう食べる事はできない。私は「台所が汚れるわ」「油が不経済よ」などと憎まれ口を叩いたが、もう一度食べたら涙が出るかもしれない。


「ソラマメの天ぷら」私のヘタッピな天ぷらで申し訳ないが
旬の味はビールのおつまみに最高ですよ。


駄菓子屋世代のストーリー…3

2007年04月12日 | 駄菓子屋世代のストーリー




 勝って嬉しい はないちもんめ
 負けて悔しい はないちもんめ
 あの子が欲しい あの子じゃ分からん
 この子が欲しい この子じゃ分からん
 相談しよう そうしよう・・・



大きなお兄ちゃんやお姉ちゃんたちが学校から帰る頃になると、広場は急に騒々しくなった。「○○するものこの指と~まれ♪」とか何とか叫ぶと、どこで見ていたのか子どもが集まってくる。「はないちもんめ」の遊びは知っているだろうか。一際甲高い声で、夕空に大きく響いたこの歌が、突然に私の心の奥底から飛び出してきた。もうすっかり忘れていた事なのに。

5~6人ずつのチームに分かれて手をつなぎ、対抗して人数を増やしていくゲーム。大声で♪勝っ~て嬉しい♪と片方がやれば、負けじとさらに大声で♪負け~て悔しい♪とやり返す。前へ攻めたり、後ろに逃げたり。つなぎ合った手が波のように、元気いっぱいに動いていた。

ちょっと鼻水たらした悪ガキの兄ちゃんなんかが、真ん中あたりでぐいぐい皆を引っ張るものだから、一列に並んだ弧は弓なりに大きくしなって突進してくる。端の小さな子は引っ張られて、あわてて駆け足になって・・・。真ん中の悪ガキにいちゃんときたら、腹立ちまぎれに靴を蹴り上げたりなんかするから、皆あははと大笑いするんだ。

不思議とこんな風景や子どもの頃に聞いたはずの高い声がふっと浮かんできた。他にも「おしくらまんじゅう」や「かごめかごめ」、「缶けり」、「馬乗り」など、一つ思い出すと次々に思い出されてくる。学年の違う大きな子も小さな子も、寄ると触ると皆で手をつなぎ、ぎゅーぎゅーと肌触れ合って遊んだような時代だった。

たぶん、私は端っこであわてた小さな女の子。そう、「はないちもんめ」、憧れの真ん中の場所を私は陣取る事ができたのか、ちょっと気になる。ちょっと気にはなるが、遊具遊びとすり替わってしまったか、それはどうしても思い出せないのだ。


Lilac-garden 「駄菓子屋世代のストーリー」より3回目(写真は青ノ山・山頂)



「駄菓子屋世代のストーリー」…番外

2007年04月05日 | 駄菓子屋世代のストーリー





少し前、「一夜限りのライブ」と題し、坂崎幸之助さん、南こうせつさん、谷村新司さん出演の番組がありました。ここでも懐かしいお話で盛り上がっていましたが、ご覧になった方もいらっしゃるでしょうか。

年間300ステージをたった3万円の月給でこなしていたという谷村さん。例の関西イントネーションで淡々と話します。食えない時代はひどく貧乏で、それでも夜ごと、共に夢を語り合う熱い青春だったとか。「いつかきっと…」と夢を貫き通した“ほんの一握りの男たち”なんでしょうね。どっしりと力強く、深みのある歌声には、彼らの大きな自信が加わっているようにも思えました。



ふと気付くと、谷村新司さんも南こうせつさんもまた、団塊の世代です。この世代の方たちは迫力がありました。「一人では闘えないから、皆で一緒にガンバロウ!」というのがキャッチフレーズだったでしょうか。急成長の時代に後押しされて、集団で大きな風を巻き起こしたような印象があります。

そして、絶えず後に控える「ちびっ子」を引っ張って来たのもこの世代でした。私にとって、この方々の影響力はとてつもなく大きく、いつまでも力強く、そして憧れたものです。大勢で、ドシンドシン踏み固めてくれた道筋を、いつも追いかけて歩きました。それは、反戦フォークやジーンズファッション、時には労組の紛争だったり、そしてまた、あの偉大なるビートルズだったり。

もう消えかけていたこの道、「リスタート」という言葉で、ひょっとしたら新しい風を起こすのかもしれません。また、大きな夢を追いかけてほしいです。


Lilac-garden 「駄菓子屋世代のストーリー」より番外(写真はみろく公園・水仙)


駄菓子屋世代のストーリー ・・・2

2007年03月27日 | 駄菓子屋世代のストーリー

駄菓子屋通いより少し前、もう少し小さい頃だと思う。私は母の買い物によくついて行った。毎日「お使いカゴ」を抱え、主婦が買い物に出るのが午後の3時頃。小さな商店はにわかに活気付く。

「きゅうり、ちょうだい」「あいよー、持ってきなー」
母がお金を差し出すと、八百屋の天井から所々、ゴムで吊り下げられた竹の籠をぐいーんと引っ張って、受け取った金を入れる。じゃらじゃらっとかき回しておつりを手渡すと、籠はボヨヨーンとまた元の位置で揺れた。おばちゃんの紺色の大きな前掛けの前で、きゅうりは新聞紙にくるくるっと包まれ、お使いカゴに投げ込まれる。

「奥さん、大根のいいのが入ってるよ。」「今日はいいわ。」「あいよ、また来てねー。」「お嬢ちゃんいくつ?」照れてる暇はない。トントンと流れるようにおばちゃんの口から飛び出してくる。やっと、年を言おうと顔をあげたら、「あ、奥さんいらっしゃーい。今日は何にする?」大声が行き交う元気な店だった。



家からは川の土手を少し歩く。片側は崖がそそり立つ土手の道。隙間だらけで所どころに木の節穴が小さく開いた橋を渡る。20cmくらいの粗末な縁があるだけで、欄干もないような古い板の橋。穴から下を覗き見れば、いつも川藻が揺れていた。

橋を渡り、細い急坂を登って角を曲がると小さな写真館。もう少し行くと和菓子屋、薬屋、魚屋、八百屋、肉屋と並んでいた。店屋の他は古い住宅街だったから、静かな細い路地で歩きやすい。私はきっと弾むように歩いていただろう。

環七沿いの小さな町。おそらくこの大きな道路に分断されたであろう小さな町だったから、あっという間に町は掻き消えた。八百屋が店を閉めたのはそれから5~6年もしないうちだったのではないだろうか。しばらく空き家だったが、気付くとセブンイレブンに変わっていた。

長年賑わった界隈の最後の時代を私は見ていたのかもしれない。

◆  ◆  ◆

Lilac-garden 駄菓子屋世代のストーリー より2回目  (写真はみろく公園のクリスマスローズ)


駄菓子屋世代のストーリー …1

2007年03月23日 | 駄菓子屋世代のストーリー


昔、通学路の途中などに駄菓子屋さんがあった。家のすぐ近くのパン屋さんは何故か「駄菓子屋さん」と言われ、小奇麗なパン屋の店奥に雑多な駄菓子を隠すようにして置いてあった。今思えば…である。別に子どもにとって、そんな事はどうでもよく、さっさと店の奥に行って目当ての菓子を選んだ。四角い顔の優しいおじさんと、笑うと目のなくなる丸い顔のおばさんがいた。

少し遠いがお気に入りだったのが、通称「リンゴ屋」。つるんと禿げて小柄だけど、目つきの鋭いお爺さんがいた。お爺さんが恐いんだけど、やっぱり行く。

こちらは年代ものの建物で、木枠で出来たガラス格子の扉をガタガタッと開けると店内は狭く、ちょうど子ども2人が並べる程の土間があった。目の前に置かれた低い台には、それはそれはカラフルなビー玉やおはじきやめんこ、銀玉鉄砲に、マルカワの丸玉風船ガム、ポリ風船などなど。上を見上げれば流行の野球カードや紙のプロペラの模型飛行機が所狭しとぶる下がるから、どれを買いたいのか分からなくなった。そこでお爺さんはジロっと見る。

一通り眺めると、最終目的はやはり駄菓子屋さん特有のあの四角いガラス瓶の中。エンジ色のふ菓子や、割り箸2本でこねる水飴、大きなりんご飴、長いタコ糸につけてあるイチゴやバナナの5円のくじ飴。何でも5円~10円で買えたような気がする。

店内は色とりどりで、皆が大好きで…。お爺さんの顔、恐いよねーと言いながら、やっぱり通うのだ。私が生まれ育った東京杉並の話である。

すごいでしょ?放ったらかしのユキヤナギ、庭の花。空き家の犬小屋を覆いつくしてものすごい勢力です!写真とは全く関係ないけど、犬小屋見てたら何故か思いついた駄菓子屋さんのお話でした。題して「駄菓子屋世代のストーリー」私の原点。長くなりそうだから、次回から単発シリーズにして書いてみようかと思います。

あなたの駄菓子屋さんはどんなでした?



ご実家が造り酒屋さんで、店先で駄菓子を売っておられたという「マロニエのこみち…。」さんが、古い貴重なお写真をアップしてくださいました。木枠のガラス格子の扉は・・・そうそう!こんな感じの扉でしたよ。よろしかったら、 懐かしの扉 を開けて、しばし、あなたのご幼少の思い出など浸ってみませんか。かわゆい「マロニエのこみち…。」さんも必見です!!