「ウシがゆく―植民地主義を探検し、私をさがす旅」(知念ウシ著 沖縄タイムス社)を読んだ。
以前知念ウシさんの講演を聴いて、その「本土移設論」に強い違和感をもち、少なからず反感を抱いた。そしてそれを書いた文章に対して、批判のコメントももらった。
※7/6討論会「私たち関西にとって本土移設とは」に参加して(リブインピースブログ)
http://blog.goo.ne.jp/liveinpeace_925/e/930f2a003ad5fdd6199cfb47b9cc0c71
だからこの本が出版されたときも、それほど読みたいとは思わなかった。読もうと思ったのは、目取真俊さんのブログに掲載されていたことからだった。
※書評:知念ウシ著『ウシがゆく』(海鳴りの島から沖縄・ヤンバルより…目取真俊)
http://blog.goo.ne.jp/awamori777/e/5cf1ffe6b3e91a25e3dcaac40812b3c8
この本を読んで、知念ウシという人物をこれまでいかに一面的にとらえていたかが分かった。この本は基地問題にかかわる人はもちろん、すべての「日本人」が読むべき本であると思う。基地移転に反対か賛成かに関わらず、沖縄を知るために読まなければならないと思う。
分かったのは「本土移設論」はそれだけで存在する政治スローガンではないということだ。それは、副題にもあるように、「沖縄的」なるものを否定し「日本的」になることを無条件に肯定していた著者が、そのような姿勢そのものの誤りに気づき、「私をさがす旅」を進める中で発見した思想が凝縮したものだ。彼女によれば、沖縄への米軍基地集中というのは、「本土」による「無意識の植民地主義」が端的に表れたものだ。彼女はそのことを、世界の被差別・被抑圧の民族や住民たちとの交流していく中で、また、日本を旅する中で学び、発見していく。
「本土」の人たちが沖縄に押し付けているのは基地だけでない。「植民地主義」的な歴史と現在の関係の全体、それによる意識の全体である。そして、「本土」の鈍感さは、差別しているという意識に関する鈍感さだけでなく、日本が再び戦争に向かっているという危機意識に関する鈍感さではないかと思う。
驚いたのは2007年9月の教科書改悪反対集会になぜあんなにも多くの人が集まったのかという問いに対する知念ウシさんの考えだ。それは決して自分たちの親や祖父母がなめた辛酸を忘れられてしまう、歴史がねつ造されてしまう、そして今も基地を押しつけられ続けているという事に対する怒りだけではない。再び戦争が起こり、軍艦がやって来て、沖縄が戦場にさせられるという強い危機感がある。沖縄ではずっと戦争が続いている。それは比喩ではない。朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン戦争、イラク戦争と、「復帰」前も「復帰」後も沖縄は出撃基地であり、戦場であり続けた。(「軍命は今も続いている」)
このことは、ガマに入る平和学習で、子どもたちが発することばにも現れる。ある初老の女性が「ほらあそこからああ行ってこう行って。よく覚えていなさいよ。また戦争になったらここに逃げてこられるようにね」と孫に言えば、別の男の子は、「おれの家もこの近くだから、戦争になったら、ここに来ようっと」という。(「戦争の予感」)
このような感覚は少なくとも「本土」の多くの人々にはない。地震に対する備えはしていても、戦争に対する備えはしていない。いや、再び戦争になった時に自分たち自身が犠牲を強いられるというリアルな感覚を持っていない。だからこそ、中国や朝鮮民主主義人民共和国への軍事対決を安易に支持したり、容認したりできるのだ。
それはまた、たとえば、方言(ウチナーグチ)を使うことについてもそうだ。知念ウシさんはウチナーグチを学び、それで講演を行うのだが、高齢者の方は、方言を使うことをいやがる人もいるという。戦時中方言を使うとスパイと見なされ、方言札をつり下げられた経験が65年たった今も強烈に残っているのである。(「普天間昼塾が沖縄語の新鮮空間を拓いてみせる」)戦争は今も続いている。
(ハンマー)
私が特に感銘を受けた箇所は、なぜ戦争の記憶を語るのかということについてです。
ある時ウシさんが4歳の娘と6歳の息子に沖縄戦について話をしていたら、「そんな悲しいこと、聞きたくない」と泣いてしまいました。ウシさんは戦争の話はするものだし、聞くものだと思っていたから、子どもたちのこの反応に最初は驚きました。しかし、次第に子どもたちの言い分ももっともだと思うようになりました。
それなのに、やはりウシさんは時間・場所・内容を見計らいつつ、子どもに沖縄戦について教えようと考えています。
それはなぜか。
この本には次のようにあります。
沖縄戦の記憶の継承は、ただ「いいことだから」でも、「過去の悲しみを忘れないため」でも、知識を得るためでもない。沖縄人への攻撃が続く現実を見抜き、生き延びる術を見いだすために、やらなければならないのだ。知らないとまた、同じようにやられてしまうかもしれないのだから。
私はこの箇所を読んで、現在の学校でおこなわれている「平和教育」に欠けているものが何なのか、ようやく分かったような気がしました。