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「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」

NNNドキュメント‘15<シリーズ戦後70年>「南京事件 兵士たちの遺言」を観て

2015-11-05 | 本・番組・映画など

「南京事件」世界記憶遺産攻撃は加害政府としてあるまじきこと

 去る10月、ユネスコの世界記憶遺産に「南京事件」が登録されました。日本の中国侵略の過ちと蛮行を記憶にとどめ、悲惨な戦争を二度と繰り返さない決意を確かなものにする意義のあることです。ところが日本政府はユネスコに対して拠出金の拒否までちらつかせて「断固たる措置をとる」などと抗議しています。過去の自らの過ちに誠実に向き合うことを拒否する恥ずべき姿勢です。
 日本政府は、1937年に南京で市民の殺害や略奪があったことは認めながら、被害者の「人数」だけにケチをつけ、実際は今回のように「南京大虐殺」の事実そのものを歴史から消し去ろうとしているのです。それは、日本軍「慰安婦」問題では「強制」を、沖縄戦での集団自決では「軍命令」を否定することで事実そのものを無かったことにしようとしているのと全く同じです。事実、右翼メディアや歴史歪曲主義者が「南京大虐殺は幻」「ねつ造」などと執拗に煽っているのです。

一次資料と証言で「大虐殺」を検証した秀作 

 このような厳しい情勢の中で、日本テレビ系NNNドキュメント15<シリーズ戦後70年>『南京事件 兵士たちの遺言』が10月4日に放送されました(11日再放送)。番組は右翼の妨害を配慮してか『しゃべってから死ぬ 封印された陣中日記」と戦争体験一般のように予告されていました。現在の最大の妨害勢力は安倍政権にほかなりません。
 この番組は、78年前日中戦争当時におこなわれた日本軍による「南京虐殺事件」を、元日本兵の日記と遺言ともいえる証言をもとに、加害者側の告発として取り上げたものです。当時、南京陥落という勇ましいニュースは多く報じられましたが、虐殺は報じられませんでした。公式の記録の多くは戦後に処分されたといわれます。これが犠牲者のさえ確定されず数万人~20万人まで諸説ありながら、虐殺はなかった、事件そのものが無かったという妄言がはびこるひとつの背景となっているのです。

※南京事件 兵士たちの遺言
http://www.dailymotion.com/video/x38lb8r

27年間に及ぶ執念の資料収集--31冊の「陣中日誌」

 福島出身の小野賢二さんは、会津若松に陸軍65歩兵連隊があって、南京攻略に参加したことを知って調べはじめ、その人たちの話を聞き、証拠としての陣中日記を集めることを27年間やってきました。始めたころでさえすでに元日本兵の多くが80歳を超えていたといいます。200人以上から話を聞き、証拠として集めた日記はコピーを含めると31冊になりました。
 元陸軍上等兵の遺品である日記帳は、1937年9月~南京陥落までの3か月間、ほぼ毎日書かれていました。そこには、ごく普通の農民だった男性が、戦場に向かう様子が綴られていました。  
 「10月3日 午後6時頃、いよいよ上陸して支那の土地をふんだ。空襲となりわが友軍の打ち出す高射砲が火花をちらし、これが本当の戦争かと思った」
上海に上陸したこの上等兵が加わっていた陸軍上海派遣軍は、当初の作戦任務は居住していた日本人の保護でした。しかし、陸軍本部からの命令書で、当時中国の首都だった南京攻略を目指すことになりました。日本を立って1か月、食べ物についての記述が増えていきました。突然だった南京への転戦、後方支援はほとんどありません。
 「11月16日 食糧の補給はぜんぜんなく、支那人家屋より南京米その他を徴発し、一命をつなぎ前進する」
 「11月17日 “ニヤー(若い女性?)を1人連れて来たところ、われらの目を盗んで逃げだしたのでただちに射殺してしまう」
 「11月25日 ・・大きな豚を2頭殺し食って・・実に戦争なんておもしろい。酒の好きなものは思う存分のむことができる。」

南京での捕虜虐殺の生々しい記述と証言

日本軍がとった作戦は、いくつもの部隊による完全包囲作戦でした。上等兵が所属していた山砲兵19連隊は65歩兵連隊と隊を組んで揚子江をさかのぼっていきました。上等兵たちの部隊は、武器を捨てて降伏してきた多くの中国兵を捕虜にした。12月13日に南京は陥落しました。
 「12月16日 捕虜せし支那兵の一部、5000名を揚子江の沿岸につれ出し、機関銃を持って射殺す。その后銃剣にて思う存分突き刺す。自分もこの時ばかり30人も突き刺したことであろう。山となっている死人の上を上がって突き刺す気持ちは、鬼をもひしがん勇気がでて、力いっぱい突き刺したり。ウーンウーンとうめく支那兵の声、年寄りもいれば子どももいる。一人残らず殺す。刀を借りて首をも切ってみた」
 調査をしてきた小野さんは日記を書いた上等兵にインタビュー(21年前)していました。同じことを証言し、「何万という捕虜を殺したのは間違いねぇ」と答えていました。小野さんが集めた日記や写しの31冊のなかにも、多くの元日本兵が捕虜の銃殺に触れていました。これらの日記は戦場で書かれたもので、いわゆる一次資料です。番組は、上等兵の日記を、不自然な点や矛盾がないか、神戸の資料館や防衛省の研究施設を訪ねて公式な資料と照らし合わせています。そして記述に矛盾がないことを確認しました。

連日の虐殺で揚子江河川敷は屍の山に

 しかし、防衛省の公式記録には、12月以降の記録がなかったのです。南京に行った時の連隊の公式記録がプツリと切れていました。しかし、従軍していた新聞記者が撮影した、65連隊が捕虜を収容している写真と記事が連隊の行動を裏打ちしていました。記事は中国人の捕虜1万4千7百7十7人と報じていました。処刑は16日で終わらず、17日の銃殺の現場は揚子江の別の河川敷でした。これは、65連隊の伍長が後日、スケッチしていました。番組は、揚子江の現場に行き、スケッチが現場の地形などとほぼ一致していることを確認しています。伍長の書いたスケッチの余白に「この時、うたれまいとする、人から人へ集まる様、即ち人柱は丈余(3メートル位)になって崩れ、なっては崩れた。片端から突き殺し、その所に石油をかけ、夜明けまで燃やし、柳の枝を鉤にして一人一人引きずって江に流した。」とありました。揚子江が処刑の場所に撰ばれたのは、多くの死体を処理するためだったと言われています。

現場を見ていた海軍兵士がいた

 銃殺を目撃したという日本人が大阪にいました。男性は海軍兵として南京戦に参加していた。第24駆逐艦の海風で、信号兵をしていたといいます。南京戦に加わっていた海軍部隊の行動は防衛省の資料でうらうちされています。男性は18日の午後2時頃に河川敷から銃声の音を聞いていた。銃声音は連日続いていたと言います。また、停泊中、筏に死体の山を積んだのが4隻流れてきたといいましたが、軍の公式記録にも筏のことが記されています。男性は、佐世保に戻った時、海軍士官から、南京で見たことは口外するなと注意されたといいます。

65連隊の捕虜虐殺事件は南京事件の一部にすぎない

 ここで取り上げられているのは、南京攻略に参加した部隊のごく一部、山田支隊・歩兵第65連隊の行動に過ぎません。途方もない大虐殺の存在を示唆しています。番組はさらに揚子江沿岸以外での被害者の声にも耳をかたむけています。
 民間人の殺害。それは当時、海外メディアにより指摘されていました。南京の特派員たちが報じていました。
 1937年12月18日、ニューヨークタイムス。「捕虜全員を殺害、民間人も日本軍に殺害され、南京に恐怖が広まる」
 1938年1月9日、ニューヨークタイムス「日本軍による大量殺りくで市民も犠牲、中国人死者3万3000人」。
 番組は「戦争を振り返る時、日本人は自分たちを被害者として考えることがあります。しかし、多くの命を奪ったという一面も忘れてはなりません。歴史を踏まえ、これからどう進んでいくのか、今、問われています」と訴えています。

* * * * *
 私は、この番組から、“戦争”というものを、改めて考えさせられました。戦争法を強行採決した安倍政権も、自衛隊海外派兵は“邦人の保護のために必要”などといっています。南京事件から日中全面戦争に向かったのも、最初は上海の日本人保護のためと言っての派兵でした。また、普通の農民だった若者が、行軍し戦闘に加わるうちに、平然と人を殺すことが出来るようになってしまったこと、中国人を「支那人」と言って蔑み、自分たちと同じ人間だと考えられなくなっていた社会の風潮がどのようにして作られたのか、などと考えさせられています。今の東アジアの緊張した状態を見る時、この過去の加害の歴史を直視し、謝罪することなくしてアジア諸国との友好はあり得ないとさらに考えるようになりました。

(アーさん)


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