「原爆は戦争終結に必要だった」のウソ――プルトニウム爆弾の開発が戦争を長引かせた
「原爆は戦争終結に必要だった」ということは世界ではかなり多くの人に信じられている。特に米国では“定説”とされている。一方で、米国が原爆を使用したのは、戦後の対ソ対決において圧倒的な優位に立つために原爆の威力を見せつけるデモンストレーションと人体実験を兼ねたのだとも言われている。しかし、後者は前者を補完するものではあれ、否定しはしない。米国の原爆投下の意図が戦争の早期終結と対ソ優位の確保の両方にあったと説明することができるからである。
ところが、雑誌「世界」9月号に掲載されている憲法対談「内橋克人×アーサー・ビナード 日本国憲法は最高級のレシピ本!」において、「原爆は戦争終結に必要だった」というのは全くのウソであることが、事実をもって指摘されている。
ビナード氏は米国生まれの詩人で、広島の原爆遺品の写真に詩をつけた写真絵本『さがしています』を著した。その取材の中で、彼はあることに気がついた。それは広島と長崎でウランとプルトニウムという二種類の爆弾が使用されたことである。それぞれの爆弾の開発の過程を見てみると、「原爆は戦争終結に必要だった」というペテンがはっきりする。
1942年12月2日、米国は初めてウランからプルトニウムを生成させた。それは「原子炉」という大がかりな装置でじりじりと作らなければならず、多大な時間と技術を必要とした。最初の予定では1945年1月にプルトニウム兵器が完成する予定であったが、延びに延びて、1945年7月16日にはじめてニューメキシコの砂漠で核実験がおこなわれた。プルトニウムをウランから生成することと大量破壊兵器にするための爆縮装置の開発に時間がかかり、それがマンハッタン計画の9割を占めている。
一方、ウラン兵器の技術は比較的単純で、「原子炉」は必要なく、二つの濃縮ウランの塊を合体させるだけで爆発がおこる。プルトニウム爆弾が完成した時点で“時代遅れ”の産物となっていた。
もしも、本当に早期の戦争終結が原爆投下の目的だというのなら、1943年には単純なウラン兵器を作る技術があったのだから、その時点で原爆を日本とドイツの首都に落とせば第二次世界大戦はその年に終わっていたはずであるとビナード氏は言う。
「だから実際は、戦争を早く終わらせるために原爆を落としたのではなくて、二年と八ヶ月、プルトニウム兵器が完成するまで戦争をずるずる引き延ばして使ったというのが正しい歴史認識でしょう」(ビナード)
これを読んで、私は先日ピースおおさかを見学した時に抱いた疑問が腑に落ちた。
それは、大阪大空襲についての展示を見た時であった。大阪への空襲は、東京・名古屋への空襲と同じ1945年3月に始まり、後終戦直前の8月14日に至るまで何度もおこなわれている。被害を示す地図では、第1回から最初の数回までは、ひたすら大阪中心部の住宅密集地に対する攻撃がおこなわれており、住宅地をほぼ焼き払った後になって、砲兵工廠などの兵器工場に対する爆撃がおこなわれているという事実が示されていた。
本当に戦争の早期終結を目的とするなら、最初から軍事施設を攻撃すべきではないだろうか、そう指摘した人がいた。たしかにその通りである。住宅地を焼き払うという非人道的な行為は、物理的な戦力を奪うことには何の役にも立たず、むしろ敵対心を広範にかき立てることにもなろう。じわじわとなぶり殺しにしようとするそのやり方の残酷さに私たちはおののいたが、その真の意図についてはわからないままであった。
しかし、プルトニウム兵器が完成するまで戦争を引き延ばすことが米国にとっての至上命令だとすれば、この不可解な戦略もはっきりする。庶民が何人殺されようとも日本の為政者にとってそれが戦争の終結の動機にはならないことを米国はよく知っていたとみえる。
これまで、私たちは、当時の日本政府が「国体護持」(天皇制の維持)にこだわるあまり、戦争の早期終結のチャンスを逃したことを批判してきた。しかし、米国側もまたプルトニウム兵器の開発まで戦争を終わらせる意図がなかったとすれば、米国のこの悪魔的と形容するしかない戦略をも強く批判していかなければならない。
しかも、米国は、今日も核戦略におけるフリーハンドを放棄していない。日本政府がNPTの共同宣言に署名しなかったのは、そんな米国を慮ってのことであった。安倍首相は「日本を取り戻す」というのなら、まずもって米国への臣従をやめなければならない。(鈴)