4月21日(土)、旭区の「学校選択制と中学校給食について」の意見交換会があり、私も参加しました。参加者は100人弱でしょうか。それなりの関心を集めているように感じました。
区長が冒頭「制度導入が前提ではない」と断りを入れつつ、自ら学校選択制と中学校給食について説明を行いました。非常にどちらに偏ることのないよう慎重な説明でしたが、他都市の実施状況として前橋市や長崎市など見直しをした自治体の説明があり、逆に導入成果の具体例がなく(成果の実例など存在しないからなのでしょう)、聞けば聞くほど「学校選択制にメリットなし」と確信させられました。
小学校や中学校には定員があり、1クラス35人上限との指針が示されています。そしてまずは自分の校区を受け入れる。余った枠が、他校区からの受け入れ枠となるそうです。受け入れ枠以上の応募があれば、くじ引きとなるとのこと。
この仕組みを聞いて、私は学校選択制の罪悪を感じました。
つまり選択とは言っても、全くの自由というわけでもないのです。もちろん今の子どもの人数は少ないので、枠はそれなりの人数になるのかもしれませんが、逆に教員の定員も決まっているでしょうし、教室いっぱいにつめこむとまでは考えていないようです。つまり、各学校の余った枠を狙って「地元の学校に行きたくない子ども(親)」がくじ引きに賭ける――という構図なのです。そして外れれば、「泣く泣く」(?)地元の学校に行くと……。
こういうのは「選択」という言葉の持つ自由さとは、かけ離れていませんか?
ある学校選択制賛成の親が「実際どこの学校を選んだらいいのか不安もある。もっと具体的なことを教えて欲しい。また選択制の悪いところばかり紹介するのではなく、成果も紹介して欲しい。寝屋川市も実施していると聞いている」と発言していました。この親は多分必死なのだと思います。
その後、区側から、寝屋川市についての説明もありました。寝屋川市はすべて2つの小学校の校区が1つの中学校の校区になっています(2小1中)。子ども(親)は自分の住んでいる中学校校区のなかで、どちらかの小学校を選択できるというものだそうです。つまりその親は地元の小学校に子どもを行かせたくないので、隣の小学校に行かせたいと考えているのかもしれません。
その動機とは何なのでしょうか? 普通は「荒れているから」ということになるのでしょうか。しかし小学校の学級崩壊は今や日常で、どこの小学校でも起こりうることです。私の子が通っている学校でも、1学期は普通だったのに、2学期になって急に学級崩壊したということがありました。荒れている学校から逃れ違う学校に行ったからといって、選択した学校にどんな児童がいてどんな担任の先生になるのか分からない以上、回避できる問題とは思えません。
しかし逆の視線から考えてみたらどうでしょう。荒れている学校に新入生が入ってこなかったとしたら? 学級崩壊に歯止めをかけ回復することを、一層難しくするのではないでしょうか? 学校の問題は、子ども、教員、保護者の3者が一体となって取り組む問題です。学校選択制は、現にある学校の問題の解決をより一層難しくするものにしか感じられません。
そしてその選択制賛成の親の発言を聞いて、もうひとつ感じた危惧があります。
旭区にも他の区と同様、被差別があります。私の住んでいる隣の校区の小学校は(具体的には書きませんが)外から見ても他の学校とはいろいろ違う特色があり(私にしてみれば好意的な特色です)、見る人が見れば「ここは被差別の学校なのだな」を分かるかもしれません。その地区の家は他の地区の家より若干安いので、あこがれのマイホームをがんばって購入して子どもが小学校にあがるとき「不動産屋に騙された」「失敗した」とか思う親もいるのかもしれません。このへん私の想像ですが。
そういう動機で「子どもを隣の小学校に通わせたい」と思うのであれば、それはどうなのか? 差別ですよね?! そういう理由で子どもが隣の小学校に行ったら、その子は多分「あそこはだから」という考えを持ちますよね。その親はそういうのを自然に思っているのでしょうが、私にしてみれば許せることではありません。差別を助長する学校選択制――その思いを強くしました。
会場からの区民の発言は、おおむね学校選択制に反対するものばかりでした。
その多くが「統廃合のための学校選択制」というものです。(それは橋下市長自身がそう言っていることです。)これ対して教育委員会は敏感に反応し「市長はそういっているのかもしれないが、教育委員会としては選択制と統廃合の件はリンクして考えていない」「学校の適正配置として12~24学級、1学級35人上限が示されている」としきりに繰り返しました。学校選択制が導入されなかったとしても統廃合は進めたいということなのでしょうが。
学校選択制は橋下の言うように、学校を統廃合させるのが主目的であると、私も思います。しかしその2つをリンクさせてのみに議論するのではなく、論点整理することが必要と感じました。
私の子も1学年1学級の小学校に通っています。私はそれを好ましく思っているのですが、1学級20人くらいになれば、さすがにどうなのかなと思うときもあります。人間関係の固定化など、クラス替えのないことが学校教育に与える影響については別途真剣な議論が必要なのではないでしょうか。
土曜日の意見交換会では「小さな学校の方が目が行き届いていい」という意見が多数ありました。これに対して教委は「統廃合は別問題」と。この平行線のやり取りは、若干不毛な気がしなくもありませんでした。それは必要な指摘ですが、そればかりでもないだろうと思ったのです。
ある地区の学校を統廃合するか否かは、人数ばかりではなく、通学環境や時間なども勘案すべきです。「12~24学級、1学級35人上限」という基準が適正か否かという議論と同時に、具体的な課題も多々あるのです。そういう統廃合の問題を、学校選択制を道具に実現しようとする橋下のあまりに政治遊びにすぎる不真面目な思想には反吐が出るばかりですが、学校選択制と統廃合の問題は、やはり本質的には違う問題です。違う問題をあえて一緒にする橋下を批判するべきであって、「小さい学校の方がいい」という方向に議論が流れるのは、なんだか違うような印象を持ってしまいました。
それよりは「選ばせる」ということが子どもにどんな悪影響をもたらすのか。その弊害を前に出す方がいいのではないかと思いました。
現実は「自由に選択する」のではなく、「地元の学校を選ばない」ということなのです。そこに潜む思想は何なのか? 子ども自身、違う学校を選ぶという理由付けが必要です。どう考えても、まともな事ではないと思います。
学校選択制には「特色ある学校づくりができる」メリットがあると言います。これに対する区民からの反論として「公教育は指導要領に縛られて自由な学校づくりなどありえない」というものがありました。でも私はこれは違うと思うし、現実がそうであったとしてもそれは指導要領や教育行政を批判するべきでしょう。教委は「淀川に近い小学校は淀川の水環境を調べるなど、地域に根ざした学校づくりをしている」と言っていましたが、特色ある学校づくりは学校選択制でなくても出来るし、むしろ学校選択制とは対立する、地域から生み出されるべきものなのではないでしょうか。その地域の特色、校区に被差別があったり外国人籍の人が多ければそういう特色を前に出した教育づくりが出来るでしょう。そういう(私にとって)大事なことは、すべて学校選択制の枠外にあるのです。
改めて確信しました! 「学校選択制は子どもにとって百害あって一利なし」です。
学校給食について少しだけ。
旭区では現在、弁当箱のデリバリー方式による給食を段階的に家庭弁当との選択制により実施しているそうです。
障害者の子どもを持つ親から、こんな指摘がありました。
「子どもが給食を食べなかった。何で食べないのか訊いても、障害があるから答えられない。同じクラスの子に訊いて初めて分かりました。『そりゃそうやで、あんな冷たい弁当、食べたないわ』と言うのです。」
安全衛生上、おかずの入った弁当箱を冷蔵庫に保管しておいて、配膳時に温かいご飯を入れて配膳しているそうです。民間の調理委託業者にとってこれが一番安上がりなのでしょう。競争入札で最も経済的にやろうとすれば、当然こうなるということなのかもしれません。
橋下の言う学校給食がこれであれば、限りなく新自由主義的ですよね。常温ですらない、冷たい弁当を食べさせる給食。これを最短再来年度から、生徒全員に押し広げようとしているのですから、笑えてしまいます。
私は中2まで九州にいて、中3に高槻に越してきたとき、給食がないことに驚きました。学校が荒れていたのでそれが原因で給食がないのだと思っていたのですが、そうではなかったようで……。
私は学校給食大賛成です。でもせめて暖かいものを食べさせようよ。これじゃあ、ワタミの宅食の方がマシかもよ。ワタミを褒めるなんて、絶対に嫌だけれど。
ちなみに区長の子どももきついアトピーがあり、子どもの通う小学校に給食のアレルギー対策を求めたが「一人だけ違う給食を食べさせるわけにはいかない」といわれ、泣く泣く公立学校を諦めたといっていました。そういう給食も最悪ですね。でも私が小学校のとき、違う給食を食べたり、家から弁当を持ってきている子どももいました。個別事情で対応できるし、難しい問題じゃないと思うんですけれどね。なんなんだろうなあ、この画一的対応は。区長は「そこは今後の課題で対処していく」と発言していました。その他にも「保護者の中に入っていって説明会をしなければいけないと考えている」と発言するなど、私には好感が持てる区長でした。そんな区長も、公募制の橋下肝いりの区長にすげ替えられてしまうんだろうなあ。
(カラン)