8/15に「加害の歴史にしっかり向き合ってこそ平和な未来を築くことができる」という集いが大阪・エルシアターにて開催され、その続きです。
高里鈴代さん(基地・軍隊を許さない行動する女たちの会共同代表)の講演です。
「戦後70年:沖縄から軍隊の暴力を見据える!
145ヶ所の日本軍慰安所、そして米軍基地・軍隊の島へ」
1.沖縄戦ー天皇制護持の“捨石戦”
・本土防衛のために1944年3月 陸軍第32軍創設
・沖縄を「不沈空母化」から長期持久戦のための「全島要塞化」へ
・満州や中国山西省、さらにシンガポールの前線部隊、国内では千葉、神奈川の部隊等によって編成され、7月、8月をピークに部隊が沖縄へ大移動してきた。
・沖縄の女性への強かん事件が頻発し、沖縄最大の公娼地帯だった辻遊郭に将兵が押し寄せるようになりました。
・11万の日本軍に対し、米軍54万人による3ヶ月の熾烈な地上戦に住民を巻き込む。
・軍命よる集団自決(集団死)、スパイ容疑で住民虐殺、強制移住によるマラリア禍、多くの児童・住民が疎開船で犠牲、若年学徒動員。
・8・9長崎に原爆投下した米軍グラマン機ー伊江島で給油
2.沖縄全域に日本軍慰安所が145ヶ所 日本軍の「後方施設」慰安所の設置
・民家を強制摂取が最も多い。公民館、工場、旅館、料亭、部隊が建設。
・貸さない、と断る女性を、「軍に協力しないつもりか」銃剣で脅す。
・母屋を慰安所へ接収、家人は牛小屋に押しやる
・住民、子どもたちも目撃。子どもたちはコンドームを風船として遊ぶ。
・強制接収された民家、軍により焼失「嶺井夫婦がフィリピンで稼いだ賃金で1941年に新築した2階建ての瓦葺き家。夫が軍人として招集され、巡査に疎開を強く勧められた妻が子ども4人を連れて熊本へ疎開したところ、自宅は慰安所にされた。戦後帰ると家は跡形もなかった。日本軍が逃げ出す時、火をつけたと言う。無断で家を慰安所にされ、家を失った嶺井家は戦後親類を頼って転々とせざるを得なかった。」
3.軍の輸送船で連れてこられた
・1944年11月、50余人の朝鮮女性たちが鹿児島から日本軍輸送船で連れてこられた
・1944年末に台湾から朝鮮人女性53人が軍輸送船で宮古へ。途中で空爆をうけ46人死亡。助かった7人は宮古島の慰安所へ。(医薬品調達の任を受けて台湾へ行ったが、慰安婦を運ぶことだったと、宮古の歯科医師・池村恒正さん(当時31歳)の証言)
・空爆を受けた二隻から、朝鮮人女性が60人余も死亡していることになる。
4.辻遊郭の女性たち「慰安隊員へ動員」
・32軍副官自ら行う。ー那覇警察署警部の証言。
・「われわれは国民総動員で戦争を勝ち抜かねばならない。お前さんたちに戦争で戦ってくれというのではない。辻でやっていることを慰安所でやって、兵隊の士気を鼓舞し勇躍敵陣に切り込むよう激励してほしい」と第32軍副官が徴集命令。
・日本軍の陣中日誌の多くは焼却処分されたが、残りは米軍に押収され、後に日本に返還された。それらの陣中日誌には、軍務としての慰安所設営作業日と進捗状況、作業兵の人員、慰安所改築設計図、慰安所の場所などが細部にわたって記録されている。
・日本軍「慰安婦」制度に沖縄の女性たちも組み込まれていた。
5.「皇土にふさわしくない」泉県知事は慰安所設置を拒否
「ここは満州や南方ではない。岡山や鹿児島に慰安所をつくれ、といえるだろうか。いやしくも皇土の一部である。皇土の中に、そのような施設をつくることはできない。県はこの件については協力できかねる」
第32軍司令部が、県当局に軍人専用の「慰安所」を設置するよう申し入れてきたことに対しての知事の姿勢であった。軍に非協力、転出。
6.戦場に置き去りにされた女性たち
米軍の上陸作戦が始まると、豪への移動する部隊とともに、女性たちも豪の中で「慰安婦」の仕事や雑役をさせられた。糸数豪(アブチラガマ)内に二階建ての小さな慰安所が造られ、朝鮮人「慰安婦」6~10人、沖縄出身「慰安婦」6、7人が目撃されている。
野戦病院新城分院(ガラピ・ヌヌマチガマ)では、朝鮮人「慰安婦」が地元の女子青年たちと一緒に、患者の便器・尿器の始末、食事や水の世話などを
していた。
しかし、部隊のさらなる移動時には、「慰安婦」は戦場に置き去りにされた。八重瀬町では、17から18歳ぐらいのモンペ姿の朝鮮人「慰安婦」3人が民家に隠れて泣いていた。
糸満市でも、朝鮮人女性14、5人が豚小屋に隠れていた。彼女たちは土地勘もなく知り合いもいない戦場を逃げまどい、その中で多くの人が命を落としたと思われる。
7.何人か生存し、故国に帰れたか
米軍報告書「沖縄からの送還朝鮮人名簿」(1945年10月、11月)
・ 総勢1584人中97人は女性と推測される
・ 「引き揚げるまで宿舎と食事を提供。本島各地から40人、離島などのそれ以外から110人と合わせて朝鮮への船を待っている。」(林博史教授が米公文書館で)
英語のキャプション「日本軍によって沖縄に連れてこられた朝鮮人『慰安婦』たちは、11月にキャンプコザに集められ、朝鮮に引き揚げた。これらの女性たちは彼女たちが捕らえられた時から故郷に送られるまで、軍政府にとってはいつも問題のたねだった。彼女たちのうちの何人かは、軍活動の初期の段階では、看護婦として住民の病院で働いていた。」
8.戦後、宮古で、野戦病院で、
・宮古では、軍民とも収容所に送られず、復員が修了する1946年2月まで、日本軍は住民と共存していた。復員する日本軍の行列に石を投げながら泣き叫ぶ「慰安婦」たちの姿も記憶されている。
・ 野戦病院で看護師として働いていた朝鮮人「慰安婦」は敗戦通告後、喜びを隠しきれず、バンザイ、バンサイと抱き合って喜んだ。「私たちはもう日本の属国ではない。独立した朝鮮国民なのだ、敗戦国民の看護などまっぴらだ!」
・ でも、帰国の時別れを惜しんで涙を流していた。
9.ペ・ポンギさん 1991年10月 那覇市で77歳の生涯を閉じる
・渡嘉敷島の「赤瓦の家」
10.平和のいしじ 女性たちの名前は刻銘されていない
・死亡が特定できないのは、女性たちの輸送には名簿がない。源氏名で呼ばれていたので、本名が分からない。
・ 徴用された朝鮮人男性は、遺族への確認で刻銘されている。